人生は博打ですよ。

20:03 2018/12/27
 今朝夢と現実との狭間で見たこと。
 聞いたこと。
 考えたこと。

 求めよ、されば与えられん、という聖書の一節。
 
 そう、求めることだ。
 まずはそこから。
 正しい答えなんてものはない、正しい答えを求めるんじゃないの、
 ただ、正しい問いを立てるべきだ、ということが、
 求めよ。の部分だ。
 
6:11 2018/12/28
 人生は博打だという話。

21:39 2018/12/28
アガスティアの葉」において、占星術の真髄の一端に触れたような衝撃があった。
 
 自己の自由意思はあるのか、それとも自らは運命の糸に支配される操り人形にすぎないのか、という話。
 わたしはこれは、要するに位相によって交互にやってくる、ミルフィーユの相を呈していることから生ずる疑問なのだと思う。

 事実は、 お互いはお互いを補い合い、高め合って、層を成している。
 
 人生は博打ですよ。
 博打っていうのは、どういうことかというと、
 どの目に転んだところで、そこからまた賽を振らねばならないということ。
 常にどっちでもありうるということ。
 
 経緯、座標というものがある。
 そこからの可能性は限られている。というか、ある程度の展望は見渡せる。
 そしてまたそこから、選択の結果によってあらたな座標を獲得する。
 そうするとまた、以前の地点とは違う未来、違う過去が立ち現れてくる。
 その連続なんだよ。

 なんていうか、あなたは、あなたの「思い」によって実はどの地点に立つことも本来は出来る。
 これはいわば「神の視点」ともいえるようなもの。
 
 何かある出来事(モチーフ)をもって、「絶望」を選ぶか「希望」を選ぶか、それは完全にあなたの手に委ねられているということ、
 これが、人生は博打だってこと。
 先のわからない未来に恐れ慄くのも、武者震いするのも、あなた次第だということ。

 わたしたちは神から「自由意志」を与えられているの。
 

 信じられませんか?
 しかし、考えてもみて、
 この先の未来が一刻一秒、違わず厳然と決まりきってあらかじめ存在しているのだとすれば、
 そんな生を生きることの何がおもしろいだろうか。
 不安ではないかもしれないが、不安があることだって結局はおもしろい。
 先がわかる。
 ということは、今ある絶望よりもっと深い絶望を味わうことでもある。

 わたしは先のことは決まりきった順序に従ってやってくるのだということを信じるならば今すぐ死んで構わないと思うよ。

 これ以上生きながらえる必要も必然も衝動もわかない。
  
 おもしろいかどうか、というのは、正しいかどうか、よりよほど建設的な、生産的な、爆発的なエネルギーの源だと思う。
 あなたはそうして、先のわからない博打のような思いで一歩を踏み出したとき、それまでには思ってもみなかったような、めくるめく生の煌きや喜びを見るかもしれない。
 こんなことはまったく予想していなかった!
 と心の底から叫ぶとき、

 心の底から、だよ、そうなるとわかってたんだ、なんてうそぶくような程度の驚き、じゃないよ、

 そうしたら、それがどんな事態であれ、
 おそらく笑い出してしまうと思うんだよ。

あなたは自分の見たい未来をきっと見るべきだ。

 わたしはよっぽど頑固なんだと思う。
 前世を思い出せないのも、心の声を聞けないのも、神や宇宙や、宇宙人の声を聞けないのもね。
 いまあるものだけで何とかしたい。
 いや、そのいまあるものが宇宙人の声であって何がいけないか、いまあるものとはいえないか、といわれると、
 なんだか答えに窮してしまうのだが。

 だから頑固なんだって。

 今日会った友達と、知識っていうのは何でもないでしょうという話をしていた。
 わたしがなぜ本をそれこそ、最近とみに、むさぼるように読むかといえば、
 知識を得たいからじゃない。
 知識とか忘れるからわたし、まるごと全部あとかたもなく。

 てのは嘘かもしれないけど、そんな得た知識をそのまま話したって誰も共感してはくれないもの。

 自分の血や肉になっていない話なんてね。

 そうじゃなく、思い出したい、気づきたい、インスピレーションを得たいから読む。
 知識を蓄えたからって賢くはならない。
 それらはむしろ、邪魔をするとさえ思う。
 自分の気づきを。
 
 枠を外したくて読むのであって、枠をこしらえたいから読むわけじゃない。

 冒険する理由を探したいのであって、冒険しない理由を探したいわけじゃない。
 わたしは城を築かない。
 いたずらには、遊びには築くかもしれないけれど、それこそ砂の城のように。
   
 皆、段階がある。
 皆自分が何をしに生まれてきたかという一応の目標、目的はあるんだろうなと思う。
 それをおろそかにはしないでほしいと思う。
 もちろんわたしも、おろそかにはしません。
 
 誰に何をいわれたって、諭されたって、叱られたって、構わないじゃないか。

 あなたは自分の見たい未来をきっと見るべきだ。
 あなたは、自分の振り返りたい過去ときっと向き合うべきだ。
 誰に何と笑われようと、泣かれようと、かまわないじゃないか。

 補足すると、知識は何でもない、というのは、
 知れば何とかなる、という考えは嫌だからだ。
 知ってる者勝ちとか、そんなルールはないの。
 まったく狭い。
 だから、正しいことをしにきたわけじゃないの。
 いっそめんどくさくなって、むしろ正しくないことをしにきたんだよ。
  
 ひとを、ああだこうだとジャッジしにきたんじゃない。
 あなたは自分のしたいことをしにだけ生まれて来た。
 
 言い訳はよしな。
 自分がしたいことを出来ない理由を探すのはやめておきなよ。
 また、批判されることへの、正当な反論を探すのもやめておきなね。
 
 したいからする、それで十分なのよ。
 それでどんな困難に陥ったとしても、したいことをしなかった人よりも実は先へ進んでいるのだから。
 

 その先はずいぶん長いかもしれないけどな。

 

 でも、ほんとうにそうよ。

 したいことをしなきゃそれで済むかといえばそうじゃないのが、カルマだから。

 

家に本があふれていた頃。

   脳は補正する。
 視野には必ず盲点があるが、その黒い点をこうであろうと脳が補足した映像をわたしたちは見ている。
 また、たとえば自分の鼻は常にたしかに見えているはずなのだが、普段はそれを意識しない。見ない。

 脳はやばい、おもしろい。
 というわけで、
「シンギュラリティは近い」、を借りたはいいがすっと読めなくて途中で返却してしまった。
 面白そうではあった、実に興味深いと思えた、でも、図書館へ行くともっとすっと入り込める、読まずにはおれないような本との出会いがあり、そっちを先に読んでしまって、これはやっぱり後回しになるんだろうなと思って、意地でも読むということはせず、返却日に返しました。
 実家には本が溢れていた。
 そんなにたいそうな、えらそうな本はないが、父とわたしと弟が本を増やしまくるので、うんざりした母が本などは図書館で借りればいい、図書館に預けていると思えばいいのだと言っていて、いまようやくわたしはそれを実践しているのです。
 それに図書館で借りるメリットとは、タイムリミットがあるということ。
 二週間という借り出し期間内で読み終わらないような本とは要するに、読むべきタイミングはいまではない、ということなんだと思う。
 
 本は多ければ日に二、三冊読む。
 速読法は知らない。
 普通に一行一行、一語一語読む(たぶん)。
 まあでもよっぽど面白い、読みやすい本でもなければだいたい一冊も通読できない。
 あの、読みやすい本って何なんだろうなあ。
 たとえばマンガなら読むんだけどっていう人がいるけど、それだって文盲じゃ読めないんだから字を読んでいることに変わりはない。でもそういうひとは、本なんて何行かも読めないという。

 でもネットニュースなんかは読むんだぜ。

 どうでもいい、超ヨコだけど今日そういえば、スマホをのぞきながら、記事の文を読み上げていた職場の子が、「いままでご愛顧を賜り」というところの「ご愛顧」を「ごあいがん」と発音していて、いや似ているけどそれきっと「ごあいこ」だろうと咄嗟に突っ込みかけたが、やめておいたわたし、おとな。

 しかし別に突っ込んでも良いよなあ、なんで突っ込まないんだろう、やっぱ相手との関係性かな、などとしばらく思いがそれ、本に集中できなかったわ。


 わたしは活字中毒というのをたしか、田辺聖子で知った。
「欲しがりません、勝つまでは」という自伝的な本においてだったと思う。
 あれは大空襲の際、電車もなく、市岡高校から野田阪神まで歩いたとか、まさに地元の地名が出てきてとても近親感を覚えた。
 市岡高校って母の出身校だし。
 祖母の出身校でもあった、祖母は田辺聖子さんとだいたい同じ年代。
 母の実家は海老江にあり、わたしの実家からはどんなにゆっくり歩いても十分という程度の距離だった。
 わたしは小学生の頃、母の実家、つまり祖母の家に下校し、母が夕方仕事終わりに迎えにきてくれるのを待つのだった。

 放映されていたアニメならば、「パタリロ」とか「じゃりン子チエ」とか「ときめきトゥナイト」を観ていましたね。


 祖母の家にも本があった。
 まったく物持ちのよい祖母で、母が子どもの頃に読んだのであろう子供向けの本なんかも、いかにも古めかしい観音扉の本棚に収納されていた。
 わたしはそこで「岩窟王」とか、「赤毛のアン」とか「トム・ソーヤの冒険」などを読みました。
 ちゃんとしたハードカバーの本で、紙はしっとり湿り気を帯びており重いので、どのページであっても勝手にぱらぱらと閉じてしまわないのだった。
 そして母と叔母が使っていたというベランダを改築というより、屋根の上に無理やり部屋を作ったみたいな小さな部屋にも、本があり、そこにはプラトンとか夏目漱石とか、五木寛とかが並んでいた。
 わたしは特にプラトンに心惹かれたのだが、読めず、いまだに読んでいないが、だいたいどんな内容かということは、他の人の本を読んで知っているつもりなのだった。
 
 ファージョンという児童作家を大人になってから知ったが、その世界はとても懐かしいものだった。
 何人もの作家が、子どもの頃の本に囲まれていた至福の時間を語る。
 わたしにもあります。
 本さえあれば満たされていた時間というのが。
 わたしは貪欲なのか、子ども時代だって浴びるように本を読んでいたはずだが、いまだに子ども向けの本に惹かれる気持ちがある。
「トムは真夜中の庭で」も大人になってから読んで面白かったが、子どもの頃にはどうしても手がのびなかった。
 また、はたして子どもの頃に読んでもピンときたかしらという内容でもある。
 
 ともかく書き手は子どもじゃない。
 子ども目線で描かれる世界観が好きなのかもしれない。
 昔はそうは思っていなかったが、いまになれば。
 しかし実際のところわたしは子どもって、自分が子どもの頃から苦手だった。
 子どもなのに大人に迎合する子どもが、大人以上に子どもじみていてどうにも近寄りがたかった。
 
 東海林さだおの「ショージ君の青春記」、かの名作、
 そのなかで、漫画家を目指すのだが読者は大人、というのを明確に意識していたという箇所があり、
 へー、なんだろうそれ?と思ったのを覚えている。
 それもこれもいまになれば、
 つまりその当時まんがっていうのは子どもの読むものだという認識がいまよりよほど強かったということかもしれないが、
 大人のほうが騙しやすいよね。
 というのは、大人のほうが限定的な約束事の世界で生きている。
 もちろん大人すべてがそうではないが。
 実際こんなことにはたしかに年齢なんて関係はない。
 子どもだってある意味とても不自由な世界で適応しているともいえる。
 一番おっそろしいのは思春期だと河合隼雄が言っていたのは、なるほどなあと思う。
 
 ショージ君が、大学生のころ、下宿先で隠遁生活を送る記述、両手両足の爪を切り、鼻の掃除をしてとかいうところ、大学へは行かず映画館へ行って帰ってくるという日々、また卒業はどうしても無理だが、かといってどうしようがあるだろう、
 というとき、
 まあ、なんとかなる、という結論に落ち着いたのだった、という話がとりわけ好きだった。
 これだけさぼっていたのを何とか巻き返そうというのは、相当な努力がいる。
 それは、たいへんそうだなあ、自分にはむりだなあ、
 しかしこのまま様子を見る、ということであれば、何の努力もいらない、というわけでなんとかなるだろう、と思って何もしない。
 いかにもダメダメなんだが、そこが実に面白い。
 ここを面白いと思わせるには筆力もある、胆力もある。
 
 というのは今日一気に読み終えた本、「声に出すほど美人になるおまじない」でも、「大丈夫」「なんとかなる」がおまじないだという箇所があり、ショージ君だなと思い出してふと可笑しかった。


 しかもその本を読む前に、昼間、どうしよう、とちょっと惑いかけ、どうしようもない、いいようにしかならないだろう、と思っていた自分がいる。
 
 読みやすい本っていうのは、知っている本、を読むような感覚なのかもしれないなあ。
 わかる、わかるを通り越して知っている、知っていたはずだ、でもどうなったんだったっけ、という。

あなたにとって一番たいせつなものとは何ですか?と問われて思うに。

 彼は何をしにきたのだろう。
 ケニア、じゃなくて、ガーナだ、ガーナ人の彼。
 こんなことは繰り返し起こる。
 ものごとが繰り返し起きる、というのは実に不思議だ。
 たとえば、うちに居候していた人もそうだ。
 いったい、この人はなんでうちにいるのだろう?と思っていた。
 
 、に注目するから答えが出ない。
 わたしがこの人を求めたのか?などと、目の前のそのものに注目するのではなくて、
 だってそうすると、いやまったく求めてはいない、となって、五里霧中のような心持になってしまう。
 そうではなく、自分の蒔いた種とは何であったのかという、
 花や実のほうではなく種に目を向けること。
 
 わたしは自分の蒔いた種に無関心で、突如あらわれたトマトの実とかヒマワリの花とかに目を奪われて、いったい何だってこんなものが?と不思議になっている。
 どこから現れたんだ?
 わたしが求めたのか?
 招待しておいてどちらさま?など眉を顰めるのはあまりに不躾ではないだろうか、と葛藤する。

 現象にとらわれないこと。

20:38 2018/12/24
 こんな現実は自分の見たい、求めた現実じゃない、といって怒る、
 まったくおかしいな。

 藤本ひとみの「つっぱりララバイ・シリーズ」にオマケのように収録されていた話。(自分は女だと思っていたら男だったのだ!なんという衝撃)
 エリザベス・ハイチの「イニシエーション」で、これはわたしのお父さんではない、これはわたしのお母さんではない、と思ったという話。

 女のぶりっこって男を舐めていると思う話。
 ひろげれば、優等生ぶりっこってのは、よいこぶりっこっていうのは、世間を舐めている。
 自分自身を欺いている。

 敵などいない。
 いるとすれば自分だけだ。
 よそに目を向けて、敵を見出すのは、それこそ現実逃避だ。
 あれを撲滅しなければ、これを排さなければ、世の中は良くはならない、なんてまったくもってばかげている。
 
 わたしは、結婚は堕落だと思っていた。
 いまは、まあ、欺瞞だというくらい。

 お金のシークレットという本を読んでいたら、あなたにとって一番大切なもの、失いたくないものとは何ですか?
 という質問があり、
 そうだなあ、なんだろう。
「正直さ」だな、と思った。
 おのれ自身に正直じゃなくなれば人生は詰む。
 あなたはまだ躍動して生きているのに、まるでいまが余生のように腐敗し、耄碌する。
 
 しかし実際のところ、まだ十歳になるやならずの子どもだって、耄碌しかけているひとはいる。
   
 そうした現実が悲しいかといえば、悲しくはないな。
 ばかげているとは思うけど。
 
 今日「読売小町」のトピックを読んでいたら、質問者が、「1+1=2のように正解はないものだと思いますが」と投稿を結び、
「1+1=2のように正解はない?本気?正解なんてわかりきっているでしょ」というレスポンスが殺到していて、なんだか面白かった。
 いや、迷える人にとってはまったく正解はないんだよなあ。
 だってそれが迷うってことだから。

 わたしは酒もたばこもセックスも好きなだけやるよ。
 博打はやらない。
 パチンコもバカラも、人生が博打であることを思えば、ごっこ遊びにすぎないからだ。

 

 正しい答えを求めるのではなく、正しい問いを立てるべきです、なぜなら、

 正しく問えば問い自体に、正しい答えがすでに含まれているから。

 というのは本当だ。

 

 正しい問い、とは自分自身が立ち上げるもの。

 花や実に惑わされるんじゃないのよ。

 

「イニシエーション」を読み終わって、そうなんだけどさ、それにしても堕ちるきっかけが「恋」であるとは、なあ、と思った。

「イニシエーション」読み終わって、そうなんだけどさ、と思った。
 途中から何だか映画的というか、なんだろうな、
 編集のせいかもしれないが、そればかりではない、たとえば、
「わたしたちは必ずまた出会う…必ずまた出会う…必ずまた出会う…」
 という繰り返しの「せりふ」とか。
 必ずまた出会う、というフレーズ自体が、日本語だけど翻訳されたものだから日本情緒的じゃないのかなあ、と首をひねったりした。
 それで、ざっくりいうと、これは、
 このあえていうなら「物語」は、
 要するに男に堕ちて自責の念に封じ込められてしまった女が、いかにそこから飛翔したか、というお話ですよ。
 それだけじゃないが主軸はそうだ。
 とにかく面白いし、先が気になってしまって、
 という展開も実に映画的。


 それに、そんなことが!という、
 初心で経験にとぼしく、恋も知らない未通(おぼこ)の箱入り娘が、
 異国の男と、自分が恋をしているという自覚もなしに逢瀬を重ね、
 逢瀬といってもただ自分の知識を「教えて欲しいと乞われたから」教授してあげるという名目で、最後の夜までは手も握らないのだが、
 このあたりも、経験にとぼしくない(と思っている)四十の女からすると、ちょっと目をむくというか。
 教えて欲しいと乞われたから、じゃあネェェエ…(天を仰ぐ)。
 いやおじょうさんお待ちなさい、ってなる。
 伯父であり神官の長であるプタハホテプの目が警戒を促すようにひらめくまでもなく、
 ああ、ああ、もー、
 と見ていられない気持ちになる。
 男は皆オオカミなんだぜ、と言いたいわけじゃない。
 そうではなく、この、恋をしているという自覚のなさ、その危うさ迂闊さぼんくらさ、おのれを知らぬということは、かくも無残におのれ自身を裏切らせるものか、という焦燥にも似た思いが、
 なんだか身につまされるのです。
 闇へと堕ちるきっかけがたまたま「恋」だったのか、それとも「恋」とはそうまでおのれを見失わせるものなのか。
 
 経験がとぼしいのだから今世は人間として生きたほうがいいのではないか、という助言を何度もしりぞけ、イニシエーションを授かったその代償として、
 若い頃には誰にでもあるちょっとした「無自覚な過信による心の躓き」でも、三千年の闇へとおとされる経験とは、なんとも恐ろしい。
 ちなみにこのイニシエーションとは、実地の体験によらずいわば、その様々なシュミレートをダウンロードというか、ありありと仮想体験し心がぐらつかずにいられたのをもって、試験を通過したと認められることで、
 ちょっとチートっぽいというか、
 飛び級制度みたいなもんというか。

 しかし、そのかつてダウンロードされた記憶をありありと生きる、そのデジャヴのような感覚とか、金のサンダルを履いていたはずなのにという現代へのつなげ方の描写とかは本当に面白い。ひきこまれる。
 今度はわたしが記憶をダウンロードされているかのようである。
 わたしも子供の頃に、スープに浮かぶ無数の油と油を一つになるまでくっつけていたし。
 と思っていたら、訳者あとがきでも、同じことをしていた、とあって、
 これはわりと同じ経験をされている方は多いのではないかという気がする。
 あとわたしが夢中になっていたのは、風呂場でのシャボン玉作り。
 両の親指と人差し指の間にお湯と石鹸をこすり合わせ、膜が破れないようにそっと開き、呼吸を慎重に吹きかけて、出来るだけ大きな玉を作り、細心の注意をはらって壊さずままに手から完全に宙へ放つ。
 これがどうしてなかなか上手く離れてくれない。
 身体も冷えるし、親には風呂からずいぶん出てこないと思われているだろうし、やめなきゃ、と思うのにいつまでもやめられない。
 あるときにふと思ったのは、このシャボン玉は宇宙の一つの有り様だという感覚。
 わたしの吹き上げたこのシャボン玉が宇宙の一つであるように、わたしが生きるこの世界もシャボン玉の一つなのかもしれない。
 そんなわけはない、という打ち消す思いと、打ち消してしまえぬ思い、その中間に潜む神妙さにしばしば呆とたたずむのは、決して悪い気分じゃなかった。

 戻るとこの、イニシエーションを授かるための仮想現実システムっていうのは、
 なんだろう、著者も、ではこれは果たして現実かそれとも、と言っていたが、
 なんだかその感覚は、わかりますね。
 えっわかりますね。
 
 つまり現実か夢か、
 夢もまた現実なのだが、わたしたちは起きたときにあれは夢だったと思うのだ。
 
「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」
 という江戸川乱歩のことばを思い出す。
 
 わたしは地に足がついていない。
 と、ときどき言われる。
 いや、二三度あるいは四度五度言われたくらいだが、自分では折につけ思う。
 それにしても、夢見る夢子ちゃんなどととある人に言われたのはびっくりした。
 わたしは実際のところそのひとよりもよっぽど現実を見ている、と思ったからだ。
 自分ではそう思ってもいいけど、ひとに言われたら、何を言っていやがると思うようだ。
 
 今日はまだ眠くないが取り急ぎ総括すると、
 (これがいけないんだがな)
 おのれを知らない。
 ということは、事実、穴だらけの道を目を瞑って大胆不敵に歩き回るような行いだ。
 そして何かひとつ、おごり、過信するたびに、無自覚かつ確実に穴をまたひとつ増やす。
 目をあければいい。
 目をあけてじっと見つめれば穴は一つ一つ消失する。

 虚栄心、という彼女の言葉が何度も出てきた。
 女っていうのは、わたしも女だから、わかるが、見られることに敏感だ。
 でも、彼女も冒頭、自分の現代の幼児時代をふりかえって言っていたが、わたしたちは生まれてしばらくは、まったく無自覚に「見る側」なのであって、  
 なぜ彼にはわたしが見えるんだろう?という戸惑いや突如ガツンとやられ慌てるような不思議さ、カルチャーショックというのは、
 おそらく本当は誰しもが人生のはじめに持つ違和感や発見だと思うんだ。
 
 わたしはずっと「観察する者」であったし、ひるがえって自分が観察される状況であることを察知すると、羞恥心がまったく半端なかった。
 その取り乱すような羞恥心をなんとか克服し、自分の人生に乗り出していったとき、見られ、賞賛されることで満たされる「虚栄心」という新たな魅力と同時に、おごり/卑屈という問題も間髪おかず立ち上がった。
 わたしたちは、とあえて言うが、
「見る側」から「見られる側」へというシフトを否応なしに勘づかずにおれない。
 そしてこれは確かに恩寵だ。
 穴だらけの道を目を瞑って歩き回る行為とは、矛盾するようだが、おのれが「見る側」であることにまったく無自覚・無頓着である状態にほかならない。
 わたしたちが、無自覚な「見る側」から自覚的な「見られる側」へとシフトするとき、
 そこに「気づき」がある。
 見られる側であることに気づくのは、見る側であることを忘れ去ってしまう行いではないからだ。
 
 でもそれには、見る側であったことを自覚し、同時に見られる側であること、を自覚しなければ、要するに「自覚」しなければ、
 なんていうか、なんでもないんだよな。

 

 あっ(ゾッ)というほどの身も世もない羞恥心に捉われた者でなければわからないことがある。

 それははじめて現実としての「おのれ」に気づくきっかけでもあるのだ。

 

 つまり、観察されることに気づいてはじめて、自分が観察していたってことに気づくの。

 自己を他者として捉えなおすことによってはじめて、自己を意識するの。

 

     *

 

 この世は神の遊技場という言葉は、実に身に差し迫る思いがする。
 わたしは、遊びに来た。

 わたしは、遊びに来たの。
 
 おごりっていうのはまったくもって厄介極まりない。
 彼女の愚かしさは、筆舌につくしがたいと感ずると同時に、なんでもないような哀れさ、未熟さであると思える。
 そんなこともあれば、こんなこともあるさ、
 二番じゃいけないんですか、といういきり立つようなレンホウさんの思いに通ずるものでもある。(ちょいと古いか)
 レンホウさん、いいじゃん、鋭いね。
 ともかく美人なんだから、少なくともそこのところは、わたしは好きだ。
 
 原因と結果の法則。
 これは厳然たる事実なんだが、
 原因も結果も各自勝手に解釈されるものでしかないんだよな。
 というのが実になんていうか、
 なんともいえず、もどかしい。
 
 わたしだっておごっているし、虚栄心にとらわれているのさ。
 彼がわたしを見た。
 彼がわたしを見ていながらわたしに賞賛の念を抱かなかった。
 それが賞賛であることを認めようとしなかった。
 という状況に、
 悔しさを感ずる気持ちは、どうしてだろうか、痛いほどにわかる。
 
 いったい恋がそうさせたのだろうか、とわたしは言ったがそれは、
 どこかで「それは恋ではない」と感じたからではないだろうか。
 
 それは恋ではない、ただの虚栄心によるものだったのだと。

2019/01/02追記

「身も世もない」ってのを「実も世もない」と書いていたのを訂正したついでに、

 わたしはこの筆者の父が、後ろの方の世界大戦だったと思うのだが、敵国の徹底攻撃に遭って誰も彼もがぼろぼろな姿でなんとか生き延びたときに、

 彼だけはまったく服を汚さず、財布も、ポケットに入れた万年筆一本さえも奪われることなく、味方の家に帰り着くことができたのだ、という話がすごく好きですね。

 まったく、こうありたいものだと思う。

 

 まあ、それもこれも諸刃の剣なのだがね。

 ともかく優雅ではないか。

 わたしは賞賛する。

 

[http://]

 

死んだら無になるという恐怖について、ちょっと書きかけて寝落ちする話。

「イニシエーション」、面白い。
 ちょっと、面白すぎるんじゃないかという懸念さえわく。
 彼女が、乞食として過ごしていた過去、ふと前をみると男の乞食がいる、ここはわたしの縄張りなのにと怒って立ち退かせようとして彼の顔をのぞきこんだ瞬間、彼が「誰」であるかをわかり、彼の方でも彼女が「誰」であるかを悟り、
 暗転して今、悪夢にうなされている彼女を夫が心配そうに見守る。
 実は、目の前にあらわれた男の乞食とはかつて関係した男であり、今の夫でもあった。
 
 そんなことってあるだろうか。
 ここのところは本当に面白いのだが、なんだか面白すぎるような気がする。
 
 と、いうような話を昨夜わたしの家にきた男のひとに話していると、彼は前世の記憶がかすかにあり、わたしと幼馴染みとして過ごした山での記憶があるという。
 わたしは本のようには、その続きはわたしに話させて、とはならなかった。
 へえー、そうなんだ?不思議ね、わたしには思い出せないなというだけに留まるのだった。

 前世の記憶、というのは不思議なものだ。
 なぜそんなものがあるのだろう?
 わたしは、実際のところ、エイブラハムがいうように、あるいは他の大勢の誰か、がいうように、
「死などない」
 ということを信じている。
 いや、肉体はたしかに朽ちる。
 死体は死体だ。
 それを「死」と呼べるかといえば、まあ「死」と呼んでやっても構わない。
 
 ひるがえって昔わたしは、小さな頃、死が怖くてならなかった。
 死ねば無になるとすれば、なんと恐ろしいことだろう、
 こうして恐ろしいと感じている自分自身さえなくなるのだ。
 それはまったくとほうもなく恐ろしいことに思えた。
 
 その恐怖をどうやって乗り越えたかといえば、
 とどのつまり、もし死ねば無になるのであれ、そうではないのであれ、
 今それを知ることは出来ない、というある種ひらきなおりのような心境においてだった。
 死んでからのことは死んでから考えよう。
 もし考えようもないのだとすれば、無になるのだとすれば、それこそ考えるだけ取り越し苦労というものではないかと。
 
 簡単に言えば、今を無駄にしてはならない、という心持ちだった。
 イニシエーションでも出てくるが、死んだあとの天国や地獄やという教えは、気休めのような、訓戒のようなものに過ぎない、というのは、
 まあわかりますが、わたしはそれでもいいと思うのです。
 気休めの何が悪いだろう、訓戒の何が悪いだろう、と思う。
 なぜそれらを蔑む必要があるだろうね。
 
 たいせつなことは、いまを愛しむということだ。
 そうやって死についてとてつもなく恐れながらでもお腹はすき、遊びつかれて眠くなり、取るに足らないことで悲しんだり腹を立てたりするのだ。
 その瞬間たしかにわたしは死を、死の恐怖を忘れている。
 
 わたしが刹那的である、というので若い頃に友人に咎められたことがある。 
 将来の展望あるいは絶望に備えなければ、というのだ。
 これは実際のところ、まったく馬鹿馬鹿しいものだと思う。
 あなたは刹那的であるということの意味を履き違えている。
 今をおろそかにして明日の注意深さがあるものか。
 今の豊かさに気づかずして明日の豊かさがあるものだろうか。
 心配っていうのは色んな種類がある。
 死ねばどうなるかという心配も一種の心配だ。
 
 死ねばつまるところ、いまある心配の一切がなくなる。
 心配するなとは言いませんがね。

 昨日乗ったタクシーの運転手さんが、やけに鄭重な対応をするひとだった。
 いろんな人がいるんだなあと思いながらぼんやり車の振動に揺られていると、ふと、
 楽しむ、ということは実際、たいへんなことだ、という思いがよぎった。
 わたしたちは楽しみたいと願い、楽しみを求めてあっちこっちへと思いをやり行動もするが、
 楽しんでばかりではいけないのだという、それに反する考えをたいへん尊重したりもしている。
 それって結局不安がそうさせるんだな。
 いついかなるときにも不安に囚われずに楽しむ、ということは、実のところ難事業でもある。
 楽しい、というと安易なことばかりという、
 何の困難もないように思われるが、そんなことはない。
 いついかなるときにも楽しい気分を保つ、というのは実際にやってみればこんなに困難なことはない。
 
 それはある意味、重力に逆らう、というようなことでもある。
 アリとキリギリスだね。
 
 わたしたちはアリでもありキリギリスでもある。
 そのどちらをも今この瞬間に選ぶことができる。
 

 原因と結果の法則。

 わたしたちは、わたしたちの蒔いた種を刈り取る。

 さあ、ところが、ここの点が問題だ。

 わたしたちはわたしたちの蒔く種が、何であるかを知らない。

 あるいは、知ったつもりでいているだけ。

 

 幸福になる、というのは、いまこの瞬間に叶えられるものだ。

 眠たいときに寝られる幸せ、息をしたいときに好きなだけ息が出来るという幸せ。

 のどが渇けば好きなだけ水道の栓をひねるだけでのどを潤すことができる、という幸せ。

 

 いまあるもの、いま手にしているもの、いま享受できるものに「気づかない」ということ、これこそが最大なる不幸の源だ。

 

 気づかない、ということはもうまったくなんていうか、

 お手上げだ。

 

 そうしてまったく話は変わるけど、「鬼譚」というアンソロジーを今日読んでいたら、冒頭の坂口安吾の「桜の」なんとかって話が、

 実にめちゃくちゃで面白かった。

 支離滅裂だ。

 まったくこれは素朴な素描だ。

 次が、「赤いろうそくと人魚」だ。

 いやこれもまた、つい最近読んでいた、山中恒の戦後児童文学がどうとかいう本、

 小川未明のむちゃくちゃさについて言及している項があり、そんなめちゃくちゃなら一度読んでみようと思って読んだが、まったくめちゃくちゃだった。

 おもしろい。

 そこに素描はあるが、知性はない。

 イニシエーションを読む合間にふと手にとって読んでいたら、

 あなたの言う東洋の智慧とはこういうものだぜという感じで実に不思議な、おかしさがあった。

 いやまったくわたしこそ支離滅裂で申し訳ないという感じがするが眠いのでおやすみします。

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愛とは空気のようなもの。

 彼が私のようには考えず、限りある命を生きる人としての夢を見つづけているのなら、どうしてわざわざ彼を揺り起こして不幸にする必要があるだろう。

 というところまで読んだ。
「イニシエーション」(エリザベス・ハイチ)

 こないだ、久しぶりの友達に会って、2006年にも一緒に行った(友達談)という「藤田嗣治展」へ再度出かけた。
 二度目にはやはり感想が違う。
 今回は、戦犯として告発されたくだりがとても気になった。
 それから、日本を去り、フランスの田舎で小さな家を買い、そこで納得のゆくような自分の城を築き上げたという晩年が。
 あんな可愛らしい家に住めたらいいな、と思う。

 家といえば、トーベ・ヤンソンが夏を過ごした無人島や、その小さな家なんかも、とっても心惹かれる。

 それで、その友達と話していて、共通の知人である誰かさんは、自分の発した言葉が相手にどう受け取られるかということには関心をはらわない、
 自分は自分のすべきことをしているという、いわば自己満足の世界で成り立っていて、しかもその世界を成立させる反証として、返ってくるべき反応をわたしは期待されているかのように感じてしまい、わたしはそれを、どこか彼女の押し付けがましさのように受け取ってしまう、という話をすると、
 それわたしもや、と言われた。
 わたし、ってのはその友達自身のこと。

 それで、その場は、うん、だからさ、と返して次の話題へ移ってしまったが、
 いや待て、加筆訂正したい。

 たとえば、あなたが、彼女が、わたしが、
 誰かがどうも落ち込んでいる様子なので及ぶものならば力づけてあげたいという気持ちになったとする。
 それで何らかの言葉をかけることによって、その誰かはむしろ余計に落ち込んでしまうかもしれない、
 あなたの意図したこととはまるで逆効果のような事態に陥ってしまうかもしれない、
 そうだとすれば、
 あなたは失敗したことになる。
 それは成功とはいえないだろう。

 と、いうようなことが言いたかったのです。

 つまりそれは成功か失敗かという観点で物事を見ることもできるのだと。
 その誰かを力づけたかったのに、力づけるどころか余計に落ち込ませるようなことになったとすれば、
 なんていうか、
 わたしはその誰かに果たして寄り添ったといえるだろうか。いえないよねと。
 
 そこで、相手に落ち込まれたからといって、自分の力づけたいという気持ちを蔑ろにされた、といってもし憤慨するなり、あるいは自分まで落ち込んでしまうようならば、それは、まったくもって本末転倒であるとしかいいようがない。
 そしておそらくもっとも、何の意味もないことには、相手がどう受け取ったかにはまったく斟酌せずに、相手を力づけようとした自分、に満足してしまうことだと思う。

 それはほとんど盗人の行為に近い。
   
 あ、そうそう思い出した、今日読み返していたエイブラハムの本で、
 わたしたちが何をどれだけ知っているかは関係ない、あなたがそれ(未知なる情報)をどこまで理解できるかということを、わたしたちがどこまで理解できているかだと、
 いうような箇所があった。
「ラー文書」は興味深かった。
 言葉がいちいち持って回っていて、どうにも読みづらい(日常的ではない)のだが、
 そのうちの一つに、「教え/学び」というものがある。
 うん、でもたしかに、そのとおりなんだよね。
 教えは学びであり、学びは教えである。
 それはいわば、コインの両面であって、本当はどちらか一方ではありえない。
 
 友達と話していて、もう一つ思い出されるのは、わたしが以前話していた、愛があれば何だって解決する、という話が時間をおいてこういうことかな、と思えたということをいわれて、
 そんなこと言ったっけなと思いつつ、
 それもまたなんとなく流してしまったが、
 それで喚起されて思うに、愛っていうのは、
 
 空気のようにそこにある。
 空気っていうのはモノの喩えですよ。
 わたしたちは空気を吸って吐いて生きているのだから、空気がなきゃ生きられない、だから空気っていう喩えなのです。
 宇宙空間に出れば、海にもぐれば、わたしたちが生存できるような空気はない、だからそこには愛がない、という話じゃないですよ。
 つまり、わたしたちにとってあたりまえにあるものとしてたとえば空気、これが愛そのものであるということ。
 愛っていうのは何も特別なものではなくて、あたりまえにそこらじゅうに存在している。
 高尚な愛、低俗な愛なんていう分け隔てはない。
 空気はどこでどんなふうに使われてもただ空気だ。
 
 もしわたしが海で溺れそうになってやっとの思いで波の狭間から顔をだして空気を吸えたとき、それはとてもありがたいものになる。
 ところが、そうではなくただ、いま、普通のことのようにあたりまえに意識せずとも呼吸しているこの空気、これもあれも同じ空気であることに変わりはない。
 そのどちらもが、愛であることに変わりはない。
 自分がどんな状況に置かれているのであれ、空気はただ空気として存在している。
 それが愛だってこと。
 愛がない、なんていうのはまったくもって空想の産物、もっといえば悪夢の所業にすぎない。
 
 何かをジャッジするっていうのは、
 そうせずにはおれないのだけど、なんだか、それさえも愛おしい。
 未熟ささえも何だか可愛らしいんだよな。

 正直に生きたいですね。
 この世は何だってあり、なんだから。