頭の上を走るシーツの線を伸ばしてね。
求めよ。
さればこそ与えられるであろう。
諦めてはならない。
諦めるのなら今すぐリセットボタンを押しな。
これ以上生き永らえていても無駄だから。
先延ばしなどほんとうはできないのだから。
そしてこれだけは言いたいのだが、リセットボタンを押したところですべてを無に帰することってできないよ。
こうした雛形は、死なないまでも、現に生きていても随所に見ようとすれば見られることにすぎない。
つまり、ゲームをしていてリセットボタンを押せばマリオは消える、でもリセットボタンを押したあなたは消えない、ということ。
こうしたことを決して現実を処するための棚上げや先延ばしではなく、本能的に直観的に知っているひとがいる。
わたしはこういうひととは、簡単に波長を合わせることができる。
ものすごく他愛のないこと、咄嗟に起きたおかしさについてしか話さない、話さないし笑わないのだけど、それでも、
とにかくこれが正しい、ここに歪みはないってことは、感じる。
弾け飛ぶようなおかしさとか、咄嗟の強烈な笑いって、ある意味歪みをリセットするね。
わたしは大好きだ。
罪などというものはない、ということを脊髄を通すように実感させてくれる。
肯定的側面についてのノートを作るといいと言ったのはエイブラハムだ。
ほんとうに、そうだなあって思うの。
あなたの受け取るストレスが強ければ強いほど、それについての否定的側面ではなく、肯定的側面をあぶりだすんだ。
それはおそらく、そもそも良いと思っているものについて今さらながら良い面、肯定的な面を間延びした精神で描き出すよりももっと劇的な変化をあなたにもたらす。
良薬は口に苦し、なんだよ。
ビタミンCの顆粒を飲みやすいからという理由で安心しきって飲むより、自分にとって苦い薬を思い切って飲んでみる。
大丈夫、そう簡単には死なないし、死んだところでなんてことはないんだから。
ほんとうに、ほんとうに大丈夫なんだから。
死んだところでなんてことはない、
これは先延ばしにしたところでなんてことはないって言っているんじゃない。
死んだところで、いま先延ばしにしたことはいつまでも、いつまでたっても、先延ばしにできるものではない。
死んだところでやっぱり気になってしまうと思うんだよ。
死ぬほどこれが嫌と思うなら思うほどに、なおさら。
だから、自殺っていうのは究極の先延ばしだなと思うんだ。
死ねばいいんだろう、精算できるんだろう、と言っているように聞こえる。
ううん、死んだって何もよくはならない、何も精算などできない、
それは決して不可能な「先延ばし」という幻想を死んでなお引きずっているのにすぎない。
世界、あなたが認知しうる世界とは要するに、あなたが描き出したもの、あなたが受け取ったものというほどにすぎないのだから。
それほどまでに、死ぬっていうのはなんでもないことだ。
書き間違えたメモをくしゃっと丸めて捨てるようなもの、それほどまでに何でもないものにすぎないんだ。
あなたはすぐさま、本来書こうとしたものを、あらたなメモに書き直すまでのことだ。
死ぬことを、くたばったと表現するのって、素敵ですねと言ったのは、エイブラハムだったかなあ。
わたしはそれを読んであまりにも嬉しくなって、おかしく感じて、笑ってしまった。
わたしたちは、くたばるってことを諸手を挙げて歓迎します、お祝いしますって彼ら、言うの。
そっか。
なんでもないことなんだよなあ、と思った。
いや、わたしは死にたいと思ったことは残念ながらというか、幸福なことにか、わからないけど、ないんだ。
そんな急がなくたって死ぬんだからさ。
でも、思いもかけず死ぬってことをほんとうに恐れた経験だけはある。
それは、現に死に直面したからじゃなくて、なんていうか、想像による死について、
子どもの頃にふと、死んだらいったいどうなるんだろう?となんでもないところから想像したことによって、
もたらされた恐怖として。
死ねばどうなるんだろうと考えることさえ死ねば考えられなくなるとすれば、まったく掴みどころのない恐怖に襲われてしまう。
考えるってことが、あるいは意識が、自分なんだって知っていた。
うん、だからある面すごく、説得力に欠けるといえば欠けるんだよね。
そう、わたしってほんとにチキンなところがあるの。
そうまで追い詰められるっていうのは、いやだなあ、と思ってしまうところがある。
わたしの家の本棚には「ヒロシマ」の地獄絵図な絵本よりも、ディック・ブルーナの絵本を置きたい。
実際にあるのは、フェリックス・ホフマンの画集、クマのプーさんの絵本だが。
そう、それで思い出した、わたしは幼稚園、保育所にいたころ、
戦争時の空襲を題材にした、セピア色の紙芝居を保母さんから読み聞かされて、怖くて悲しくて苦しくてたまらなくなって、
明日もあの続きを聞かせられるのなら、そこへ行きたくない、と親に、母親に思い切って断固として、訴えた覚えがある。
普段、ほんとうにそんなこと言わないんだよ。
わたしはただ起きることに関して、そんなの嫌だってわざわざ声をあげることってほんとうにあんまりないんだ。
だからこそ、覚えている。
つまりそれほど、
なんていうか気持ちを暗くさせるもの、不安にさせるものが、ただ怖くて悲しくて嫌いだった。
3:47 2019/04/14
思い出した。
「ラー文書」でわたしが一番心に残っているのは、
ラーが、横たわっている媒体(イタコ的な)の頭の上を走るシーツの皺を伸ばしてください、というところ。
なんだよそりゃ?と思わず突っ込んじゃう。
でもなんだか、わかる。
ちょっとバランス悪いとか、ちょっとしたことなのにそれがまあまあ全体や、あるいは細部を阻害するっていう感覚はわかる。
なんだろう。
絵を描いているような感覚かもしれない。
掃除とか、整頓とかしていると、しまいにはほんのちょっとしたことが、すごく気になってしまう。
というのにも似ている。
キリがないほど最善を求めてしまうような感覚。
完成に向けた一ミリずつの達成感。
「完成させないで」という宇多田ヒカルの「光」にある歌詞を思い出すようだ。
完成させないで。
もっとよくして。
ワンシーンずつ撮って、いけばいいから。
いやこれはある意味究極の先延ばしだし、実際のところ、そうではない。
こういうことはわたしも普段とても、
ジレンマを感じているのかもしれない。
結婚が堕落だと思うのは、思っていたのは、わかちがたくある抵抗から。
「霧のなかの子」これは、たいへんだ。
「少女のわたしを愛したあなた」を否応もなく思い出す。
「子どものねだん」、タイで児童買春をする白人の男に、ルポライターである著者が、いったい自分のしていることをどう思っているのか?と聞くと、
取材に応じて、美しい愛の営みなんだ、子どもたちも愛で応えてくれている、子どもたちも喜んでいるんだ、と男が答えたくだりなんかも思い出す。
ここを、著者は、世の中の発するメッセージを疑問なく受け容れて決してノーと言わない男と痛烈に批判していた。
わたしにとってこうした葛藤というか、悩ましさ、不可解さというのは、枚挙にいとまがない。
わたしは結婚は堕落だと思っていた。
いまはまあ、欺瞞だというくらい。
という自分の気持ちを思い出す。
他人の結婚をあれこれ言うつもりはない。
わたしの親だって結婚しているし、いまだにしている。
いやいまだに、というのは何もほんとうは離婚してくれたらと思うわけでもない。
こういうところだよなと思う。
いろんなものが複雑に絡みついていて、
この一面を切り取って物を言う、もうそれしか出来ないんだけど、
つまり現にあるとか、現実としてそうである、ということを、自分も関わりあっていることについてを、
まるっきり他者の視点、俯瞰の視点で語ることは、たいへんな困難を伴う。
できるだけそうする、というほどのものにしかならないと思うんだ。
それを、もう、こうだ、と言い切ってしまうのはどこか、それこそ欺瞞を伴わずにはおれない。
このいのちの躍動を止めるってことはできないんだ。
欺瞞でないことなど、この世にはないのだとさえ思う。
「檻のなかの子」のケヴィンにも性的な侵害があった。
でも彼は男の子だった。
こういう局面になると、男と女とでは違うと思ってしまうのは、
男が性的な侵害を受けるっていうのは実に、イレギュラーなことで、
それだからこそなおさら受けるダメージは大きい、それも確かかもしれない、
でも女は、
つまりその境界線がどこまでもなだらかに曖昧で、どこまでがレギュラーでどこからがイレギュラーという、そんなものは要するにないっていうのが、
ちょっと途方に暮れる思いのすることがある。
どこからが被害者で、どこからはそうではないっていうガイドラインに、男の身に起きたことほどの断絶がない。
男の身に起きたことは逆転だが、女の身に起きたことは逆転ではない。
女の身に起きたことは逆転ではなくどこかなだらかに連綿と続くもの。
もちろんこんなことは、男と女に分けるとすればということほどにすぎないが。
でも敢えて分けるとすれば、分断すれば歩み寄りようもない、この蔓延するルサンチマン。
女性が虐げられてきた、というと、そんなことはないっていう女性からの声はもちろんあがる。
わたしだって、こぞってあげるだろう。
そう、つまり、こういうことを言ったひとがいる。
セックスとはすべてレイプだと。
こういうのはいわば、
言葉を失う。
ほんとうだし、ほんとうではない。
また、「彼が人間として安らかに眠るようにこの生を生きているときに、揺り起こすべき正当な理由などあるだろうか」という言葉をも思い出すようだ。
わたしが結婚を堕落だと思うのは、
いわばそれは、約束事の中に生きるのはほんとうの生ではないと感じるからだ。
こんなことはもちろん負の面を見ているのにすぎないんだ。
結婚をしていても生の躍動は要するに止まることなどほんとうにはありえない。
ただ、結婚という枠組みの中においては、この儚くも折れやすいわたしの性情をどこまで持ってゆけるかわからない、という自分自身の危惧がある。
わたしの危惧は、杞憂などではなくほんとうに脅威ですらある。
わたしがほんとうに失いたくないものは、制度の中に生きられない自分ではなくて、制度の中にあって死に絶えてしまう自分だ。
そう、結婚って制度なんだな、わたしには。
それは決してロマンチックなものばかりではない。
いったい、ロマンチックなものっていうのは、まったく制度とは相反するものだ。
たしかに結婚は法的なものだし制度といえばそうだけど、そんなものを無視し、越えてわたしはただ純粋にこのひとと一緒に生涯を過ごしていきたい(だから結婚したい)という、こういう気持ちになることがまずない。
つまりロマンチストなんだろうな。
制度の介入を一ミリも無視できないほどに。
わたしにとって誰かを愛するということは、二人以外の誰の、何の介入も必要ではない。
いまたしかにこの人と結びつきたいと思った、それからも時は続く。
二人はどこまでいっても別々な人間なのだから、どこかで袂を分かつこともありうる。
むしろそれは自然なことだ。
それは自然なことであって、不自然なことではない。
制度は時を止める。
昨日決定した、一昨日決定した、というようなことにすぎない。
どこかでそれはインシュランスに変貌しうるものにしかならない。
そしてわたしはインシュランスって嫌いなの。
わたしはわたしのまわりに自分とは相反するものばかりを置く。
それがなぜかってことはわかっている。
つまりいまだわたしは知りたがっている。
いまだわたしは鍛えたがっている、自分が真に望むものについて。
それに、なんていうか、わたしは特定の誰かと。
この星の数ほどもいるひとの中から自分にとっての特別を見出すことによる、わざわざ可能性、可変性を狭める意味が、メリットがどこにほんとうらしくあるのか、いまだにやっぱりわからない。
わからないんだけど、わからないから、ふと思い出したように、なんで結婚しているの?したいと思うの?って聞いちゃうことがある。
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トリイ・ヘイデン「檻のなかの子」
トリイ・ヘイデン。
面白い、じっさい、こんなに夢中になる面白さってあるだろうか、と思えるほどだ。
いまは「檻のなかの子」を読んでいる。
わたしは大雑把にかもしれないが、彼女の、トリイの言うことって要するにものすごくわかるし、主張する内容、信じている/信じたい内容を自分もどこかで確かに共有していることに、気づかざるを得ないという気持ちがある。
それは一言でいえば、他者について「わかる」なんてありえない、ということだ。
これは冷酷さじゃない。
むしろ胸を切ないほどにしめつけられて、ただ涙を流すくらいしか寄り添うことは出来ない、その厳然たる不可逆性についてだ。
昨日、ネイルサロンへ行って、何の話の流れだったか、「集合意識」について話した。
相手はなんですかそれ?という反応だった。
集合意識というのはわたしの知る限りではユングってひとが言い出した、
ユング?誰?となっているので、フロイトの弟子だったがのちに独立したひとでというと、
フロイト?誰?となる。
こういうのっておもしろいよなあ。
まさにわたしは、なんていうか、知に寄り掛かろうとしている、わけではなかったはずなのだが、
という気分を味わう。
いや、わたしは集合意識についてまったく興味が尽きないんだけど、
その集合意識って何?と聞かれるとだから、
最初に意識したのは、それが存在することの可能性に気づいたのは、
ダニエル・キイスの、多重人格者ビリー・ミリガンについての本からだった。
彼の人格の一人は、彼が触れることも接することもなかったはずのスラブ語あるいはスラブ訛りの英語を話す、という記述を読んだとき、
そんなことってどうしたらありうるんだろう?と思って実に心打たれた。
わたしがそのときに感じた直観とは、あ、やっぱり皆底の底では繋がっているんだ、という閃きにも似た強い思いだった。
そしてそれが、集合意識、というものの片鱗を感じさせるものだったのだ、わたしにとっては。
つまり、わたしにとっての集合意識とは、海面から見えている氷山の一角が個人だと思われているから皆そんなふりをしているけど、海面上から見えているものだけが個人のすべてではなく、それは切り離されたものではなく、海面下にも続きはあるんだ、ということ。
海面上に見えている個人だけが自分や他人なのではなく、意識なのではなく、海面下の地続きは氷山がそうであるようにきっとあり、それは単に水位によって遮られているだけで、本当は連なっているのだ、という感覚だ。
アインシュタインとタゴールが対談した話もした、そうしたら、それは聞いたことがある、と言われた。
自分が見ているときしか月は存在しない、とタゴールが言うと、アインシュタインは自分が見ていないときにも月はたしかに存在すると言い、タゴールは自分が見ていなくても他の誰かは月を見ているから月は存在するのだ、と言ったという話。
聞いたことがあると言われてそれでわたしはいったん落ち着くんだけど、いや、そうじゃなくてと思う。
いったい、アインシュタインとタゴールの対話を「知って」いるかはともかく、ネイリストの彼女とわたしとの間では、ほとんど何の対話も成立していないのに等しいと思って、なんだか愕然としてしまうのだ。
わたしは自分がたしかに実感できる話、あるいは喩えを、ほとんど直観に頼っているのかもしれない。
この世界で通用するようなわかりやすい言葉を決して自分は使いこなせているわけではない、ということに、
もちろんこんなことははじめてでも二回目でもなく、数えきれないほどあったのにもかかわらず、
いまだにやっぱりふと呆然としてしまう、その先を実は想定したことがなかった、っていう事態を唐突に迎えてしまうのは、
ようするに初心(うぶ)なんだなあと思う、自分が。
まっさらの、きらきらしたものを。
いわばそれは、新品の色鉛筆をいつどうしておろすか、ということをいつまでも躊躇っているような、そうした感覚だ。
2:06 2019/04/09
遺伝ときくと、すべては遺伝子の仕業でわたしたちに後天的に変え得るものはなにもない、とほとんど嬉しそうに言った友人を思い出す。
わたしはこうした話になるといつも感ずる腹立たしさを、そのときもまた意識した。
下手で生半可な知識が現状維持を強く推進する力になる構図をまざまざと、いかにも陳腐なようすで見せられているような気分になるのだった。
でもふと思う。
魂は人生のブループリントを携えてこの世へやってくるという話は、そうかもしれない、いやきっとそうなんだろうとわたしは感じている。
だとすれば、今までに起きた出来事はすべて完璧なタイミングだった、ということができる。
そして今これから先の出来事もまた完璧なタイミングで起こるのだと。
何が起こるのか予測のつかないことはいっぱいある。
ほとんどすべてそうだといって差し支えはないほどだ。
何が起こるのかはわからなくても、起こる出来事は完璧なタイミングで起きるのだということを、知っておくことはできる。
このことを知っておくメリットには実際、計り知れない底力がある。
困ったことはおきないよ、というのはまさにこのことを言っているのだし、
いかなる窮状、いかなる絶望、いかなる崖っぷちであれ、
それはいよいよ次の段階へとうつる好機が、否応なくも自分に訪れたのだと考えることを、潔いほどただ可能にしてくれる。
遺伝子っていうのも不思議なものだ。
彼女が言ったことは、実のところその通りでもある。
というふうにも思う。
彼女の直観とか仕入れてくる知識っていうのは、実に的を射ていることがある。
だが知識だけじゃだめなんだ。
つまり、得た知識をどう生かすか。
ものすごく単純すぎる喩えかもしれないけど、
嘘を吐いてはいけないと聞いて、そうなんだと納得して、
それで相手の嘘を咎めるのか、自分が嘘を吐かないようにするのか、というのは、
もう得た知識がまるで百八十度違う展開を繰り広げているのを、見せられているようなものだ。
非難するって、実に子どもじみた業だなと思う。
トリイ・ヘイデンまみれなここ数日。
「檻のなかの子」ケヴィンの物語を読了した。
わたしはこれを読み返したいと思うがあいにく、返却期限をすぎている。
しかし冷静に、というか自分の環境、自分の日常、自分のこれまで生きていた人生をふりかえって、
目の前で、義父の手によって、妹が脳漿を飛び散らせて殺される経験(しかも執拗に陰湿にいたぶり通した結果)っていうのは、凄絶すぎて言葉もない。
トリイが、ケヴィンと彼の生まれ育った家を、はじめからそう意図してではないが訪れたときの情景、
彼はこの過酷な状況を単に生きのびただけではなく、ちゃんと生きてきたのだ、と思いいたるくだりは、
実に胸を打つ。
いったい何がどうなれば、この義父のようなふるまいを自身に許すことができるのか、
あるいはまた、ただ手をつかねて傍観している母親のようなふるまいを自身に課することができるのか、
というのはわたしでは、ちょっと思いあぐねる。
業が深いというのか、人間、あまりにも人間的な、とでもいうか。
なんというか、少なくとも、わたしはこのような罪を(罪というものがあるとして)背負う覚悟があるかといえば、
ないだろうと、どこかしら無念さを抱えて思うしかない。
義父についてはケヴィンによって語られるだけだが、母親とはトリイが実際に会って喋っている。
おそらく、どちらも、そうした背景や過去を知ることがなければただそのへんにいるちょっとアレな人、あるいは単に普通の人、という印象しか受けないのだろうという予測が、わたしを圧倒的にうちのめす。
彼の義父も母親もそこらへんに普通に生息している人たちだ。
いやむしろ。
そこらへんに普通に生息している人、よりもあるいは際立ったところがある。
醜さにおいてだが。
わたしは際立ったものは好きだ。
それは自分の資質や、求めているものとは正反対かもしれないが、それだからこそ、
この眠るような現実を揺さぶってくるものがある。
ケヴィンは美しい。
彼が道中、言うんだ。
頭がおかしいほうがいいんだよと。
この気が狂ったような世界において、正常であるよりも、頭がおかしいほうがいい、ほんとうなんだよって。
これはわたしには心に突き刺さる小さな棘のように、無視しえぬもののように、わかる。わたしも彼の言うことがほんとうだって知っているんだ、と思う。
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ピンチに感謝できる点を見いだすことが出来れば、それはもうピンチではなくなるし、自然の力で解決する。
たしかに書かなければずっと思い出してしまうことがある。
それはまるで強迫観念にも似た執拗さで、ふとした瞬間に頭の中にひらめくんだ、何度も、すきを見て。
「話し方入門」のなかで、リンカーンが帽子の縁にいつでも思いついたときに書いたメモ用紙を保管していたというエピソードは、
まったく創作についての、実直なアドバイスだと思う。
仕事上でのミス、というかトラブルがあった。
それはわたしたち従業員同士のコミュニケーション不足、確認不足から起きたミスだった。
そしてお客さんに、実は手前どもで連絡不行き届きがあり、あなたが手にしているものは実はあなたがオーダーしたものではなかった、
ので過剰に受け取った、受け取らせてしまったものの一部をこちらへ戻してもらえないか、
という交渉をする必要があった。
わたしたちはそこで、相手の立場を汲み取ることはせず、むしろ自分たちが困った立場へと追い詰められた瞬間、こちらの期待だけを現実とするような愚に陥った。
相手をまるで、自分たちの窮状を救ってくれる救世主であるかのように、
平たく言えば自分たちが困ったことに対して実に快く対応してくれるであろう「良いひと」であるかのように扱ってしまった。
返ってきた相手の言葉はこうだ、自分としてはまったく受け取る気がなかったものを、お前らのミスで勝手に受け取らせておいて返してくれとはどんな言いがかり、どういう了見だ、返してくれとは何だ、自分をまるで盗人のように扱って、気分の悪い、と。
いや、たしかに。
まあ、こちらの甘えだなあ。
そもそも相手がそんなに物分かりの良い、人の好いひとではない、むしろその逆をゆく人物であることは、それまでの経験からわかっていたはずなのに、
なぜ突然相手を事を荒立てたりはしない、理解ある人物だというふうに、手前勝手な期待と願望に満ちた眼差しで見てしまったのか、そんな対応をしてしまったのか、
それは、
もう、自分たちが困った事態へと陥ってしまったから、
焦って取り戻したいものがあったから、ということに尽きると思った。
自分の立場を守ろうとして相手の誠意を利用しようとしたのだ。
たしかにこんなことが上手くゆくわけはない。
わたしたちはいつだって間違いを犯しうる。
それでもう一つ思い出すのは、写真の現像サービスを扱っていた店で働いていたとき、
いまではもうもっとデジタル化がすすんでいるが、うちで扱っているのはフィルムだった、そして、
フィルムの現像一本につき、写真の一枚をその月のカレンダーにする、というサービスを実施していた。
これも今思えば、
わたしたちはそのサービスを、サービスだからという理由だけで、
24枚撮りのうちの、自分たちが良いと思える一枚を任意で選んで、勝手にカレンダープリントにしていたのだが、
現像した中の一枚を後日(当日でも)指定して頂いたら無料でカレンダーにしますよ、という提案の方が再度の来店にもつながるし良かったのではないかと気づく。
ともかく勝手にサービスしたカレンダーがらみだったか、
間違って二枚プリントしたものを、一枚破棄するのも何なので余分に(サービスのつもりで)入れておいたのだっただろうか。
いや本当に実に安直だよね、と思い返すのも気恥ずかしいような感じだが、
自分はこれを二枚プリントすると頼んだ覚えはないとか、
あるいは、
なんだったかなあ、
要するに頼んだ覚えのないものがある、騙して金を過剰に取るつもりか、金を返してくれ、
だったかなあ、
まあなんかそんなふうだった。
全く違うかもしれない。
でもともかくわたしはあぜんとしてしまった。
しかも不愉快さまで味わった。
その不愉快さとは、こちらとしては不当にお金をせびったつもりはない、というものだった。
立場は違うかもしれないが、こうまで思い返すと、
返してくれとはどういう了見だ、という彼女の気持ちはたしかにわかる、と思える。
これとそれとを同じ俎上に載せるのはどうか、ということは棚上げするとしてもね。
その写真サービスの件では、相手がひじょうに怒って憤慨しているということはわかったし、
それが何かの行き違いであるということも察せられて、
いったいそうまで怒る理由が何であるのかはさっぱりわからない状態で、わたしは不愉快かつ不可解ながらも、相手を言い分を真摯に聞くことによってともかく相手は宥まってくれた。
いや、いま唐突に思い出した、
消費税がらみだった。
税抜きですべて計算した上で、最後にまとめて課税するやり方をしていた。
くだんのお客さんは、税抜き価格だけを見て、それが自分の払うべきまっとうな金額だと思って、
課税された合計金額を要求されたことについて、
騙された、自分は余分な金額を払わされたと勘違いして、怒って怒鳴り込んできたのだ。
わたしは本当に、怒っているひとが苦手で、実にどうしようもない。
自分は正しい、と思っていてそれをこちらに認めさせようとしてくる人が実に苦手だ。
でもどこかで、
そんなことは躓きにはならない、自分にとって障害にさせておいてならないんだ、という思いをいっそう募らせている。
相手は相手の目線や都合で勝手に怒っているのではあるが、
そういう相手にもし理解を求める必要性があるのならば、相手が不信感を抱きうるような流れを見逃した自分を正当化するのではなく、自分の落ち度、手ぬるさがあったのだと、
そうした自分が気づくべき、学ぶべきチャンスを相手から与えてもらったのだと、
そんなふうに前向きに捉え直すことが出来れば、陥ったピンチはもはやピンチではなく恩恵のように感ずることだって可能だ。
それはただ平謝りに謝ればいいという姿勢とも違う。
すみませんの繰り返しでは相手は気分がいっそう悪くなる。
思うに、すみませんという謝罪は、どこかしら相手を拒絶しているようなところがある。
だってそれだけじゃ、謝られている側が相手を謝らせてばかりいる加害者のような気がしてくるってことがある。
最終的には、自分の未熟さに気づかせてもらえました、ありがとうございますという感謝を伝えることが、winーwinの形としてすっきりと美しく収まる。
もちろん感謝(しているふり)ではだめ。
自分が心を動かされてもいないものに、相手が心を動かすってことはない。
もしそんなこともあるとすれば、自分が詐欺を働いた可能性を疑ってみる必要があると思うね。
自立とは。
「本来パーティーはあまり好きではない。働いているほうが好きだ」というドナルド・トランプは、わたしなどでは測りがたいほど有能なのだろうし、
わたしは有能さって大好きだ。
彼の仕事熱心さ、明確なビジョンを持ち迷わずそれに進む姿勢をわたしは心から尊敬する。
しかし彼の本の、女性について、それも元妻についての言及を読むと、
女性蔑視の発言がある、というバッシングをなんとなく思い出すような感じはある。
なんというかそれは、彼はもしかすると、自分が男である前に人間だ、というふうに自身を捉えたことってないんだろうか?まさか?と、ふと。
蔑視というよりも、女性というものが彼の中ではただ単純に「他者」なのかもしれない、という気がする。
あるいはむしろ実際にはまったく逆で。
元妻が、いかに女性の立場を守るべきかということを、同じ女性として、財産はゼロで子どもを抱えて離婚した女性にアドバイスをする。
華美な服を着て、高価なアクセサリーを身につけ、ありあまる財産つまりは離婚の際の慰謝料(財産分与というべきかな)を持っていながら「同じ女性」として、金銭的には貧しいというほかはない女性たちにアドバイスを与える姿をみて、
彼は複雑な、あるいは皮肉にも似た思いをもつ。
元妻のあまりに女性らしい、自分は女である前に人間だ、という考えを持ったことがないような様子に、
歯がゆい思いをしたのかもしれない。
現に、金のない男の場合の例も紹介している。
二年もお金持ちの女性に尽くして走り回りいよいよ結婚へとこぎつけたとき、
離婚した場合、彼に財産は渡らない同意書へのサインを迫られてその男は泣いてしまった、という。
そして結婚はあきらめたと。
しかし受け継いだ財産の有無がいったい何だろうか、とわたしは思う。
親の七光りも利用できないなんて、と斎藤一人がいうけど、それはわかります。
べつにそれは親が実際に金持ちだとか、別れた夫が金持ちだとか、そういうことだけじゃない。
わたしたちはお金を持っていようがいまいが、誰だって偉大な先人たちが残したありとあらゆる遺産の上に生きている、ということを忘れるべきではない。
魚を売る人のことをsell‐fish、selfish、すなわち利己的という。
魚の獲り方を、魚を売るのではなく、教えてあげられるのが一番よい。
しかし人間、自分から必要にかられて学ぶ以外、真に学べるものではなく、
ちまたには魚を売ってくれと口をあけてただ待つばかりのひとが大半だ。
与えられることへの渇望にいまだあえいでいる人たちが多くいる。
最初、人間の構図は三角形、ピラミッド△型だった。
頂点がいて次がいてその次、最後いちばん多いのが最下層。
まあ農民が一番多かったころというイメージでだいたい合っている。
そして社会はダイヤ♢型になった。
中流階級が大半を占めるようになる。
よっぽど貧しいひとというのは、少なくなったのだ。
そしていま、貧富の差、格差がひじょうに叫ばれ、危惧されているようだが、
これは逆三角形▽を上、三角形△を下に、真ん中のちょうど細いところが重なるようにつなぎあわせた形であり、ダイヤ型のときは一番ふくらんでいたところはどんどん細くなりつつある。
産業革命後からゆるやかに、日本でなら戦後、爆発的に増えた「中流階級」はどんどん、豊かであるか貧しいかにふりわけられ、ほとんど絶滅の危機にあるというのだ。
いずれ、この逆三角形▽と三角形△は切り離されるであろう、といったのは、ドナルド・トランプ。(もしかすると、ロバート・キヨサキ)
わたしも、そうかもしれないな、というか彼のいわんとするのは妥当なところだと思う。
そういうことは、宇宙人も言っている。
三角形のたとえではないが、
つまりいわゆる次元上昇、アセンション。
もはや、とどまるか、のぼるかという段階にきているのだと。
とどまることに決めたひとたちは、べつに消滅するわけじゃなくて、彼らだけか、なにかと合流するのかしらないが、そのままやっていくだけのことだ。
それにしても、ドナルド・トランプの離婚歴をみると、
単純に女を見る目がないのでは、という気がしてしまうのもたしか。
そして、女を見る目というのは、男である自分自身をふりかえる目がそのまま反映されるだけのものだと思うが、どうだろうか。
これは逆も真なりだと思う。
ドナルド・トランプはかつてロバート・キヨサキと本を一緒に書いたが、
ロバート・キヨサキというひとは、妻のキムと離婚したりしていないですね。
いやそれの良し悪しはそれこそ単純に言えたものではないが、
わたしは妻であるキムの本も読んだので、
同じ女性として彼女には共感するし、こういう女性を彼も妻にすれば何度も離婚するとかいうことにはならなかったんじゃないかと思えてしまう。
が、きっと彼はそうはしないだろうね。
これは相手がどうであるかではなく、自分自身の問題だからだ。
もちろん離婚が全部悪いわけではないが(わたし自身はいずれ離婚するのに結婚する必要があるだろうか、と長く思っていた)、
お金のことって本当に一番最後まで持っていくとかいうような問題ではなくて、むしろ一番最初に、
最低限クリアすべき課題というほどのもの、なのだと思う。
ドナルド・トランプの離婚にまつわる問題、お金の問題などをみると、
それから、トランプの名はなくてもやっていけると最初の妻は言ったけど結局やっぱりトランプを名乗っている、というような点をみるにつけ、
彼は妻に魚の獲り方を教えなかったのだ、と思われてならない。
きっと自分の仕事に夢中でそれどころではなかったのだろう。
こういうことは、利己的というよりも、甘さの問題だという気がしてしまうこともある。
どこかにまだ隙がある。
手ぬるいところがある。
顧みられず、放置されたままの問題がある。
さっき、お金持ちの女性に求愛し、離婚のときには財産放棄の同意書にサインを求められて、泣き崩れて結婚を諦めた男の人の話をしたが、
こういう話を聞いて、自分の愛がお金目当てだと思われたことが悲しかったのではないか、などと思うひとは甘いなと思う。
お金に関して、もっと言えば愛に関しても、実に甘い考えを持っている。
甘い考え、というのはつまり、自立できていないということ。
自立に関しては、本当にわたしは、つきあいのある彼や彼女たちにこれまで自分の持てる最大限の真摯さで話をしてきたと思っているが、
さっきも触れたが、「与えられることへの渇望」、
これはわたしは何がどうなれば癒されるのか、実に悩ましく感ずる。
わたしにはわからない、正直お手上げだ。
誰しも他人の傷を癒すより自分の傷を癒す方がずっとよいのです、という誰かの言葉を思い出すし、ともかくそれが的を射ているひとつの素晴らしい回答であるのは間違いない。
自立、ときくと、彼らはでも人は誰でも一人では生きてゆけないし助け合わねばならない、という。
いや正論ですね。
わたしは実際のところ少し、腹を立てているのかもしれない。
同情心というものは、ときに、自分ばかりか相手の足をも引っ張ることがある。
つまり、人間たしかに馬鹿ばかりではないので、与えられること奪うことだけを考えているひとっていうのは少ないですね。
多少の知恵はある。
そしてその多少はあるという知恵が実に厄介なのだ。
たとえばちょっとした数人の飲み会などで、皆から三千円ずつ集めてまとめて会計をし、お釣りを分配せずに自分の懐に入れるような人間はむしろ少ない。
すぐばれるようなズル、あるいは強欲さを見せる人間というのは、むしろ少数派だ。
人っていうのは誰だって他人から、親しければ親しいほど特に、良く思われたい気持ちをどこかしら持っているものだからだ。
ちょっとキリがない様相を呈してきたので率直に言うと、
わたしは「良いひと」同じことかもしれないがむしろ「良いひとを求めるひと」の中には、おばけみたいなひとがいるなと感じることがある。
まじめに取り合っていた自分が愚かだったと思うようなひとがいる。
それは単に自分のキャパシティの限界がそこだったという話でもあり、なかなか声をあげないわたしが痺れを切らして声をあげたのはそこだった、というだけの話でもある。
ほんとうの怒り、というのはなかなか表には出てこない。
わたしだけじゃない、誰でもね。
でもそうしてやっと声をあげたときに(それは直接他人へぶつけるまでもなく)、自分の怒りを自分が意識する、自覚するだけで問題の九割は片づいていることに気づく。
ああ、わたしは怒っていたんだ、怒りたかったんだって。
もう本当にそれだけでお終いにできる。
復讐も啓蒙も本来、必要がない。
怒っていた相手と心の底から気持ちよく握手ができるようになる。
出し切らないことが問題なんだ。
出し切ってしまえば、笑いがこみあげてくるだけのこと。
しかしおばけは怖い。
おばけっていうのは、生きている自覚のない人間のことだ。
もうそれこそ幽霊みたいなものだ。
あれ?ねじれたね。
幽霊は自分が死んでいるという自覚がないものだったっけ?
いや、それで思い出すに、幽霊の見えるひとが、
実に顔色の悪いというか、死臭を漂わせているひとに、あまりにもそれがひどいので、「病院へいったほうがいいですよ」と見ず知らずの間柄ながら無視できずに助言すると、
「ご親切にありがとうございます。でも大丈夫です。わたしはもう死んでいますから」と返ってきた話、
まじかよ。
まあ、幽霊にも色々あるのかもしれない。
とにかく、生きている人間がおばけのようになることがある。
良かれと思って、あるいは本人としては必要(というか不安だな)にかられて、他人のエネルギーをむやみに際限なく、厚かましくも、奪う状態へと陥ることが。
病。
そんなものがあるとするなら、たしかに、不安は病だ。
不安というのは、空気を奪い合うようなものだ。
ほんとうに実に他愛がない、まったく何でもない。
実際に、空気はちゃんとそこにあるのに、勝手に過呼吸になったりするひとがいるのだ。
そのひとは地球の空気が現に薄くなったから(濃くなったからか?)、過呼吸に陥るわけじゃない。
自分の生み出した不安によって、適切な呼吸を自ら不可能にしてしまっているだけだ。
わたしは、甘えは病に通じると思う。
それはたとえば朗らかさや呑気さを捨てろと言っているんじゃないの。
甘えは何でもがそうであるように、諸刃の剣なのだ、それは自分を生かしも殺しもする。
生かすばかりではないということなんだ。
あなたがほんとうにそうしたい、と思ったことを制止できる人間は、いない。
10:27 2019/04/01
女性の投資家の強み、その一、
わたしたちは「わからない」ということを男性ほど恐れない、とキム・キヨサキがいう。
「わからない」と言える、わかったふりをしない、知ったかぶりをしない、というのはたしかに真に一番手っ取り早く得られる賢さだ。
たとえば「地球は丸い」とか、「死ねば無になる」とか。
いや、地球に関してわたしは「平たい」とか「立方体」だとか主張するわけじゃないが。
「1+1=2」である証明なんてわたしにはできないし、できないっていうか率直にいってあまり。つまり、できない。
死ねば無になる、というのは端的にいって嘘だ。
そういうことを証明するのは誰にとっても完全にただ不可能だ。
自分はそうだと思うことは可能だし、思えばそれが現実になるのも真だ、だが無における現実っていったいそりゃどういう代物なんだろう?わたしにはまったく想像もつかない。
想像もつかないし、どこかそれは滑稽さをともなう。
0:27 2019/04/02
恐れが問題、恐れが鍵だ。
自分がおびやかされていると感じながら、冷静で合理的な判断をするってことは、実際誰にとっても不可能なのだと思う。
それについて自分がおびやかされているように感じるか、感じないか、そこにひとの反応の違いが生まれる。
東日本大震災のとき、放射能にひどく過敏になって、それこそパニック状態ともいうべき不安に襲われていた友人がいる。
いったいこの事態の責任を誰がとってくれるのか、国か、電力会社かということも口走っていた。
わたしはそのほとんど泣きそうなくらい必死なあまり憤ってもいる口調を電話越しに聞き、なんだか、
なんだろうこれ、ともかくものすごく不安にかられているんだなということは、わかった。
誰が責任をとってくれるのかって、さあ、誰だろう、そんな壮大な責任は誰も取れないんじゃないか、とわたしは思った。
たしかにわたしがのほほんとして過ごすうちに、放射能にやられちゃって最悪の場合死ぬとか、
死ぬのならある意味やりなおしがきく(あるいはやりなおすことさえできない)からいいけど、死なないまま苦しむ状態へ陥る、ということが、
この先にもないわけではないかもしれないが、
それにしても、彼女の不安を自分のことのように理解する、ということは困難に思えた。
とはいえ、起きている状況というのは彼女もわたしも共に日本、しかもわりと近所で生活している以上、変わりないとも言えるわけで、
状況が違う、というのは、
物理的な違い、環境の違いではなくてただただ、
自身の内面に起こる心境の違い、というものに過ぎない。
だがたしかに、それこそが「彼女」と「わたし」を分ける最大の隔たりであり、最大の難関だ。
こんなことは今さら思う仮定の話でしかないが、
家が流されて家族や友人、恋人も亡くして、仕事もなくして、自分だけ生きのびたというような、それこそ過酷な状況下ではないからこそ、
おかしな言い回しだが、安心して不安がっていられる、ということはあったのではないか。
とはいえ、とはいえですよ、当時矢も楯もたまらず不安がっている彼女に、「あなたの不安はいわば贅沢からくるのだ」などと言い放つことが、彼女の不安を実質的に解消できたかどうか、と想像すると、
まあ無理だよなあという気がする。
そんなんじゃ全然だめ。
いやこれは、最近にもある。
別の人だけど。
もう亡くなってしまったけど。
末期がんだった。
批判的な気持ちは必ず自分自身を仕留めにくるとわかっていたから、わたしは、「何を思えばいい」のかと、
それこそイエローモンキーの「JAM」という名曲にある歌詞のように、
無能さ、無力さもあらわにただ、立ち尽くすだけだった。
忸怩たる思いなんていうものはない。
わたしは自分がいったい何をしたがっているのかさえ、不意にわからなくなった。
いったい何かをしたいと欲しているのかさえ、願っているのかさえ、自分のなかにその衝動を見出すことができずにただ、傍観者よろしく茫然としていた。
いや、こう言うと、それは嘘だというのはこのことに関わったひとからも言われるだろうし、自分自身としても、百パーセント傍観者を気取れていたかといえばそうではない、ということから、わかる。
自分のできるだけのことはしたいし、自分がそうするべきだ、ということはわかっていた。
そして、そうした。
だからただ茫然自失して立ち尽くしていた、というのはある意味、外側から見ればそうではない。
でもわたしの内面、わたしの内実はただただ、ようするにあっけにとられていた。
実際のところ、ひとは誰しもひとに対して、傍観者でしかありえないのだ。
突き詰めれば自分自身が選択した結果を受け取るのは、決して他者ではありえないということだ。
影響はある。
わたしはわたし自身が望み、願う状態つまり、何も死ぬことはない、
という事態へと彼を誘うべく、影響を及ぼすことができたなら、
とはずっと思っていた。
でも結果からいえば、できなかった。
だって、死んでしまった。
その骨の一片はいま、わたしの手元にある。
そこに無力感あるいは、もっといえば罪悪感があるかと聞かれたら、
ないです。
そんなものはない。
でもいまふと思うに、死を賭して、というとリリカルにすぎるかもしれないが。
死を賭してまで彼は、わたしに、
わたしはそんなものに同情はしない、という決意むしろ覚悟を与えてくれたのではなかったか。
そんなものに、というのは、ひとは誰しもひとを背負うことなどできないのだ、できるというのは数ある幻想のうちの一つにすぎないはずだ、というわたしの感じ続けていた思いに、あるいは捨てきれずにいた迷いに、
彼は終止符を打つべく。
そしてわたしはここから自分へ返ってくる害をも賭して批判的にいうが、
他人まかせの人生はまったく自分への見返りはない。
病床にあって彼は言った、
病院が自分のために尽くしてくれないとはどんな嘆かわしい事態だろうか、というようなことを。
病院が、医師が、言ったことはすべて嘘だった、
抗がん剤治療は毒と同じ、
あなたの言うとおりだった、とわたしに言った。
わたしは実のところそれは毒にも薬にもなるかもしれないけど、身体への負担はものすごく大きい、とだけ言ったのだ。
こうして彼が死んで思うに、最後に見舞いに行ったとき。
もうこうなれば人工肛門もつけてもいいと思った、という。
その手術をしてくださいとお願いしたら、できないと医者に言われた、あなたにはそれに耐えうる体力が今はないと。
できないってどういうことやねんな、と鬼気迫るように言っていた。
わたしは思わず目をそらした。
そらしてから、もう一度彼の目を見た。
まったく今までとは違う目をしている、と思った。
どこか、とても凄惨な。
あると思われていたすべてがぎりぎりまで削ぎ落とされて、いまはまだ存在していること自体が僥倖、あるいは生命の不思議とも感じさせるような、
いったいわたしは彼の何を知っていただろうか、と思わしうる目。
彼は病院で死んだ。
夜中に死んで、明くる朝わたしは病院の地下一階にある霊安室で死んだ彼と対面した。
生きた彼と最後に対面したとき、いろんな管を通されて体力も急激に落ちてしまった状態で、
外へ出たい、こんなところに一秒たりと居たくない、と彼は言った。
出られるよ、たった今、そんな管はすぐにでも外してしまって。
とわたしは言った。
なんなら今すぐわたしと一緒に。
もちろんわたしは一緒に外へ躍り出たとしても、いつまでもあなたと一緒にいるとは言わないけどね。
だってあなたが生きて動いているように、わたしも生きて動いているのだから。
でも、外へ出たい、
誰にそれが止められるというの?
誰にもほんとうには止められやしない。
あなたがほんとうにそうしたい、と思ったことを制止できる人間など、この世にはまるっきり、ただ、存在しない。
それだけだ。
自分を必要以上に良く見せたいと思う気持ちは、決して裏切ることなくあなたの足を引っ張る。
それがなんであれ「選んだ」という視点でわたしはひとの行動を捉えてしまうから、
たとえばガンで余命宣告されるのもそうだし、性同一性障害を抱えるのもそうだし、
たった十六歳で妊娠し、産むと決め、子どもの父親であるその彼と籍を入れようとしたら籍を入れる寸前に彼がバイク事故で亡くなってしまい区役所で籍を入れたいんだと訴えると「死んだ人とは籍は入れられないんですよ」と役所のひとに困惑しきったように言われた話なんかを聞いたときもそう。
それがあまりに自分の琴線にふれたとき、わたしは圧倒的な思いがただ制御不能なほどあふれて、泣きそうになってしまうことがある。
同情や哀れみじゃない。
彼の選択したことの、物凄さにただ圧倒されてしまうんだ。
平たくいえば、感動してしまう。
よくそんな凄い選択ができたね、わたしは、
ともかくわたしはそのハードル、その学び、その敢えていうならば「困難」あるいは「試練」を選びはしなかった、ということを厳粛なまでに肌身にも痛いほどにただ、思い知るんだ。
わたしたちには選択権がある。
もうそれは権利というよりも必然なのであり、いつでもどこでも絶え間なくなにかを選ぶしかない、しかないというより、選ぶことができる状態にある、ということだ。
わたしはかつて、AじゃなくBをやりたいのだが、自分のいまいる場所ではAという選択肢しかないと宣言されたときに、はっきりと悟った。
自分のやりたいことはBだが、どうしようもないのでAとしてここに留まる、ということは、
わたしは毎日毎日、BではなくAを自分が選び、自らの意思でそこへ出向くことをしている、ただそれだけなのだと。
Bを選ばないということは即ちAを選ぶ、ということなのだ。
何かしらつまり選んでいるんだよ。
保留する、先延ばしにする、ということは現実的にはありえない、不可能なことなんだ。
毎日毎日Bがいいと思いながらAであり続ける、いったいそこに真のメリットはあるのか。
ないね。
というわけで、わたしはAを辞してBをすることにした。
仕方なしにそうしているのだ、という言い訳や解釈ほど、自分を無力さの奈落へと突き落とす行為はない。
すべては自分の意思だ。
どこかでそう肚をくくって、「否応なしに選択させられている」という意識から、「何らかの隠されたメリットがあるからこそ自分はすすんでこれを選択している」のだと、自分の意識(=選択肢)をシフトさせる必要がある。
誰かや何かから強制的に選択させられているわけじゃない、自分が自分の都合で勝手に選択しているだけなんだと、どこかで気づく必要がある。
それは逃げても隠れても必ずやってきて、あなたやわたしを離すことは決してない。
そう、
わたしはそうやって選択したBというものが、ほんとうに好きだ。
今日、なんでわたしはこの仕事をしているんだろう、ということが、まるで原点に立ち返るように、思い出すように腑に落ちて、場違いながらふと微笑んでしまった。
自分のキャパシティなりに、ものすごく緊迫した場面ではあったが、そういう気持ちに思いはせる余裕が持てたことをわたしはとても喜んでいる。
なんだか嬉しくなってしまった。
そしてたしかに、これでなくてもいい。
どんなものであれ、
つまりあなたの、わたしの仕事が何であれ、
同じような嬉しさがこみあげてくることは、きっとある。
すこし、具体的にいうと、
ようするに自分を良く見せたい、とか失敗したくない、とかいう気持ち、その緊張が、
もう完全に裏切ることなく、自分の足を引っ張るってことを痛感したの。
そして確かにわたしは自分の足を引っ張るそれ、を克服したいといつもかつて願っていたのを、ゆるむように思い出した、今日は良き一日なのでした。