午前2時に起きちゃったから徒然に。
オーラについてネットで読んでいると、猛烈に眠くなって、バシャールのいう活動期である今頃目が覚めるという。
今日はほとんど本じゃなくネットばかり読んでいた。
見える妻と見えない夫、のブログは全部読んだ。
最近、幽霊が見えるひとは統合失調症だと思えという言い切りを読んで、
いや、なんだろう、そうじゃないというか、
幽霊が見えるか見えないかが統合失調症を分かつというより、
そもそも誰だって統合失調症だというほうが腑に落ちる。
統合失調症である誰か、とそうではないわたし、を敢えて分けるのは、
なんのために?と思って不思議だ。
幽霊見えたっていいじゃん。
わたしは見えないけど。
中学生のときに買った本に、「正常と異常のはざま」というのがある。
「時間の本質とは」というのもある。
これらは同じ出版社から出ている同じシリーズの装丁だった。
何が正常で何が異常かということが、昔から実に不可解だった。
つまりその人自身、の立場から、心の目ん玉から世界を眺めたときに、
誰だって自分自身を基点とせざるを得ない。
病識がある、ない、ということがあるけど、
あろうがなかろうが、
自分の見えたことを単に見えたこととして、表現することに、
社会的な抑圧がかかるのは、わたしは、
いやかけるのは結局自分自身なのであれ、
あ、そうか、じゃあ関係ないなあ。
幽霊が見えるのは統合失調症だ、という人からすればオーラが見えるなんていうのも統合失調症に分類されるのだろうか。
見えないはずのものが見える。
はずってのがどこから出てきたのか知らないが。
気の迷い、なんていうけど、「気」の及ぼすものを、
そんなに軽視してしまっていいのだろうか、という「気」が、わたしはするけど。
オーラの人は前世療法をする人だ。
わたしは前世はあるかないか、というと、あるでいいんだけど、
自分としてはまったく記憶にないし、
思い出せるのなら思い出したいような、
つまりあるのならばカルマを解消したいし、その手助けになるものとして前世療法がある、というのはまったく、そんな方法もあっていいな、というくらいに思う。
でも前世から持ち越したカルマ、その痕跡が、
今も影響を及ぼしているのだとすれば、
今という素材、今という情報からそれを解ける可能性はもちろんある。よって、必ずしもそれがわたしにとって必要かどうかでいえば、
必要ないのかな、と思う。
幽霊が見える知人で、見えてよかったと思えるのは、危ないものに近寄らずに済むからだという。
わたしはこれを聞いてそんなものかなと思いつつ、
なんだろうなそれは、という疑問がわいてきて仕方がないものだった。
これはふと掴んだ糸口でまだ消化しきれていないもの。
統合失調症といえば、「わかっちゃった人たち」だったか、他の本だったか失念したけど、
現実感が乖離するとか、
現実と自分の間に薄いガラスが一枚あるようだとか、
そんなふうに表現される経験が誰かや誰かにあり、わたしにも感覚的にわかるような思いがある。
ビリー・ミリガンが、ベールを感じてそれを通して現実を認識している、といった感覚が、なんとなくわかる。
それって病気っぽいと思うと同時に、
果たしてそれは病気なのだろうか。
目覚めへの一歩を前向きに踏み出したとは言わないが、敢えて一歩後退することによって、
現実と一体化している自分に変容を与えたというべきじゃないだろうか、という気がする。
皆、ベールを被っているんです、わたしは思わずそれを取りなさい、と怒鳴りつけたい気持ちになりました、と言っていた人がいる。
それは感覚としてわかる。
つまり、ベールを感じることが異常なのではなくて、
むしろ逆説的に、ベールの存在に気づかないことが、異常とは言わないが、この世にありふれた光景なのではないだろうか。
OSHOはこのベールをいたずらに、
というのは、同じ音だけど徒に、ではなく悪戯に、
外しちゃってごめんなさい、と言ってこの世を去ったという気もする。
波動が高いとか低いとか。
スカイプや実際会ったり、で交流する友人を攻撃しているつもりはないんだけど、
あっもしかして彼女にストレスを与えているかもしれないという気はして、わたしはいったい何をしているんだろう、と思うし、あきれる。
OSHOが、人と関わるならば、本当にそう願うのなら、あなたは人から憎まれることをも引き受けなければならない、というようなことを言っていたのを、思い出す。
すべては自由である一方で、
目覚めよ、というキャンペーンが世の中にあることも、わたしは感じている。
昔のことは知らない、覚えてない、でももしかすると昔から、
というのは二千年よりもっと前から、
そういう教えはあっただろうと思う。
たとえば、イエス・キリストがそうだし、ブッダがそうだ。
わたしは目覚めたことのない人なんていないと思ってるんだ。
記憶になけりゃ経験に勘定しないとすれば、その人は目覚めたことはない人ってことになってしまうが。
眠っている間に魂はあの世に充電しにいってる、という話がわたしは好きだ。
眠っている間、マインドはお休みだ。
ってところまで書いて、明晰夢ってどうなのと思って調べていたら思わぬ面白いサイトなんか見つけちゃって、読みふけってしまった、いかん。
ホ・オポノポノ、これは別なる友人も言っていたと思う、わたしも何となく知っていた、それでふとこないだ図書館で見つけて惹かれたので借りてみた。
要旨はこうだ、
「ごめんなさい。ゆるしてください。これを引き起こした原因はわたしにあります」
と唱えなさい。
そしたらもう全部うまくいくんだぜというほどの、オシ。
えー、なにそれ。
と思っていたが、試しにやってみると、いやこれはいい。
仕事で、怒っている客ってのがいる。
怒っているので、マナーも悪く、何なら自分が怒っているってことをアピールしたいためだけにさらに悪く、従業員に当り散らし、罵る。
当然わたしは厄介だなと思うわけです。
で、件の呪文というか祈りというか、を唱えてみると、
不思議と、笑えるようなことがどんどん起きる。
しまいには怒っていたはずのその客まで笑っている。
あ、これは、すごいなと思った。
ゆるしてくださいっていうのは、なんていうか、それまでにも何かどこか色々と接してきたことのある、いわば魔法のフレーズ的なものだが、
これを唱えることに抵抗のある精神もあるだろうなと思う。
そう、今唐突に思い出したけど、広島の原爆ドームに、平和公園に、
ゆるしてください、わたしたちは二度と過ちを犯しません。
だったかな、
これをわたしは中学生のときに知って、
なんだそれっていう不思議さと不条理さと、かすかな苛立ちとを覚えたものだ。
いったい誰が誰に謝っているんだっていう、
この謎の低姿勢に関して、
不愉快さと怒りを感じた。
こういうことでも、「ゆるしてください」というフレーズの、
だから、抵抗があることがあるというのは、なんとなく想像できる。
でも今思うに、
「ゆるしてください」だろうが、「ゆるします」だろうが、要するに「ゆるし」、というものには、
圧倒的なパワーがあるように感じられる。
原爆関連でふと「クレヨン王国」も思い出したな。
まゆみ、とサード(さぶろう)の物語。
道中出てくる、平たい大きな病んだ足をもつ、憎しみを体現するかのような女性が印象的だった。
あの挿絵もとても好きだったなあ、あれは、不思議な話だったなあ。
最後まで読んだのかどうかも覚えていない、オチを覚えていない、
ただ幻想的な雰囲気に惹かれていた。
読み直してみようかな。
ゆるし、は許し、であり、許可でもある。
これは、(自分を)癒すこと、(自分が)癒されることを許可しますという、魔法のようなワードなのじゃないかな、という気がする。
そうして自分を癒すことを選択できると、許可できると、
そのあたたかい波動は、周囲にも及ぶのではないかな、という気がする。
どんどんあるので、どんどん次へ行きますと、
ふと検索して飛び飛びしたサイトに、
波動が高いのと人格が高いのは必ずしも一致しないよ、という、例えば、
のび太とジャイアンだったらジャイアンの方が波動が高いんだよ、
というのを読んで、
いや。
まあ、そうと言えばそうだなあ。
と思った。
しかしその例え、どうなのという気もするが、
のび太?ジャイアン?誰それ?という人はおそらく少数派であろうことを鑑みれば、良い例えであるのかもしれない。
ちなみに、余談だけど、わたしは藤子不二夫は天才なんじゃないかと驚嘆している。
そういうことを、思い出しつつ、仕事をしていると、
よその店で負けちゃった客が、
負けた口惜しさと怒りでテンションの上がったまま、よその店で同じテーブルについていた他の客の頓珍漢さに悪口を言う、あんなんヨウゴやでと口走る。
わたしの常識というか、持って備えた人格というか、素朴なる善悪観からすれば、それはあかんと思うんだけど、
でもどこか、そうした思いつきで発した一言だけにフォーカスするのではなく、全体を見れば、
こういうのも波動が高い状態なんじゃないかなと、
高い低いなんて相対的なものだから、わたしからすれば、というほどのものでしかないが、思うのです。
あとなんかもういっこくらいあった気がする、
そうだ、
件の友人とスカイプしていて、「他人は存在する」
と言っていたことが実に印象的で、興味がやまない。
果たして、他人は存在するのか?
この場合、「他人」もそうだし「存在」もそうだし、「する」もそうだし、
色々とこう、糸口を掴んだかのような、フレキシブルな探求したがりのマインドの動きが活発になる、
この感じって、たしかに嫌いじゃないなあ。
わたしはマインドを嫌いなんかではない、もちろんない。
わたしは、マインドのことをすごく、頼りにはしていないが、ともかく好きなんだ。
そんなこと考えちゃうの?そんなこと問題にしちゃうの?
すげーな、っていうある意味リスペクトはある。
すっげーな、オラわくわくしてきたぞ、
っていう。
どうでもいいけど理想の男性像は?と聞かれたら、そんなもんねーよ、と思うが敢えて言うならば鳥山明えがくところの孫悟空だし、
誰か会いたい人、有名人とか、いるとすれば誰?と職場にかつていた、男の子、
に聞かれたときにまったく思いつかない、別に誰に会いたいとかないな、
と答えたけど、
今思いつくのはババジだな。
ババジ、会いたいや。
雨上がり、ガソリンスタンドからは虹色の窪みがこぼれていた。
「わかっちゃった人たち」を読み終えて、
「マインド」って言葉が何度もリフレインして、
そうか、マインドって、
すごい面白い、わたしはすごく好きだと思った。
マインドにとても助けられている、マインドがなきゃ、どうやってこの無為をしのごうかと気が遠くなる。
5:56 2018/09/06
地上を走る電車を見ていたら、ええっというくらい上へ上へ上っていった。その後下り、メビウスの輪のようにねじれ、つまり上が下になる、
足が天を、頭が地を向く、ジェットコースターだ。
あれ何、というと職場のNが、わたしはあれには乗りませんという。
気がつけばテーマパークのようなところへ仕事場の皆と遊びにきているらしい。
次、(運転席に乗るのは)のんちゃん、と職場のTさんが言う。
ネクストを指名するかのように。
それはTさんのようであり、高校のときの担任である数学教師のようでもある。
これは夢だ。
夢でそういうことがある。
これはおそらく実際にそう、なのではないかなと思う。
魂が重なるというか、
前世を共有するとか、
前世が変わるとか、
そういうのは、こういうことかと思う。
夢では知人Aと知人B、あるいは知人C、あるいは親が、重なり合うということがあっけないくらいに、ある。
21:19 2018/09/06
夢であれ何であれ、現実であれ、
なんだろう、言葉ではその尻尾しか捕まえられない。
猫の尻尾だ。
それは容易くすり抜けてしまう。
わたしは猫の尻尾を持つだけでその全身を持ち上げられるという特技を持っているけどそれだって猫自身の協力がなきゃできないような奇跡だ。
野良猫にもそれが出来るかっていったら確かに出来ないね。
よほどデキている猫でもなきゃ。
お互いに傷つけ合ったりはしないんだという信頼でもなけりゃね。つまり警戒心の無さがなけりゃね。
幼児期の愛着障害、愛着飢餓が、今現在の苦悩に満ちた、特に密接している人間関係を作り上げている、という本を読んでいる。
わたしはほんとうになんで、こういうものが好きなのかなあと思う。
いやもう好きですね。
自分自身にそれがあるとは思わないんだよ、一ミクロンもないとは言わないが、障害になったり苦痛を及ぼしたりするほどには、愛着飢餓が影響を及ぼしているとは、実際思えないことだ。
だからおそらく、自分の耐え難い苦痛を取り除くためにこうしたものに惹かれるというわけじゃないと思うんだ。
じゃあなぜっていうと、もうだから、好きなんだと思うわけ。
まあものすごく平易に単純に言ってしまうとね。
マインドが好きっていう話をもうちょっと掘り下げたいような気がするが、これ以上どう何を言えばいいのかもわからない。
マインド、この言葉を意識したのは、マインド・コントロールにおいてが最初だっただろうか。
その後、いま思い出せるのはOSHOだ。
マインドはあなたと同一ではない。
マインドを落としなさい。
そりゃそうだ、と思う。
マインドとは精神であり思考であり過去であり未だ来ぬ未来であり。エゴでもあり。
マインドはなんていうか。
そう、唐突だけど美人に関してもわたしには提言がある。
美人とは自分を素のままで価値あるものとして受け容れた人のことだ。
素のままで、と割り込ませることには若干の懸念がある。
素のまま、というほど曖昧なテーゼ、というか、つまり何が素であるのかということが、
これほど人によって違うものはないし、それこそ自分の根源が反映されるものもないだろうと思えるからだ。
わたしは化粧をしないかっていうとするんです。
それは楽しみだからする。
眉毛の刺青、アートメイクなんてしないね、だって毎日毎日描くならば怠ることなく眉を描きたいもの。
わたしは服を着ないかっていうと、着るのです。
化粧をしなくても逮捕されないが、服を着てなきゃさすがに逮捕されるか病院送りになっちゃう。
そうまでしてハードルの高い主張を好むか、選ぶかというと、選ばないわな。迂遠だから。
それにわたしは服が好きだから、服を着ることに何ら苦痛はない。
わたしは化粧が好きだから、化粧をすることに何ら苦痛はない、そこに意外とルーティンはない。
だから素のまま、の素がこのばあいスッピンを意味するわけではない。
実際スッピンじゃなきゃ素じゃないとか言い出せば実に堅苦しいぜ。
意味といえば、
今日図書館で立ち読みした、ブッタカシーダマルカだったっけな、
なんかブタのブッダのマンガで、
ブタA)世界には意味なんてない(断言・前提)
ブタB)そうか意味なんてないのか…(戸惑い・虚しさ)
ブタA)あなたが世界に意味をプレゼントしたらいいじゃない(転換・希望)、
というページがあって、あれ、好きだな。
括弧はわたしが付け加えた。
「ブッタとシッタカブッタ」、だった。
なるほど、笑える。
これいいよね、立ち読みした程度だけど、これはユーモラスでいいな。
最近、百均でシャボン玉キットを買った。
シャボン玉のふわふわ宙を舞う感じと、虹色に光り移り変わる彩りの止まない感じが子供の頃とても好きだった。
風呂場で延々と石鹸でシャボン玉を作っていた。
飽きることがなかった。
さすがに身体が冷えて飽きて諦めるような、時間が経ちすぎていることが懸念されるような(あんた、風呂場で死んでいるんじゃないでしょうねと親が心配する・かも?)、そんなでもなけりゃ、それこそいつまででもやっていられるようなイリュージョンがそこには、あった。
雨上がり、ガソリンスタンドからは虹色の地面がこぼれていた。
ガソリンって基は化石なんだってね。
そんな御託や薀蓄や実際は大人になって知った知識だけど、そんなこと知らなくても、ガソリンの虹の煌きの美しさは、感ずることができるんだ。
そういえば今朝、台風一過、東の空の一角に、小さな虹が見えた。
えもいえぬプレゼントのようにそれは静謐に控えめに、空に映っていた、わたしは虹に向かってちょっと微笑んだ。
[http://:title]
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いじめは、いじめられる側に原因があるって考える人?とかさ。
結局自分が書いた文章、自分が開示した思想というのは自己紹介になる。
それがわたしはこういう人間です、わたしはこういうことを考えています、というストレートな、直喩ではなく、
他人を批判するという間接的な、隠喩であれ、そこには自分自身のもつ信念や思い込みがにじみ出る。反映される。
わたしのことじゃなく、他人について思うことなのだが。
これは、
入り組んでいる。
わたしのことじゃない、わたしがかわいそうだなんて言わない、でも虐待されている子がかわいそうだ。
かわいそうっていうのも本当に不思議な概念である。
上の際、かわいそうっていうのは、自分ではない、自分に使おうとは思わないという謙遜じゃないが遠慮じゃないが、
わたしは「かわいそう」には値しないが、くらいの、
「かわいそう」に対する価値の付与がある。
または被害者である、ということに「重要性」を置いているように思う。
被害者である、ということがいかに見過ごされてはならない重要問題であるかを強調するものである。
いやこれは行き過ぎの話だ。
傷ついてはいけない、ということを言っているわけじゃないし、
そもそも、傷つかないのなら、
わざわざ地球で人間なんてやってないんじゃないだろうかと思うの。
傷っていうのは、朝になれば太陽が昇るというくらい自然な現象ではないでしょうか。
転べばかすり傷は負うし、痛いと感じるのも自然なことだ。
でもそれを自分の落ち度だとか、なにか自分には悪いところがあるに違いないといつまでも悔やむとか、責めるとか、
あるいは、転ぶような道があること自体が悪い、この責任を誰かが負わねばならないとか、
そういうのは過剰だろうっていう話なの。
傷は単に癒されていいものだ。
わたしは過去に、「かわいそうなんて人に向かって言うもんじゃないよ」と友人に言ったことがあり、
時を経て、「でも世の中にはかわいそうって言われたい人間がいるんだ」と知ってカルチャーショックを受けたことがある。
それを、「そうやで」と若干嬉しそうに言われた(気がする)が、
いやこのカルチャーショックっていうのはだから、じゃあこれからはじゃんじゃん人にかわいそうって言ってあげることにした、という話じゃない。
たとえるなら、
「人に死ね、とか糞が、とか言うもんじゃないよ」という、
こういう、誰だって言われて気分はよくないに違いない、という揺るぎない、自明の認識であったものが、
「いや、中には死ね、と言われたいひとがいるんだ?」
まじ?なんで?どういうこと?わからん、というさ。
死ね、と、かわいそうは同一ではない。
これはたとえです。
自分の中で自明であったものが揺れ動いた、だからといって、
価値の転覆というか、180度転回して、これからは「死ね」っていうようにするねとはならんでしょう。
わたしのショックというのは、
わたし自身自明の理としてほとんど意識さえしていなかったものが浮き彫りにされたというショックであって。
女性の研究者がフィールドへ出てみると、あんたたちオスザルは区別はつくっていうけど、わたしからすればメスザルの方が顔の判別つきやすいよと言われて「頭をガツンとやられた」気がした男性研究者の気分、なのであって。
死ねって「悪い」言葉だと思ってたけど「良い」言葉だったんだ、
みたいに単純に転回しないし、
それはやっぱりどっちみち「悪い」言葉だという認識である。
でもなぜそれが「悪い」と感じるのだろうか、ということが、
今度は気になってくるわけ。
なんで「かわいそう」って言っちゃいけないんだろう?
なんで人は人を殺してはいけないんだろう?
みたいな。
なんで人を殺しちゃいけないんだろう?という問いは、
人を殺すのはそれが正義であることもある、というような物言いを、そうかもしれない、と受け容れることでは到底なく、
むしろより強固に、あほか、ありうるか、という思いのすることである。
確かに論破したくなりますよね。
この際相手をやりこめてやろうとか、そうじゃなくて、
わたしが、気になるわけ。
わたしが、そこのとこにこうだからこうだ、という確たる短い答えの持ち合わせがない、ということが、
どうにも気になっちゃうんですね。
まあこれはゲームといえばゲームみたいな、
思考を鍛えるゲームというか、
そういう捉え方でもいいんだけど。
だから、
だって自分が殺されたらいやでしょ?
自分の子供や親が殺されたらいやでしょ?
でもいいんだけど、
それでは、わたしが、物足りない気持ちがしている。
いやそれだってもちろんそうなんだけど、もうちょっと何かないか、と感じるわけです。
そこで終わるのはもったいないな、というか。
昨日かな、おとといかなもう、
友人とスカイプでやりとりしていて、
「がん細胞を優遇すると共倒れになる」的な物言いの引用を送ってきたのを読んで、
がん細胞っていうのは、年寄りや障碍者の比喩なんだよ。
もうね。
咄嗟にばかかと思って、こういう発言をする人っていうのは、
そこでちょっと語気荒く、
誰かをつかまえて社会的弱者と疑いなく切って捨てられる人は誇大妄想、
弱者役を受け容れる人は被害妄想、
みたいなことを送ると、
それは悲しい、と返ってきたのが、
実はわたしは嬉しい。
嬉しいっていうと語弊があるが、
なんか新鮮な気持ちがした。
やっぱりズレっていうか、
歩む段階というか、
彼女がいまいる場所とわたしがいまいる場所は、仮に言うならば、違うんだなと思うことがあるから、
わたしはあまりこう、難解なというか、
彼女の理解や共感の追いつかないことを言ってもしょうがない、という気のするときがある。
あ、やっちまった、言い過ぎたみたいな。
いやいつか、なんだろう、どうだろう、彼女がどこへ行くのかそれはわたしのあずかり知らぬことではあるし、
わたしの見ているものがいずれ誰であれひとも見ることになるだろう、
とは必ずしも思わないがおそらく絶対にそうは思わないというわけでもない、というちょっと曖昧なままに放置している思いがあったり。
わたしが嬉しいと感じたのは、彼女の感じた「悲しい」という気持ちをわたしもかつて抱いたことがある、と思い出すような、そういう経験です。
わたしは自分しか愛していないから、他者の痛みには無頓着だ、共感できないと、かつて彼女は言った。
わたしが疑っているのは、
彼女がいわゆる「毒親」(って言葉あまり好ましくはないが)に育てられたという経験が、およぼす影響について、
疑うというか、望みというか、
そのたぶんあるであろう影響を脱して自分自身に還る、ことは可能なんじゃないかという。
スカイプでやりとりする件の友人が送ってきたスレッドに、
「わたしは彼女の糧ではなく餌にされたと感じた」ってのがあって、
これも、
なんだそりゃ、と言っちゃうとそこで終わっちゃう。
糧でも餌でもいいけどさ、と返信した。
糧っていうと良さげだけど、これ糧でも餌でも同じなんじゃない?
要するに自分が消化されるわけでしょ?
消化される食べ物として自分を捉えている。
そしておそらく、自分も立場が変われば相手を消化する食べ物のように扱うのだろう。
そういう構図が、この発言をした人の中にしっかり根付いている。
そういう構図、そういう構想、そういう価値観が。
よく、
この人味方かなと思うとものすごく頼ってしまうというような、
もう、
味方、の意味からわからない、というか、おかしい。
つまりそもそも二元的、
敵か味方か、白か黒か、0か100か。
いじめに加わらなくてもそれを見ているだけの人も加害者だ、っていうの、
わたしあれ嫌い。
とはいえ、わたしにはその罠に落ちかけた経験がある。
「子どものねだん」(タイにおける児童売春を扱ったレポ)を読んであまりな悲惨さに、あまりな無力感、虚無感におそわれて、
これを手をつかねて何もしないわたしも、加害者の一人である、というふうに思ってしまったことがある。
しばらくそれにやられていたんだけど、
「ボーイズ・ドント・クライ」を観て、当時性同一性の子と暮らしていたから、もしこの子がそんな目に遭ったらわたしは相手を殺しに行くと心に決めたとかね、
なんの「もしも」だよって話なんだけど。
こういう義憤にまつわる仕掛けあるいは罠っていうのは、
すごく巧妙に自分を騙すよね。
そう、もう自分を騙すんだよね。
いじめっていうのは、いじめる側もいじめられる側も同じ価値観、一枚のコインを共有していて、表になるか裏になるかという、
わたしは何があっても絶対に裏しかやりませんという人もいるだろうが、
裏をやらなきゃ表をやるしかない、
わけじゃなくて、
そのコインを手放すという選択肢だってありうることには、そこで追い詰められる人たちは、気づいていない。
気づいていたとしても、それが何だってなっちゃうんだね。
手放すことはまるで「現実的」ではないというかね。
食うか食われるかなら食われます、
みたいなさ。
いやわたしはどっちもやらないよ、という選択だって可能なんだよ。
この際いじめに関してはね。
そのコインは手放しても死にゃしないよ。
わたしはいじめに関わったことがない。
小学校でも中学校でもいじめられたこともいじめたこともない。
傍からどう見えようとも主観的真実としてはそうだ。
周囲に起きていることを横目に見ながら、あれは何してるんだろうって共感しがたく思っていた。
快か不快かでいえば、不快だったから、
もしわたしの目の前までやってきたなら、退けるけど、と一人で妄想・奮闘したことはあるけど。
こうした態度を、見て見ぬふりはいじめの一部、みたいな言い方をして、
レトリックを駆使して、
その体制に取り込もうとするのはやめなければならない。
また、取り込まれることはやめなければならない。
取り込もうとすることは、他者への働きかけがいるが、取り込まれないようにするのは、自分ひとりで出来ますからおすすめ。
悪意はないってのが問題なんだな。
なんなら、半周まわって善意である、ということが。
だから、かわいそうっていうのも、そういう問題がある。
悪意があってしていることっていうのはタカが知れている。
いっそ潔いほどだ。
でも善意があっての、正義があっての、大義名分があっての行動ってのには歯止めがきかない。
ギアをあげればあげるほど「よい」からだ。
こういうことを伝えたいんだけどなかなか伝わらないんだよ、友人に。
わたしもそれ、やったことあるけどね、
それはね、
と言いたいんだけど、下手なせいだろうか、うまくない(まんまやな)。
Pにも言われたよな。
それ、いじめはいじめられる方が悪いって考え?とか。
もういいからそれ。
違うよっていうのにもそろそろ飽きてきた。
次行きましょうかということで最近興味があるのが、
認知言語学、比喩、とりわけメタファー・隠喩に関して。
レイコフとジョンソンという人が共著でしるした「レトリックと人生」をこれから読んでみる。
そういえば「わかっちゃった人たち」を結局読んでいるんだけど、
面白いわごめん。
何書いてあるかだいたい予測できるなんて言っちゃって失礼した。
かといって、目を瞠るような内容でもないんだけど、面白い。
わたしにとって目を瞠るような内容っていうのは、昨日なら、本じゃないけどシュタイナーを解説しているサイトで、
動物は人間から排出されたものである。
とかいうようなことだ。
そもそも動物ってカルマあるの?誰かこれについて言及してないの?と思って検索したら、それがヒットした。
わかっちゃった人たち、の一人目、
だいたい、アフガニスタンの問題は?イラクは?とか言うひとって、自分自身から逃げているんですよね、
という言い切りがもう素敵だった。
いじめはいじめられる側に原因があるっていうこと?とかね。
これ、アフガニスタンは?とかって聞いてくる人と同じだと思う。
そうやって次々と問題を出してきて、
自分の外側の問題をいつまでも吟味して、
自分の内側を見ることを避け続ける。
自分だけが可愛い人間なんだ、とか、
自分だけしか愛せない人間だ、とか、
ちょっと待てと思うわけ。
こういうとき、言葉が邪魔をする、というのはよく実感できる。
谷崎潤一郎の「文章読本」を久しぶりに読み直してみようと思ってさっき、最初のほう読んでいたら、
「言語が万能」だと思うのは勘違いであるというような記述があって、
そうなんだよなあと思った。
自分の中にある自覚されていない概念を言語化することによって、
より深い自覚を阻むということが、ある。
もちろん、より深い自覚を促すってこともあるんだけど、逆のこともあるということに注意をはらわないと、右を向いたつもりがいつのまにか左を向いていることになりかねない。
それで自分は右を向いていると人に言葉で説明する。
こうなるともはや混乱しかない。
自分は善行をしていると思っているが実はそうではない事態に陥っていることがある。
正義を行うつもりが、やっていることは人殺しだってことにもなりかねない。
こういう事態を避けるためには、
今日出した結論を明日にまで引きずらないということしかない。
あなたは究極の結論とやらに辿り着けばこれ以上思い悩むことはない、
と考えてそれを求めているのかもしれないが、
そんなことはありえない。
ありえないですから、そんなものを求めるのは金輪際やめにしましょうと呼びかけたい。
呼びかけないけど。
今日のあなたは今日の終わりに死に、明日のあなたは明日のはじまりにまた生まれる。
カルマっていうのは結局、これをそうじゃないと思うことそのものを指すんじゃないかなという気がする。
カルマは過去の痕跡であるというのは、そういう意味でなんだか腑に落ちる説明だった。
わかっちゃった一人目が、記憶なんて捨てなさい、ないほうがいい、というのもそういう意味ではわかるなと思う。
忘れちゃったらわたしじゃなくなる。(宇多田ヒカル・真夏の通り雨、より)
というのが泣けてくるのはそういう背景がある。
忘れちゃったらわたしじゃなくなる、という思い込みは世間を席巻している。セケンをセッケンしている。
いや、
だからもう謝ったじゃん!
許してってばよ。
不幸の連鎖を断ち切り、人並みの幸せを手に入れた私・を自称する…読みました。
友人に送ったスレッドについてわたしが思ったこと。
タイトルを「不幸の連鎖を断ち切り、人並みの幸せを手に入れた私・を自称する、絶賛わが子虐待中の親について」
しかしよう考えたなこのタイトル。
でもおそらく本人に悪意はない。
気になったところを抜粋してみる。
「親は自分語りよりも子供を優先しないといけない」
あれ、これに尽きたか。
いやもうこれに尽きるのかな。
親は自分より子供を優先しないといけない。
どこから出てきたこれ?
これは結局、
結局というか端的にいって嘘ですよ。
嘘というか書き込んだ人の思いこみの現われに過ぎない。
嘘っていうと語弊があるな。
きっと本気だから。
彼女が嘘を吐いているわけじゃないが、これをさも事実のように、現実のように、
つまり自分以外の他者(虐待を受けたという自覚のある親のもとにいる子供)に対しても、自らの思いこみ(事実認識)を当て嵌める言動に躊躇いがない、ということに、
わたしは違和感がある。
ほんとにコメにもあったけど、自分が対決すべきは親でしょってところ。
いやもっといえば親ですらなく自分自身でしょと思うけどまだ、
自分の親の方が。
いいんじゃないですか。
自分の親に言いたいことを、赤の他人である見も知らぬ交流もない、親をやっている人に言わなくてもいいでしょう。
自分と向き合わずに他者に委託したところで何も解消されないでしょう。
カルマは解消されない。
まあ、ごめん、カルマについては勉強中だった。つい出た。
わたしこそ道をそれるのはやめよう。
ところでこの書き込みをした人は自分が虐待された子供であるとすら言ってないんだよな。
みなおそらくそうだろうと仮定してモノを言ってるけど。
少なくともこのまとめ、においてこの人の発言はこのたった一つだ。
このまとめ自体も、ものすごく短い。
そしてコメはとても伸びる。
コメが伸びるまとめっていうのはだいたい良スレならぬ良まとめである、ということは言えるがこれも脱線。
良かはともかく、なんか琴線に触れるんだろうな。
扇情的なんだな。
わーっと皆がわたしも、わたしもと言いたくなるような。
心を動かされる。
戻ると、あなたが向きあうべきものは、あなたの怨念とかわだかまりとか悲しみとか、まとめるとあなたが受けた(こしらえた)傷跡、をまるっと託した他者ではなく、
あなた自身である。
あなたはあなた自身から逃げることによって傷跡をいつまでも癒せずに、苦しんで、苦しんだ挙句の解決策として、
なんと他者の非を正そうとする。
これはいけないよ。
自分自身の傷跡と向き合うことには勇気がいる。
でもそれ、肉体の傷と違って自然治癒しないからね。
いやごめん嘘。
肉体の傷っていうのはわりと皆忘れることが出来るんだな。
忘れることによって、意識しないことによって、
いわば、
傷の再生産をしないことによって、
わかりにくいですかね、
つまり傷について、一秒も疎かにせず常に意識し続けてはいない、という態度によって、
それは、気づけば治ってた、みたいなことになる。
宇多田ヒカルの「真夏の通り雨」、これをわたしはルワンダのジェノサイドを知った頃に聞いたのでまるで、それへの鎮魂歌のように思えて、
涙なしに聞けなかった、涙なしに歌えなかったときがあるが、
その歌詞に、
「忘れちゃったら、わたしじゃなくなる」
というフレーズがある。
すごい悲しくなっちゃう。
忘れちゃったら、わたしじゃなくなる。
まるで解けない呪いのようだ。
まるでそれはカルマを端的に言い表しているような、なんとも言えない、
なんだろう悲しい。
記憶は、あなたではない。
あなたの記憶は、あなたそのものではない。
よく記憶喪失になったっていう設定あるやん。
そんでもう生きている意味がわからないみたいな。
失ってはいけないものを失ったみたいな。
嘘やろこれは。
いやこれは、記憶を喪失した本人ではなく、記憶を喪失されてしまった親とか、配偶者とかが、
そう思う場面の方が多いように「記憶」する。
認知症とかもそうだ。
かつての親が子供である自分のこともわからなくなっている。
ここに喪失の悲しみがある。
でもこれは単にチャンスだと思うけどまあ今はやめとくとして、
戻ろう。
戻る前にふと連想したことだけ、
記憶に関しては、「五億年ボタン」とかを思い出す。
あの設定考えたひと、天才じゃないのと思う。
簡単に説明すると、ここに、ポンと押せば百万円が出てくるボタンがある。
リアルには一秒かそこら。
でも「本人意識」的には、一億年か五億年か忘れたけど、それくらいの時が流れる。
その間たった一人で宇宙空間に浮いているような永久にも近い時間を過ごさねばならない。
でも、それを過ごして、ボタンを押した一秒後に戻るときには、
その五億年を過ごした記憶は失われている。
つまり主観的にも客観的にも、それは外側から説明すれば、ポンと押せば百万円出てくるボタンがここにある。
ということに過ぎない。
さて、あなたはこのボタンを押しますか?
ってやつ。
わたしはそれを漫画で知ったが、この五億年を過ごす期間が実にリアルにというか、苦悩をもって描かれている。
そして、それを読者は知っている。
間接的に経験している。
で、押す?
という問題。
これはもう秀逸としか言いようがないな。
この五億年をただ、五億年と三つの漢字でだけ表すのと、何コマも費やして、その苦悩と孤独とを表すのとでは、
読み手の反応は変わってこざるを得ないと思える。
ちなみにわたしは押しますね。
いやもし目の前に現実としてあれば胡散臭いからたぶん押さない、押せないかもしれないけどね。
まあでもこれは押すか押さないかという結論が面白いんじゃなくて、
なぜ押すか、なぜ押さないか、という各人の理由を一々聞くのが面白いんだけどな。
これはいい問題だなあとめっちゃ感心した。
戻ろう。
つまりなぜ、他人に託すのかな、というのが、
わたしは引っかかる。
おそらくは託しているという認識もないのかもしれないが、
それは託しています。
でもこれは本当によくある、日常的な一コマだと思う。
転化するというか、転写するというか。
自分の味わった痛みがある。
この痛みをどうすれば解消できるのか、治癒できるのか、
それがわからない。
ひとつの方法として、忘れたフリっていうのがある。
実際に忘れていると自分では思っている。
でも実際には忘れていない。
忘れていないのだが、本人に自覚はない。
自覚はあくまでもないが、忘れていない証拠に、子供が出来て自由に言いたいことを言い、やりたいことをしている姿を見ると、思い出してしまう。 自分の過去の傷跡を。
だが思い出している(再生産している)という自覚もない。
こういうことが、この場合見も知らぬよその親、
それが虐待を受けたと自認している(=自分に類する・自分を容易に託すことが出来る相手である)他者に対しても発揮される。
自分に類する、属する他人を見て、
あなたは克服したと思ってるんでしょう、そうじゃないよ、と言いたくなる。(ほとんど意地悪なまでに)
真実は、
ソレを克服していないのは彼ではなくあなたなのである。
あ、この人は虐待されていたとは一言も言っていないのだった。
でもこういうことが、たとえわかりやすく、目立つように虐待されていなくても、ほとんどすべての人において起こりうる日常の一コマなのである、と思う。
つまり自分が解消すればいい問題を、棚上げにして、
他人の問題に関わろうとする姿勢。
なぜ他人の問題に関わりたいのだろうか。
かわいそうだから?
それはいけないよ。
ここは「かわいそうだから」に絞って言うけど、
相手自身がかわいそうだと思ってもらいたい、そうすれば救われるんだという状況がある、ということはある。
でもそうではなく、
相手はかわいそうだなんて認定されたいなんて願っていない、思ってもみない、
そういうときに、
「あなたは気づいてないかもしれないけど、かわいそうなんだよ」
「かわいそうに。辛かったろうね。もう大丈夫だよ。わたしはあなたの自覚すらしない痛みについてまでわかっているよ」
と、
いやだからそれはてめえがてめえに言ってやれって話なんだよ。
そうやってほとんど「いいこと」をしているかのように、巧みに自分からは目をそらす姿勢、やり方っていうのは、
わたしは上手いと思わない。
名古屋の鬼について、わたしが嬉しかったこと。
ずっと書こうと思っていながら書けない、ほかのことに気をとられる日が続いていた。
で、これだけは書き残しておこうと思うのが、
名古屋の鬼について。
殺人事件を起こしている。
とされている。ニュースでは。
まあおそらくその通りなんだろうなと思う、というか、そういうことでいいやというか、
それでもいいや、というかね。
わたしは彼と出会ったとき、なぜか知らないけどとてもわくわくして、笑ってしまったんだ。
ディーラーをしていて、彼が客で、
一千万円の時計、二千万円の車、二三百万円の指輪、それから、それから、という金尽くしの彼が、博打なんてものをしにきている。
彼が、自分の収支、勝っているか負けているか、どのくらいなのか、具体的な数字と自分の財布の中身とを照らし合わせだしたときに、
わたしは大いに笑ってしまって、
あなた、博打しにきたんでしょう?
一か八かの一発勝負をしにきたんでしょう?
金の勘定ばかりやってないで遊びなよ、勝負しなよって心から思ってそう言ったの。
わたしは彼のことを何も知らないけど、彼に対して恐怖心はないんだ。
彼は世間では恐れられたり、忌み嫌われたり、しているのかもしれないけどわたしは、そんなふうには思わない。
あの子は鬼なんだよって思っている。
鬼って言うのは比喩じゃなくて、もうそのもの鬼ね。
桃太郎が退治しにいったやつね。
彼はわたしのことを妖精みたいだって言った。
すごく可愛い、すごく素敵で魅力的だ、ご飯に行きたい、フレンチをご馳走するよって言った。
実際にはフレンチじゃなくて寿司だったけどね。
わたしは、彼がどういう人生を歩むのであれ、
どういう何の何なのであれ、
妖精みたいだ、と言ってくれた賛辞を確かに嬉しくにこにことして受け止めた、ということだけは、
伝え得ないかもしれないが伝えたいな、という気持ちがしている。
ひとは一人になりようがない。一人なんてもう人とは呼べない。鏡のないところでどうやって自己を認知できるだろう、という比喩。
言語バーが消えたり、動作が遅かったり不便でもうだめかなと、このPCが、そう思って二万円くらいであるというPCを探していたらあるにはあった、
しかも小っちゃ!というコンパクトさで。
レビュー見ているとOSが入ってないとかOSはインストールできるとか、
本当にこれ使えるのかなあ、設定とかわたし一人で大丈夫かなあ、
と思うとついパパを頼りたくなるが、だめだろうな。と思う。
人は一人では生きられない、というが、
前にも何度か思ったことがあるが、
そもそも人がいったいどうやって一人になれるというのかね、と思うのだ。
人はデフォルトで一人ではないし、オプションによって一人になれるわけでもない。
一人で生きられるわけがないんだからさ、とわざわざ言うまでもないし、
一人になったらどうしよう、というのもまさに実体のない恐れとしか言いようがない。
一人でいいよ、とたまに口にするけど、実のところわたしは一人がどういう状態か想像もつかないと思っている。
一人なんて寂しいじゃない、なんていうのも、何をいわんとしているのかわからないしあまり興味もない。
一人、という状態を信じていない。
誰かしら人がいるじゃん。
家族じゃなくても今のところ友達じゃなくても。
だから伴侶もいらない。
子供もいらない。
子供を恐れていた理由の一つに、自分の子供をえこひいきしてしまったらどうしよう、というのがある。
これはよく喩えて言うんだけど、自分のとこにいた猫が帰ってこない、事故に遭って死んでしまったなら悲しいけどもう仕方がない、でも、
もし保健所なんかに収容されていてわたしの迎えを待っていたらどうしようって心が千々に乱れたことがある。
でも、じゃあもし迎えにいったとして、そこには自分とこにいた猫だけではなく大勢の猫たちがいる。
そこでわたしのとこにいた猫、だけを選りだして連れて帰る、と考えるともうこれは幾億とも知れない苦悩がある。
わたしはそういうのが耐えられないんだよ。
子供のときに考えたことがある。
お母さん、お父さん、弟、(妹はまだいなかったと思われる)いずれかだけしか助けられないとしたらいったいわたしは、
と思うともうだめだね。
まあでもだめ、なんだけどそのときは、親だなと思ったな。
兄弟っていうのはわたしのなかでは同列なんだけど親はそうじゃない。
兄弟っていうのはわたしにとってわたしに連なる者というか、同列っていうか、わたしに類する者、わたしと同然、みたいな、
つまりだから心配はない、というか。
でも親っていうのは、なんていうか、他人なんだよな。
ちょっと心配だ。
子供をえこひいきしてしまったら、と思うと子供なんて持つだけ苦悩の種になるというか、
恐れの種を蒔くことになるというか、
そういう感じってたぶん、友達とかはわからないだろうなあと思う。
自分の子だけは可愛いっていう感覚が、わたしにはわからないというより、奇異に思える。
その確信はどこから来たのかと本当に不思議に思う。
まあ自分の子はいたことないので、いたらわかる、と言われたらそれまでだけど、たぶん、いや。
自分の子だって他人なんだけど、
果たして自分は他人と思えるだろうか、どうだろうか、心配だ、というような恐れがあった。
果たしてわたしはそこをクリアできるだろうかというような。
そしてクリアできない限りにおいては、わたしが子供を持つことはないだろうと思った。
つまりまだクリアしていないし、クリアしていないままに子供を持てば、やっぱりわたしは自分の子だけは特別可愛い、と思うんだろうなあと、
思うとすれば何も奇異ではないじゃないか、
奇異なのはわたしがそのことを恐れているってことだ。
自分の子は別格に可愛い、
ヨソの子とは違う、
という感覚を疑いもなく天然自然のものと出来ることが、わたしにとっては驚異的に思える。
そしてそういうことが、わたしには昔から、他人と分かち合えない感覚としてあった。