鏡像反転。

 今日も予約した本を受け取りに図書館へ寄ったら、「なぜ私たちは過去へ行けないのか」という、およそ過去を懐かしむでは足りず、戻りたいなどという気持ちもあまりないわたしには不似合いとも思える本をなぜか手にとって、途中を開くと、
「鏡像反転」という言葉から引き込まれてついには借りてきました。
 鏡って、左右には反転するけど上下には反転しない、これって不思議なことじゃないですか?という問題提起で、
 いや、そういえばそうだ、
 だがこれは、要するに受け取る我々の認知システムによるものなのでは、つまり脳が、などと推測しつつ、色んなことを思い出したりした。


 幼い頃、やはり鏡に映る反転文字が不思議で、鏡を真似て反転文字を書いていたことや、
 少女の顔を描くのが好きで毎日のように一日一枚は自分が美しいとか可愛いとか思える顔を描いていた、
 あるときふと紙を裏返してその絵を見たとき、あまりに左右非対称なバランスの悪さに心底驚き、裏側から見るまでもなくバランスの取れた顔をあらかじめ描けるように腐心したり、していたことを。
 
 よく、右利きの人は紙面に向かって左向きの顔は得意だが、右向きの顔は苦手だということが、言われておりそれは果たして事実である。
 これは脳がどうこうなどという理由や原因を俟たずして、うおっほんまや、というような「経験」にもとづくものであって、
「両利き」寄りの人には実感されづらいことかもしれない。
 鋏なんかでも、ふと左で切ろうとしたらどうしても切れなくて、悪戦苦闘した経験ののち、随分たってから、鋏には「左利き用」がある、ということを知ったり、とかね。

 わたしはわりとのほほんとしているらしく、中学生、高校生くらいまで、
 周囲の人間は皆変わっている、と思っていたが実は、周囲の人が皆変わっているのだとすればむしろ、「変わっている」のはわたしの方なのではないか、という認識の転換に気づくことがなかったりした。
 とはいえ、日常の生活を送ることに関してはわたしはメジャー寄りだ(右利きとか、外国人もいるけど自分は日本人とか、うーんと、孤児ではなく両親がいるとか。もっとぐっとくる例えは思いつかないのか。つかない)と無意識に無自覚に思っていたので、
 成長するにつれ、「自分が女とかいうものらしい、という違和感」がとりわけ、のほほんとしていた自分にもたらした恩恵は大きいと思っている。

 鏡はたしかに、今更ながら、不思議だよね。
 江戸川乱歩も「鏡地獄」なんていう掌編を書いているよね、と思い出して読み返したくなった。 
 

「相手を試す」「世界に挑む」ことで「自我」の限界点に到達することは出来ない。モンスターおかあさんの続き。

 前回のページ(下)の追記です。

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 彼女の「心の闇」について慮っていた人もいる。
 わたしもそれはふと思った。
 何があればこうまで「病気」を進行させうるのかと。(病気というものがあるとしてだが)
 しかし、「何」があれば、わたしは「やむを得ない」として彼女の心情に寄り添えるだろうか。
 外側から見れば「こんなこと」や「あんなこと」、があった、でも現実として起きた事柄を内面的に「どう受け止めれば正しい反応」と言えるのか。
 正しい反応、そんなものは、「ない」としか言いようがない。

 たとえば「自分は愛されたことがない」と言っていた。
 これはおそらく彼女の心情として真なのであろう。
 彼女は主観的真実としてつねに「被害者」である。
 そしてもしそれが「真なり」とすれば、この世界はどれほど荒廃した、危険に満ちた、ぞっとするような悪意や怒り、圧倒的なまでの無力感、また悲哀や絶望で成り立っていることだろう。
 これはまさに冗談抜きで「ぞっとする」ような世界であると言わざるをえない。
 彼女の息子は「おかあさんがかわいそう」と言っていた。
 わたしは仮にも人が、仮にも人に向かって「かわいそう」などと言うのはどうかと躊躇われるが、この場合、この親子という関係性においては、子から親への「かわいそう」という言葉がけは、非常に心を打つ。
 あえて断ずるが、こうした破壊的でいくらこちらが思っても報われない親(むしろ加害者はおかあさんである)に対して、「かわいそう」(おかあさんは被害者である)と思えるような心根の優しい子が、
 外の世界で起きた「些細な」出来事、「他者との関係」を深刻に受け止めて、「自分は被害者である」という立場を取りうるだろうか。
 もちろん親からの影響で「この悪意に満ちた」「自分の身は(他者を傷つけても)自分で守らねばならない」世界観を引き継げば、そうもあるかもしれない、
 だがそうは思えない。
  

 というより、自分の身は他者を傷つけても、の、「他者」が「傷つく」という認識が彼女にはそもそもあるのかどうかが疑わしい。

 ないでしょう。

 いや、ないというのも正確ではないが。

 そしてここがまったく複雑怪奇なのだが、「他者を傷つけることは出来ない」、それもまた「真」なのである。

 だからこそ彼女はここまで他人を振り回すことが可能なのだ。


 その昔、「Itと呼ばれた子」という本があった。
 わたしはこれを何度も嫌だなあと思いつつ、読まずにいられず、かといって買って帰ることなど到底引き受けがたく、書店に通いながら立ち読みにてほとんど完読してしまったことがある。
 これは児童虐待を乗り越えて一児のパパになるまでの話なのだが、
 ここで気になったのは、彼は兄弟のいる長男なのだが、いじめられるのは常に彼だけなのである。
 おそらく高校生くらいであったわたしは、「いったいまたなぜ?」という義憤を通り越した疑問が実に不可解であった。
 そこには行為に対する「一貫性」というものがない。
 無意識にそれらが行われているのではなく、行為への意識的な恣意、意図性、があるように思われてならない。
 わたしは「親」になったことはないが、
 だいぶ大人を経験して思うに、いくら「子」とはいえ「相性はある」ということは、あるんだろうなあと想像にかたくないが、
「彼」に対しては常識を逸する虐待を加えておきながら、まるでさらにそれを際立たせるかのように、「彼」の同胞・きょうだいには手を出さない。
 おぼろげな記憶で書くのもどうかと思うが、
 たしか、「彼」の弟が「彼」の身代わりになりかけたことがあった。
 それはまるで、おまえが逃げるなら弟を同じ目に合わせるぞ、という脅迫をにおわせる場面であった。
 というくだりがあったように思う。
 
 ところでこの「モンスター・マザー」においても、自殺した彼には弟がいたが、このモンスター級の母親は、弟には「なにもしない」「なにをしても叱らない」のだった。
 いったいここに何が起きているのだろうか。
 
「やさしい」というのは、まったく諸刃の剣である。
「正しくありたい・あらねばならない」気持ちに付けこむのが悪魔的に巧妙である人間はまた、「やさしくありたい」と願う人の心にも、情け容赦なく踏み込んでその陣地を荒らす。
 彼女は「人の心を試している」のだ。
 それは無意識に行われているかもしれないが、無差別には決して行われない。
 衝動をとめようもない自分、は結婚するまではなりを潜めているのである。
 結婚するまではかわいそうな女性だとしか思いませんでした、とかつての夫たちは言う、でもいざ結婚が成立すると、彼女はまさに豹変する。
 こんなことは人によるとしか思えないが、彼女にとっては「婚姻関係にある」ことが、ひとつの、なにか、抑えがたき自らの衝動を、
 踏み越えてもいい許可を得た境界線として明確に見えている。
 ここを乗り越えさえすれば大丈夫、なのである。
 いや全然大丈夫じゃないんだけども。
 
 そう、これは彼女だけではなく、ある種の、いやもしかするとわりと多くの人には何がしかの(自分なりの)「境界線」が見えており、
 つまりそれは何かというとパターン化された「関係」における普遍の「規則性」である。
 そんなものは「普遍」でもなんでもない、と思える人にとってはひじょうに奇異に思えることだ。
 
 彼女はおそらく自分の親との関係においても、この固定化された決して破られることはない(としている)規則性を当て嵌めているのではないか、と思われる。

 そしてこれは酷なようではあるが、
「そう思わせた親がすべての原因」とすることは出来ない。
 出来ないというより、そんな因果関係を決定的なものとすることには何のメリットも見出せない。
 メリットとは自分が(ひいては世界が)自分をゆるし、癒すためのメリットだ。
 これは極端な例ではあるが、こんな極端な例を持ち出してもやはりそう思う。
 親との関係でおきた齟齬を、親と直接対峙する関係においてしか解決できないということはない。
 親も子もまた「自己」というそれぞれがかけがえのないものからすれば圧倒的に「他者」である。
 ここの境界線(自己と他者)をそれぞれ勝手に引いておきながら、あるいは引かずにおきながら、
 自明の理と解釈するから、おかしな、苦しいトラブルが生まれる。
「自己」の輪郭線を意識するだけで、相手がどうであれ、修復できる痕跡はあると思います。


「相手を試す」だけでは永遠に到達できないのが「自己」つまり「自我」の限界なのだ。

 

 だから、戻ると、

「なにがあれば彼女の事情をやむなし、と思えるだろうか」、

 つまり何があれば彼女の「ありかた」は彼女自身の力の及ばない不可抗力の結果であると思えるだろうか、の答えは、

 そんな「なにか」はないということになります。

 あっ誤解しちゃいけません。

 つまり、そんな「なにか」が存在すると実証して(そもそも実証できないが)損なわれるものを「わたし」は、損ないたくはないということです。

 

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「モンスター・マザー」めっちゃ面白い!

 書くこと(言葉)によって「出来る・可能なこと」の限界を、それを書いている(言葉を操っている)本人が知っている、って大事だと思う。

「モンスター・マザー」が面白くて一気読みした。
 アマゾンレビューにも目を通したが、一気に読んだ、という人が多かった。
 
 わたしは普段図書館で予約した本を読むのだが、返却や受け取りの際、時間があれば(なくても)ふらっと本棚を見て回る。
 そうして予約以外の気になった本も借りて帰ることがある。
「モンスター・マザー」もふと気になって読み出したら止まらないので借りて帰って一気に読了した。
「ノンフィクション」というのは「フィクション」の一部なのだが(表現されたものはすべて「フィクション」である)、
 だから、「ノンフィクション」とわざわざ名乗る形態に対して、少々のいかがわしさというものをわたしは常々感じていたが、
 ここへきて、
「ノンフィクション」の面白さとは、
 自分が思っていたのとは逆に、「あくまでも真相はわからない」という立場を取りうるものでもある、ということに気づいた。
 
 一般的に「フィクション」たとえば「小説」などは、
 語り手の想像した範囲内に世界が収まりきるものである。
 そんなこと言ったって登場人物Aの真実なんて、作者にわかるはずがないじゃないか、ということは、「ありえない」のだ。
 いや、そうまで思わしうる臨場感あふれる「小説」が優れた「小説」であるという一面は肯定的に評価されるべきだが、
 そういうことは置いておくとして、
 基本的には「作者」とはすべてを「知っている」という前提のもとに「小説」は書かれる。
 
 ところが「ノンフィクション」はそうじゃない。
 この場合、「丸子実業高校・いじめ・自殺」事件を、「著者」が取材に基づいて、「できるだけ」再現してみせはするが、
 読み手に対して「これだけがすべて」と受け取らせない余地を「ノンフィクション」と銘打つことによって、残しうる。
 
 ここを批判している人もいたが、これは批判するに当たらない。
 真実とは、著者が記したものに限定されるわけではない、
 って、そりゃそもそもあたりまえじゃないか。
 著者は「個」を超越した「神様」じゃないのである。
「もっと読み手に配慮を」という意見などが、わたしからすればその最たるものだ。
 そんなことにまで責任を負えるはずはない。
 とはいえ、そんなふうに受け取る人もいる、ということを起こりうる可能性の範囲内、として気にかけるのは誰にとっても「自衛の手段」として悪くはない。
 自分の意図とは斜め明々後日の方向から投げられる「反応」に対していちいちぎょっとせずにいられるということは、各人の心の平安にとっては望ましいことではないだろうか。
 いやこれは余談だな。
 
「虚言癖・噓つきは病気か」
 を思い出した。
 この母親は病気である。病気というものがあるとすればだが。
 明らかな人格障害、もしかすると二重人格なのかとさえ思わせる発言が随所にある。
 どなたかもレビューで言及されていたとおり、
 二番目の夫が、アメリカで彼女の飛び降り自殺を止めようとして騒ぎになり、現場に駆けつけた現地警察に、彼から妻へのDV容疑で拘留され、何度か面会に来た彼女が「懐かしそうな表情」を浮かべる、というくだりはもはや、
 文学的な、文芸的な香りさえ匂い立つ場面である。
 まったく破壊的で、常識が通じない。
 こういう人物の及ぼす尋常ならざる影響というのを、もっと恐れずに、早々に断罪せずに関心をもって、メディアや読者は取り上げてみたらいいのにな、と思う。
 当事者でないからこそ持ちうる心の余裕や冷静さを、捉われのない純粋な好奇心として保ち、もっと「あなた個人の事情」を離れる好機として、こうしたミステリ(謎)へ臨む姿勢が、あってもいいのじゃないか。
 
 なんでもかんでも、聞くこと見ることを「自分の事情」に関連させる癖というのは、誰にとっても程度の差はあれ、持ってしまう傾向があるとは思うし、
 また、それを完全になくすというのは難しく、非人情的な感じがしてしまうのも否めないが、
 確かに世界はそれだけ(あなたが過去に経験したものがすべて)ではない。
 
 世界に秩序性・規則性を求めるのは「幼い我々」であって、「熟達を求める我々」ではない。
 この「モンスター」を誰か止められなかったのか、
 という無念や抗議も見られるが、こんなものを止められる個人が果たしているだろうか。
 もっとこの母親個人に対する、肉薄する報告があればそれを読みたいと思う読者はわたしだけではないだろう。
 

〈追記〉
21:21 2018/10/11
 この母親は本当にすごい人だ。
 トンでるね!!
 
 わたしたちは「わからない」ものが怖い。
「わからない」が許せない。
 これはよく言われるように、この際の「わたし」とは要するにエゴ(自我)だ。
 それは「理性」と呼んでもいい。
 
 この人は病気なのだが(病気というものがあったとして)、
 実に興味深いのは、「自分が相手にしたこと」が「相手が自分にしたこと」に見事につるっと何の摩擦も抵抗もなく反転してしまうところだ。
 夫を罵る場面の再現などは、悪魔ってもしかして本当にいるんじゃ?と思わせるくらい、
 ナニモノかに「憑依」されているかのような、迫真性がある。
 
 そしてまた(レビューで)誰かが言っていたように、
 こういう人物は、本当に「相手の弱み」を感じ取ることに長けている。
 学校側が後手後手にまわらざるを得なかったのは、まったく「学校側」の弱みを彼女はわかっていたからで、
 そして、学校だけではなく、多くの人にある共通する弱み、とは、
「いい人でありたい」「いい人でなくてはならない」「いい人だと思われたい」「いい人だと思われなくてはならない」、

 もっと究極的には、「正しくありたい」という思い・願い・それはもはや第二の生存本能とでも呼ぶべきもの、であるのだ。
 ここの弱みを彼女はまったく容赦なく刃物を散らつかせて突いてくる。
 いやこれは比喩ではない。
 実際に刃物をふりまわしたりしているのである(家庭という密室の中では)。
 わたしは彼女の見事なまでの狡猾さ、をほとんど賞賛の念をもって見る。
 彼女の「知らないふり」はもはや「芸・術」の域である。

 

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すでに愛の中、すでに無条件の愛のなかにある。これを喩えをもってして説明することはあらゆる誤謬を生む。いまだ。

「すでに愛の中にある」大和田菜穂・著
 わたしが言いそう、と友人に言われそうなタイトル。
 
 これは、昨日の拍子抜けするほど面白かったかもしれない本、

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に比すると、

 まったく拍子抜けしない、ある意味「面白くない」本だなあ。
 批判しようがないという面において。
 
 皆、自分個人の物語、ストーリーを持っている。
 そして個を個たらしめるストーリー展開、そのリアリティを社会が支えている。

 この場合の個人とか「私」とかいうものは、
「肉体」といわれているが、「エゴ」ともいえるように思う。
「肉体」はたとえば一部が損傷されても「死」なない限りは生きている。
「エゴ」もまた同じで、それは損傷や変容を乗り越えて生き続ける。
 自我意識、というのは本当に不思議でミラクルだ。
 これを乗り物として船に喩えていたのは、うんこくさい(雲黒斎)。

 ストーリーは不思議だ。
 それは、なんていうか、わたしを魅了し続ける。
 わたし個人の話をするなら、わたしは、物語を描く人でありたかった。
 それを切り取って、シャボン玉のように宙へ吹き上げるの。
 こういうことを「純粋」にする人でありたかった。
 でも「純粋」に物語を語るためには、どこまでもついて回ろうとする「自分」が邪魔をする。 

 よく「自動書記」のようなことを言う人がいるが、
 わたしはこれが出来ない。(ほとんどの人が出来ないだろうけど)
 言語の力、言語のもつ有限性、一貫性、整合性に引導を渡してしまうということはあっても、
 これわたしが書いたの?へええということは、よほど忘れ去れるくらい年月が経たない限り、印象に残っていない限り、ありえないだろう。
 それはある意味「わたし」の「コントロール」下にある。
 
「知的」であるということが、邪魔をする、
 この際、
 なんだろう、「個人」を消失することの邪魔をする、ということは、
 よくある。
 必ずしもあるわけじゃないが。
 そんなことを言えば、「知的」でないことが、「個人」の消失を邪魔することだってよくある。
 実際じゃあ、
「我」の消失と「知的」には何の関係性も比例もない。
 ないのだがしかし、
「知的」であることには確かに罠がある。
 その罠は、「面白い」という性格をもつ。
「知的」であることは、「面白く」てつい、夢中になってしまうという性質がある。 

「宇宙人」がいる、と想像することは「知的」なことだ。
「宇宙人なんているわけない」
 あるいはそれは「幽霊」であっても構わないのだが、
「幽霊なんているわけがない」と断ずる人が、だが幽霊でない存在つまり我々はいる、と信じ込んでいるのだとすれば、
 これはまったく「知的」な態度であるとは言えない。
 宇宙人がいないと断ずることが(仮に)出来るなら、我々もいないと断ずることが出来なくてはおかしい。
 我がいない・は不可能だ、ありえないというなら、彼にとってそれはまったく「断ずること」がそもそも不可能な問題なのだ、という他はない。
 つまり、彼に「自分」が乗っている「船」という乗り物は見えていない。
 それは(彼・にとって)存在していない。
 ここの認識なしに、
 つまり「自分」というものもハナから存在していない、という前提なしに、他の何かもまた存在していない、ということは出来ない。その出来なさとは、彼の宣言や断定は単に空虚に響くものでしかない、ということだ。

「自分」あるいは「自分が乗る船」も存在していない、だから「幽霊」も存在していない、ということは言えても、
「自分」はいるが「幽霊」はいない、と断言することはそもそも不可能だ。
 でもこの不可能性を、彼はわからない。

 そう、本を読んでいて思ったのは、自分と他者、というのをこうやって説明すれば、わたしの想定する「彼女」は、腑に落ちたかもしれないのだろうか、ということだった。
  
 このことは確かに哲学じゃない。
 哲学じゃないが、それはそれとして、わたしは哲学を好きだと思います。
 好きだからおそらく、哲学の体裁の中で強引に振舞う昨日の彼が気に食わなかったわけで。
 いやもう強引じゃん、ファッショだねこれは、と感じた。

 それで、話はそれるようだけど、アマーリエという人がいる。
 わたしはこの人の話(宇宙の創生・地球の創生にまつわるエトセトラ)を読んだことがあり、ふむふむ面白いと思っていたら、
 途中「生まれ直してきたブッダ」が出てくるの。
ブッダ」が何者であるか、「ブッダとされるということ」が何であるのかをいったん棚上げするにしても、
 この「語られるところのブッダ」が1900年代に日本に「使命」をもって生まれてきたけど失敗しました、現世に渦巻く欲は彼をも呑み込んでしまったのです、というような、
 記述を読んだときに、一気にいやこれは。

 困ります。

 と思った。
 わたしのストーリー上、そのエピソードはそぐわないね。
 そこでふと気づいたのは、
 
 わたしは「成長」「発展」「進化」という概念が昔から苦手というか、
 毛嫌いというか、
 その「渦」というか「概念」にはわたしは付き合えないというか、
 違和感があった。
 それを言うならせめて「変化」くらいにとどめてくれ、という気持ちがあった。
 悪いものが良くなる、という、
 個人的にはそういうことがあったとしてもまったくそれは、個人の自由・センスとして構わないけど、
 手出しのしようもないことだけど、
「個人」の枠からハミ出した「社会」という風潮が、こういうことをキャンペーンしてくるというか、
 なんだろう、「渦」だな、
 ここには「誰」もいないが、「渦」はあり、
 この「成長を良しとする」「渦」接触することは、意思の及ぶ限り避けたいという気持ちがあった。

 あったのだが、
 かの「ブッダ」が、よし今のタイミングで地球で使命を果たすぞと生まれ変わってきたのに、現世の欲に呑み込まれてしまった?
 いやいや待て、じゃああなたが元祖「ブッダ」であったときの「悟り」って何だったの?

 困るなあ、もう。
 
 とどうにも抵抗を感じたときに、
 おや、どうもわたしは「成長」の概念を意外と自分のものとして受け容れているらしいぞ、と思った。 

 わたしは、フラットなものがとにかく好きというか、
 何の痛痒もなくてリラックスできるんだよね。
 
 すべてはすでに欠ける・満ちることなくあり、すべては起こる。
 というのは、そういう意味では、
 すごい落ち着く。
 そうおそうそう、そうもお、そう。
 だから「大和田菜穂」さんが進化はない、と発言した箇所にはちょっと心がほっとした。
 
 この感覚(すべては欠けも満ちもしない)を、「個」をお互い持ち合ったまま完全に共有することは出来ない。
 それはもう、出来ない。

 光の「点」(個)が流動的な軌跡、線を描く。
 線を描く。
 これは「時間」を概念として想定しなければ「見えない」光景だ。
「点」としての光の数は膨大にあり、そのあらゆる互いに恣意的な「点」の描く軌跡の一部が、交わるように感じられることもある。
 これを、わたしは、「僥倖」と呼ぶ。
 それは「結婚」であり「一期一会」であり「親子」であり「友人」であり「きょうだい」であり、「通りすがり」であり、もうありとあらゆる「関係」としての「点」だ。
 
 それは知覚できる以上に大いなる共通基盤をもつストーリーであり、
 わたしはこのストーリーに愛着を感じずにはいられない。

 ここに踏みとどまりたいなあと思うの。

 

 

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「人生が変わる哲学の教室」なんか合わない無理、でも「面白い」。のかもー。

「人生が変わる哲学の教室」
 これは、久しぶりに、合わなかった。
 この「わかりやすさ」とはどうにもそりが合わない。
 衝動的にレビューを書きたくなったほどだ。
 
 この閉じた宇宙をこじ開ける方法をわたしは思いつかない。
 すべてがあまりに平坦であって、
 これで上手くいくのならまったく上手くいってもらって問題はないが、
 わたしからすれば、取りこぼしているものの多さにただ唖然としてしまう。
 まだあっけに取られている。
   
 こんなことは重箱の隅を突くような、彼の「本質」をそれこそ見逃しているような疑問なのかもしれないが、
 幼児虐待について言及している箇所については、お粗末というか、悩みがないんだなあというか、
 それで救われるとか改善されるものならば、そもそもそれは「悩み」というほど深刻な問題じゃなくてただの「気分」みたいなものだったのではないだろうか、と思える。
 ここに出てくる聴講者もまたびっくりするくらい「素直」である。


 いや「素直」はわたしは美徳であると思っている。
 でもそもそも、そんなに「素直」なら、「悩む」こともなかったんじゃないか、と思えて、矛盾を感ずる。
 この一応悩んでいる姿というのが、
 実に嘘臭いというか、虚構的であるというか。浅いというか。
 そんなに「素直」で「甘い」人間が、そんな(素直でもなく甘くもない)問いや悩みを抱えて生きてきたってのは「本当」なのか?という違和感がある。
 彼らのような人間は本当に実在しているのか?
 その設定自体が甘くない?

 この物語に登場する誰もが、追求の手があまりに甘くて、拍子抜けする。
 なんだこの安っぽい劇場。
 という感じ。これは悪口か。
 この明るさが人を惹きつけるのだとすればそれは、決して批難されるべきものではない。

 わたしは「明るさ」は好きである。

 わたしは悩みを高尚なものだと思っているわけじゃない。
 悩みは悩むから生ずるというのはまさにそうであり、単に事実でもある。
  
 なんだろうな、例が悪いわ。
 喩えが悪い。
 登場する「悩みを持つ人」の「悩み」があまりにも「悩み」として深みがなさすぎる。
 そんな簡単に解決できる話が面白く感じられるわけがあるかよ、という不満・不興が生じてくる。
 たとえば、メガネを探している人の頭にメガネが乗っている姿というのは実際目にすると、いつだって可笑しいものではあるが、
 この「問題」を解決するために、
 息をのんで今や遅しと「名探偵」の登場など俟つまでもない。
 
灯台下暗し」
 という言葉が真実をついていることは間違いないとしても、
 この言葉の真意を解説するための、コンテクスト、文脈、状況は、まったく不適切であるとしかいいようがない。
 このテクストの場合、わざわざ「人間的深みのない・明るい・登場人物」の悩みを解決する状況を拵えて、
「大哲学者たち」なんかを持ち出す必要はなかったんじゃないか、という感じが拭い難く実に腑に落ちないし、とにかく面白くない。
 
 人間的に「明るい」ことが悪いわけでも、「哲学者」が悪いわけでもないんだけど、
 その取り合わせはそぐわないんじゃないの、と思う。
 こんな場面に登場させられた、もともと「明るく生き抜く力を持った登場人物たち」こそ良い面の皮である。
 
 人生に深刻であれ、とは思っていない。
 ただ、深刻さというのは確かに、確かに、「面白い」んだよなあ、こんな表現はそれこそ「不適切」かもしれないけど。
 
「虐待」について持った違和感とは、「それはか弱き幼児に対する親の八つ当たりである」というような描かれ方だ。
 そうであるといえばそうかもしれないが、
 幼児が弱くて親が強いなんて誰が決めたんだよ、と悲しく思う。
 弱い犬ほど吠えると言ったりする、それが本当ならば、吠える親の方が弱いということだってありうる。

 (これもまた陳腐極まりないたとえではあるが)


 わたしがこれを、問題だと思うのは、
 強弱関係をア・プリオリ(先験的)なものとして疑いを持たないスタイルについてだ。
 これは、疑いなくそういう前提を持つことによって、拾いこぼすものがあまりにも多いのではないか、と「危惧」してしまうわけ。
 赤ちゃんが無力な存在だなんて、誰が決めたんだろう?
「いや、だってそりゃそうじゃん」、じゃないよ。


 これは何も赤ちゃんにさえ自己責任がある、とかいうようなオカタイ話をしようとしているんじゃないんだよ。
 先入観を持って自分や相手(他者・あらゆる他者)を見ることは、
 便利かもしれないが所詮便利でしかないという逃れ難き側面がある、という危うさを持つ。
 
 アドバイスの一つとして、「それは親の八つ当たりだよ」というのは、ありかもしれない。
 むしろこの時勢、それは「一般的な解」でさえあるのかもしれない。
 
 わたしはおそらく「人道的」に、
 虐待をする親もまた苦しんでいるのだ、という切々たる思いを蔑ろにすることは出来ない。
 これは「親の身」にもなれ、とかいうんじゃないよ。
 
 だいたいそんなことを言い出せば誰だって自分以外の他の誰の身にもなれやしない。
 
 これは一つの「モデル」としての話だが、
 子供が「あるがまま」「自然のまま」「欲求や希望をもつ」ということに、ネガティブな感情をかきたてられる親・大人というのは、
「自分はそうじゃなかった」という思い、強烈な思い、それこそ生存に関わるような信念を怖くて捨てられずにいる人だ。
 恨みじゃないんだよ。
 これを恨みだと思えたら、そんなものは潔く捨てられる人は多くいるはずだ。
 それはまだ「恨み」ですらない。
 それはまだ「過去」ではないの。
 現在進行中の苦しみであり痛みなんだ。
 
 それを誰もがわかってしかるべきだなんていわない。
 わからなくていい。

 ただ、
 少なくとも、それは八つ当たりだよ、なんて言わなくていい、というだけの話なんだ。

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 でもこれだけ、面白くない、不備があると言いつつ、長々と疑問や思いを想起させうるものとして、これは、もはや、「面白い」のかもしれない。

わたしはこの世に遊びに来たんだよ①

「もっと・あの世にきいたこの世の仕組み」を読んでいる。
 うんこ臭い、じゃなかった雲黒斎というひとを知ったのは、阿部敏郎とい う人からだ。
 なるほど・なるほど、いやもうお腹いっぱい。
 これ、昨日も何かで読んだ気がするぞ、という、
 この世は神様が作った遊戯場であるとかね。
 
 わたしは、「考える」ということを、中学生の頃(思春期だな)から真剣に しはじめたのだと記憶するが、 
 きっかけはどこかに書いたが「挨拶」からだ。
 考えて考えて考え抜くうちに、ふいに、いやでもわたしは結局のところ、 究極を言えば、(この世には)遊びにきたんだがな、と思うことがあった。
 ふともうそれが一番しっくりするし、これ以上小難しいことも深刻さもい らないや、というような気の抜けた嬉しい感じでもって、そう思った。
 それはさすがに中学生の頃ではなかった。
 中学生の頃に気づいたのは、「真実とはそれ以上真か否かを問うのをやめ ること」だ。
 気づいたというより、なにか(哲学書っぽい)でそうした文章に触れて、や っと腑に落ちたという方が正確か。
 真実とは瞬間の檻の中にしかない。
 ということを繰り返し思い知らされるにつれ、もう、そうだよなあと降参 したというか。
 つまり(わたしが求めるような)「答え」はない。
 というのがわたしが唯一納得できる答えなのだった。
 
 いやもうちょっと平たく。詳しく言うなら、
 正しい、とは何だろうか、というようなことを考えていたわけ。
 あっちが正しいなら、こっちは正しくない、
 とするならば、などと考えていたわけだ(正しさは一つなのか?)。
 いやそもそも正しいなんていうのは、自分から見て、他人から見て、とい うことでまったく変わってしまうほどのものでしかない。
 ほどのものでしかないはずだ。
 …でも本当に?
 というようなことをずっとやっていたわけだ。
  
 もう、この「正しさ」というのは、
 中学生が考えるような「正しさ」ですからね。
 そしてまた、
 高校生だったら高校生なりの、社会人だったら社会人なりの、80歳なら
ば80歳なりの、思い浮かべる、思考しうる「正しさ」というのは違うわけ
です。
 もっと言えば日本人なら日本人なりの、とか、
 この平成を(もう終わるけど)生きる日本人ならば、あるいは昭和初期、あ るいは江戸時代、奈良時代を生きる日本人ならば、とかでもいいの。
 その「枠組」というか「時代なり」の趨勢や限界はあり、
 それらは要するにキリがない。
 いちいち検証する意義があろうか。
 ない、とわたしは勝手に断言する。
 
 というのは、わたしがしたいことは虱潰しのような検証ではなくて、
 もっとなんていうか核心を突いたもの、本質を表したもの、にダイレクト に触れる思考実験だったからだ。
 
 それで思い出すのは「レトリックと人生」
 なかなか読めずに、もう今日で返却ぎりぎりオーバーなので、ともかく読 んでみた。
 この取っつき難さというのは、もう膨大な数を挙げた例文を一々読む行為 が、まるで英語の勉強をしているような気分にさせられたことにある。
 わたしの英語力は、中学校英語でも平均点を取れるかあやしい程度だ。
 なので、前半を覆い尽くす例文はさっさとすっ飛ばして、後半のまとめを 読めばよかった(と結果的に思う)。
 日本人が書いた日本語の例文による「レトリックと人生」なら隅から隅ま で面白く読めたかもしれない。
 後半のまとめ、というか主旨(おそらく)を読んで、

「主観主義者と客観主義者」彼らはお互いをまるで敵と看做して攻撃するが 、
 そもそもそれらは我々の心のうちに共存するものであって、どちらかの道 を徹底して貫く、というのではなく、第三の道があるはずである、

 とあり、そうそうそうそれ、と思った。
 とはいえ、彼らはどっちかっていうと主観主義なので、
 客観主義の不備をどうも突いているのだが、わたしはそれに共感はする。
 
 客観主義の不備とは要するに、
 なんていうのかなあ、今日さっき読んでいた(途中だが)、
 雲・黒斎の雲さんが言っていた、
 風船の喩え、
 風船がワンネスだとすれば、
 その表面をヒョイと捻って「自分」が生まれるという、
 わかりにくいな、わたしの表現、
 
 つまりすべての大元は一つで「他」はない、
 として、
 そこからチョイと突起を出してやる。
 さらにはそれを捻る(風船のイメージで)。
 この捻られてちっちゃくなったスペースが「自分」(の意識しうる「自分」 )であるとすれば、
 この「自分」が果たして「完全なる客観性」などという視点を持ちうるだ ろうか。
 この際、「完全なる客観性」とは、大元である風船それ自体を見渡すよう なスケールにおいて、ということだが。
 持ちえないですね。
 そういうことを言っているんだと思う、つまり、
「完全なる客観性」における不能なほどの不備、というのは。
 
 ところで、わたしは、このゲームのような世界において、
「悟る」ということにどうも以前より抵抗、というか先延ばしにしたい感覚 があって、
 それはなんていうか、
 もし悟っちゃったらゲーム・オーバーというか、
 面白くなくなる、楽しめなくなる、というような予感といったらおかしい が、
 そういうような感覚があった。
 悟るために来たわけじゃないんだけどな。
 という気持ちがあった。
 それは、
 遊びに来たんだからな、という思いと通ずるものでもある。
 でもふと思うに、
 さっきの風船の喩え、
 これには続きがあって、赤ちゃんっていうのは、風船を捻って大元から切 り離して独自の空間を得る、ということをまだ達成し得ていない存在である 。
 すべては思い通りにゆき、意思疎通を阻むもの障壁など何もない、という ところから来た、存在が、
 はじめて、おやおや、
 誰だこいつ、というか、なんだ他人っていうこういうのなの、という存在 をはじめて知覚するのが母親、
 いやこれは意訳が過ぎたかもしれません、
 意味不明かもしれません、
 
 そうだとして、
 
 最近「神様は小学五年生」のように、生まれる前のことを覚えているよっ ていう人が増えてきたらしい。
 らしい。知らないけど。
 
 しかし生まれる前のことを覚えているよって、なんだろうかそりゃ、とい う気もするが、まあ、そうだとしましょうや。
 そうだとして、
 わたしはまったく覚えていないと主張する。
 するのだが、全体というか神とのワンネス、との捻れの構築が甘かったの ではないか、
 という気もする。
 そこまで捻れ(ヒネくれて、というニュアンスではなく)て、はいなくて、
 そこの断絶の構成が完全ではなくて、
 ちょっと漏れ漏れだったのではないか、という気がする。

 そして、こういう子は最近増えている、どころか、そもそも捻れないよう にして生まれてきたんだよ(かどうかは知らないが)、という子がいるという のは、
 まあそりゃ栓が甘いというか、漏れ漏れなのは、わたしだけじゃないだろ うなあ、という感じでもって、
 わかる気がするのだ。

 ゲームの話の流れで、わたしは、かつて2004年にサービスを開始した
「FFXI」ファイナル・ファンタジー・11、オンラインゲームをまあま あ二年ほどやりこんだ時期があったのだが、
 それまでゲームってあんまり、好きではないというか、身近ではないとい うか、ゲームマニアどころかファンどころかユーザーでもないというか、
 だったのだが、インターネットの普及、
 オンラインである(機械相手ではない)こと、などが興味をそそられたきっ かけだったのだと思うが、
 そのゲームを夢中でそれこそ寝食を忘れてやりこむ、ということがあった ときに、
「ゲームなのに?!」という感覚、
 それはたとえば「所詮」ゲームなのに、そこまで切羽詰った感じ、になる 必要があるのかという違和感(オンラインだから、参加している顔の見えない 相手の反応に対して)であったり、
 ゲームではありながらあまりにも、リアルであるという、ゲーム内におけ る感覚としてあったり、
 してすごい不思議だなあと、ゲームに夢中になるのとは別で、感じていた りしたのを、
 思い出しました。
 
 所詮ゲームだ、というのは、不思議な言葉であり感覚なんだよな。

 具体的にいうと、かのゲーム内には結婚制度があった。
 いや、制度というより、結婚サービスがあった、という感じ。
 両者が合意すれば「結婚」が出来て、「結婚式」も出来て、「結婚指輪」
(装備可能な、武器・アクセサリに相当するナンカ)も貰える。
 それで、そこに、結婚している二人がいたのね。
 二人のプレイヤーが。
 そのうちの一人、女性キャラクターであった、に最近彼が浮気しているん じゃないかというような、
 相談をされたときに、わたしは、
 まったく無粋だなあという気がしたが、びっくり仰天してしまった。
 え;つt;;lt
 いや。
 ゲームでしょ。
 というか、あなた、
 だって、
 相手の、もしかするとですが、顔も知らないし本名も知らないし、会った
こともないのでは。(果たして相手の性別すら実際には知らんわけでしょ)
 とかいうような、「現実的」な何かが脳裏を走馬灯のようにかすめて、ほ とんどパニックに近いような、
 え!”””わからん

 を感じた記憶がある。
 
 そしてじゃあ、相手を知っている、というのって、実際リアルにおいても 、何なんでしょうね、
 というときに、

 いやこれは、
 所詮ゲームなどといって侮れないというか、
 ゲームというのはリアルを反映しているものに過ぎないというか、 
 もう、ゲームとはいえリアルそのものだ、というか。
 そういう、慄きを感じたのでした。

 いやゲームというのは侮れない。
 むしろ、ゲームを通してもっとリアルを感じる、ということだってありう る。
 
 ささっと結論じみたことをいうなら、
 ゲームを通して、「リアル」と感ぜられていたものと距離を置く感覚を発 見しうる、というか。
 リアルの雛形を感ずる機会に恵まれるというか。

 わたしはこの世に遊びに来た、んだけど、
 なぜそう思ったかというと、
 いったいわたしは何をしに生まれてきたのだろうか、と自問したことがあ る。
 もし、何かしら目的があって生まれてきた、とするならば、
 わたしの目的とは、何だろうか。
 そこで思いつく限りの、こうだろうか、ああだろうか、というもっともら しい理由を並べてみてもまったく、確かにそうだとは思えない。
 ほとんど消去法的に、じゃあ、遊びに来たっていうのはどうだ、
 と思った瞬間、それなら、いいな、否定できないなと思えたんだ。
 遊ぶっていうのは、どことなく完全に自由の象徴的な行為・動機であるよ うに思えた。
 世の中を正しに来た、というと、そもそも正しいとは何かということで躓 く。
 あっちで笑えばこっちで泣くということにもなりかねない。
 あっちが歓べばこっちは悲しむ。
 正しいとかいうようなワケわからんカテゴリーはそういった罠に陥る可能 性を自らあらかじめ用意しているとしか言いようのない切羽詰った障壁があ る。
 ところが、遊ぶって言ったらどうだ。
 これは、蝶がひらひらと花から空へと舞うような、罪のない自在の気儘さ がある。
 そこには単に生命の謳歌・ダンスとでもいうべき言祝ぎだけがある。
  

 ところで、この筆者にも雲さんがいる、
 斉藤一人にも白い玉がいる、
 それから、他にも何か色々読んだが教えてくれるナビゲイト的な「声」と かナンカがある、
 こういうのは、
 わたしは、本当に不思議だ。
 エイブラハム=ヒックスとか、バシャール=ダリル・アンカとかは、
 要はイタコでしょ、と思うわけ、
 でも、
 白い玉が、守護霊が、色々教えてくれる、てのはいったい何なんだよ、ず っこいじゃねえか、という気が正直わたしには、する。
 するのだが、
 わたしには受け取れていないだけなのでは、という気もする。


 もう超どうでもいいけど、わたしの幼かった頃の話、
 うちのお母さんは共働きで働いていて朝の時間にそうまで余裕はなかった はずだが、
 朝、わたしが保育園に行くとき、着替えをするとき、
 わたしが急ぐことなくマイペースに上着のボタンを留めている。
 そのあまりのスローな動きにお母さんが思わず手を出す。
 叩くんじゃないよ、ボタンを代わりに留めてあげるわけ。
 するとわたしは火のついたように怒り出して、のんちゃん(わたしのことね )がやる、と言うんだって。
 ああ、ごめんごめん、て謝って、その手出しをしてしまったボタンを外す と、
 今こうやって書いていてそこで納得すりゃいいのにと自分でも思うが、
 保育園児のわたしは、いいや最初から!!と怒っていたらしい。
 最初から最後まで自分の手でやりたかった。
 途中で手が入ってぶち壊しだよ、最初からしたい、外してよ、わたしが自分だけで最初からやるんだから って、泣き喚く。怒り狂う。
 はいはい、最初からねって、それもそれがしたいなら自分で全部外してし まえばいいのに、外すのもやってもらうっていう。


 こういう話を、実は当時覚えていない。あとから聞いて、
 さもありなんと思った。
 いや。
 言うだろうなあ。
 ダダを捏ねるだろうなあ。いやダダというより。癇癪にも似た。

 でもこれを聞いてくれた母親にわたしは本当に感謝しかない。

 ともかく、そうした自立の姿勢が、
 他を頼まない姿勢が、
 白い玉とか、守護霊とか、自動書記とか、
 そうした実現を頑なに拒んでいるところがあるのではないか、という気が している。

 全部自分でやりたいと思うのも結構だが、
 無知の知の境地、
 教えてくださいと真摯に求める気持ち、これは、
 きっと大切であり自分にはないものだ、と思う。  

 

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口唇口蓋裂の色んなケース。

 陰謀論ってわたしは嫌いです。
 他者にコントロールされうる・されている自分という、構図というか力学というか、概念がきらい。
 
 と思いつつ、そういう話じゃないのこれ、というような記事(サイト)をでも面白いなと感じて読みつつ、
 帰宅して気がつけばなぜかまったく関係のないような、口唇口蓋裂について調べていた。

 いやなんでだったんだろう、わからない、でもよかった。
 そのキーワードで検索するとおそらく出てくるのだが、医師による、
 親の承諾が得られなくて救えなかった赤ちゃんを忘れられないという話があった。
 これはまた違う問題提起かもしれないが、
 つまり現に手術によってしか救えない赤ちゃんを、親が手術による再生を承諾しなかったため、 
 徐々に死にゆく赤ちゃんを見ているほかはなかった、という話で、
 なぜ手術に保護者、親族の同意がいるのか、
 確かに救えたが法的に救えなかった命がある、これは法の不備として問題なのではないか。という。

 またこれとは別に、
 TVで放映されたこともあるという人の、生まれたときの、手術前のまあまあショッキングな写真と、術後、
 
 それから、本人による、コメントにも引用されていた、
口唇口蓋裂のせいで 
 自分の人生が駄目なんじゃないんだよ。
 口唇口蓋裂のせいにしてる 
 自分のせいなんだよ。」
  
 こういう文言はたしかに、本人以外に言えないわけじゃない、言えないわけじゃないが、本人による発言のほうがはるかに説得力がある。
 もちろんあなたの場合はそうだとしても、自分の場合はそうじゃない、とか、なんとか、色々あるだろうけど、
 
 まあもう、色々あるんだなあ。
 
 美容整形についてもちらりとよぎった。
 整形はアカンのか。
 これもまた複雑怪奇な問題であって、
 わたしの意見をいうなら、アカンくはないよね。

 もうこれは、物質的、というか、
 そもそも物質次元にいるわたしたちは、物質というか、
 表面的なカタチというか、
 そういうものからなかなか自由な視点を得ることは難しい。
 この際「自由な」というのはそれこそ神様のように次元を超えた自由な、というほどの自由さである。
 
 まあもう何にせよ、カタチではあるが、カタチではない、ということもあり、
 絶対こうだとか絶対そうだとかいうようなことは、実のところない。
 絶対醜い、絶対支持されない、ということが、一夜にして(一夜じゃなくてもいいが)スーパースターになって、価値が逆転くらい飛躍的に上がる、ということだって実際にある。
 だとすれば、醜いって何だったのだろうか。
 忌避されるべきと思われていたことの根拠、あるいは絶対性とは、まったく絶対じゃなかったよね、としか言いようがない。
 
「普通でありたい」という願望が世の中には存在する。
 いやもう、普通って何だろうか。
 わたしのことはどうでもいいいけど、わたしは、ナンだカンだ言って図抜けて普通でない、こともないからなのか、普通でありたいと思ったことはない。
 普通じゃなくなりたい、ということもなく。
 いやもう、だから、普通ってなんだっていう。
 そんなもん実際にはないだろうと。
 むしろ、
 そういうものに対して反発を覚えるクチだった。
 つまり、なんていうか、
 多数派のおごりみたいなものに対して。
 どちらかというと、少数派を蔑ろにするということを、どこか、それはわたしはいやだ、他の誰がどうであろうとわたしはそれは、
 説明しがたいが、たとえば、閻魔様の前で申し開きができないというか、
 そんなふうに感じていた。

 まあ平たく言えば罪悪感があった。
 
 このでも罪悪感、というのは、実に厄介なものだよね。
 いや、これは話が変わる。

 ので話を戻すと、
 その、口唇口蓋裂のひとの生まれたての写真なんかを見ると、
 たしかに、ぎょっとする。
 本人もおっしゃっていたように、観覧注意ならぬ閲覧注意なのだ。
 あえていうがわたし・たちは、
 こういう「異形」ともいえるカタチ、表面上の異質に関して、
 なんとも曰く言い難い心のざわつき、
 恐れというか、嫌悪・忌避の念を咄嗟に感じてしまうのである。
 もう、そうなのです。

 とりあえずそうだとしてみてください。

 不調和に対してわたしたちは気持ちが悪いと感じる傾向がある。

 だがここで強調しておきたいのは、「不調和」とは実際のところ、社会の不調和とまでいうのは拡大解釈であって、あくまで本人にとっての「不調和」である、ということです。


 そこで、自分としては、(自分だけじゃないはずだと思っていたとしても)不調和音が気持ち悪い、
 だからって、
 こんな異形のものは世の中にあってはならない、とまで思いつめるのは(他者の賛同を得ようとする・正当化する・のは)間違った心の方向だとしか、わたしには、思えない。
 
 結局、井の中蛙だと思うんだよそういうのは。
 自分的に、異形のものに接したときに、ぎょっとするまでは仕方がない、だって、見たことないものを見たら誰だってびっくりする。
 それが、なんだろうなあ、見たことないくらい可愛いぜ、美しいぜ、じゃないことだってそれはあるね。
 
 この、造詣の美というものが心のどこから発するのか、というのはわたしも不思議だが、
 というのは、ミロのヴィーナスとかにおける黄金比というのを昔、美学の時間に習ったが、
 わたしは不思議だった。
 いや、なんだろうか、そうだろうか。どこが黄金比なのかさっぱり響かねえや、と思った。
 これは元素記号表をはじめて見た時の違和感にも似ている。
 なんだそりゃ、誰が決めたんだいったい、という。

 なんでこんなものを覚えなきゃならないんだ。


 暗記は苦手じゃないが、好ましくはない。
 それはただ面白くないから、自分の腑に落ちないことは、単に面白くないから好ましくはない。
 自分が発見し系統付けた元素記号ならいいけど、他人のものの踏襲はいやだ、という。
 大人になって思うに、いや、自分が発見し系統づけるのは可なりな労力だぞ、と思うからもうそれは、それで(既存のもので)いいんですが。

 話がそれたが、
 自分にとっての異形というのは、おそらくほとんど誰しもがある。
 それを禍々しいものとして咄嗟に受け取ってしまう心情も、わたしにもあるからわかる。
 
 でも、ぎょっとした(不快だ)、というときに、
 ぎょっとさせた方が悪い、というのはあまりに短絡的すぎる。
 突き詰めれば、ぎょっとした自分が要は狭量であり無知なのだ、と思う。