ベテランのわたしが、「勝ち方」を教えてあげた話。

  わたしがシャッフルをしてインチョンを入れると、最初の三枚が1・1・1なの。
 それで、1ドロー出るよって、1ドロー賭ければ百倍だから、
 そう彼にいう。
 だってここに1・1・1、見る?というと、身を乗り出して見せて、と彼がいう。
 こんな貴重な瞬間をわたしはわりと軽くフラットにやり過ごしてしまったんだけど、
 あとあと思い返して、あの瞬間たしかに重なり合っていたなと思う。
 お互いの領域をお互いに親愛的に侵しあっていたと。
 あんなに近づいたことは今までなかった、というほどにね。

 うん。
 こういうのは全部、本番に備えた「下書き」なんだよね。
 下書きをどこの誰とも知れない・はずのひとに見せるわたしの不遜さときたら、
 まったくトンデモないよな。

17:19 2019/07/24
 1・1・1のとき、結局1ドローは出なくて、
 でもそもそも一回も1ドローに賭けてもいない、
 わたしがそういうと、彼がだってカマシやろうなってわかってたもん、と笑う。
 いや、ほんまに出ると思ったもん、とわたし。
 いま振り返ると、ちがうな。
 そうじゃない。
 あなたにカマシなんかかけないよ、ほかのひとにはわからないけど、といって笑えばよかった。

 こうした会話には実に色気がある。
 色気っていうのは、単にセクシーだとか、胸の谷間だとか、
 そういうこと、そんな直截的なことじゃなくてさ。
 色気ってたぶん、知的さをいかに躱すかってことなんだよな。
 
 さっき本を読んでいたら、いま目覚めなくても大丈夫です、また二万六千年後があります、とあって、噴き出してしまった。
 いや、「大丈夫です」じゃない、全然大丈夫じゃないだろ、いったい誰がそれ聞いて安心できるんだよ。
 われわれ、たかだか百年と信じられている寿命からして二万六千年とか天文学的なスケールなんて、まるで実感わかないんだから。

 

 彼が、のんちゃんベテラン感出てるもんな、という。
 隣の台にいる現役大学生のディーラーを見て、おれ大学生とやろうかな、と笑う。
 もっと初々しい感じ出した方がいい?と聞きかけて、やめる。
 
 わたしにはたしかに、ベテラン感があるよなあ。
 いや。自分で思う以上になんていうか、ひとに言われる。
 いまだからじゃない。
 もう、なんだ、ほんとに十代のころからだ。
 なんにもしていない、なんの発言もしていないのにね。
 ただ、そこに存在しているというだけで。

 だから逆にわたしに手を出せるやつってすごいなと思うんだ。
 すごい
 馬鹿だなと。
 いや、そうじゃない、馬鹿に可愛いなと。w

 昨日、職場のウエイトレスをしている子を誘って飲みにいった。
 すっごい久しぶり、とわたしがいうと、彼女がわたしもですよ、という。
 上がり時間が誰とも被らないから。
 うん、わたしも。

 彼女は自分が男なら、お客さんKみたいな立ち位置にいたい、という。
 へえ。
 でも、そうだな、似ているかもしれない。
 お客さんK氏、めっちゃ空気読めるからな。

 彼女もすごい読めるの。
 わたしはトランプのQをプリントしたTシャツを着た子が張りにきたときのことを思い出す。

 

 いったい彼はいつからわたしを見ているんだろう?
 いやもう、見ているものとして話を進めますけど。
 わたしにはこれと言って覚えがない。
 自分自身あるとすれば、あのネイルの件からだ。
 言わなきゃ伝わらないじゃん、と言い放ったあの瞬間。
 
 彼はすごく頭がいいと思う、とわたしがいうと、彼女はうん、と大きくうなずく。
 わたし、彼女を買っているんだな。
    
 

 しばらく前から、友人のことを、要するに横着やねんな、と感じていた。
 横着はほんとうによろしくない。
 でも自分じゃわからないんだろうな。
 貯金なぞ興味もなかったわたしが、ちょっとやってみようという気になって五十万貯まったという話をすると、五十万借りにくる。
 いや。いや、いや。
 あるか、そんな話?
 とわたしは驚愕する。
 でもたしかにこれはわたしが用意した舞台なんだよな。

 そのときに友人がいうには、わたしのことがただ羨ましくて、とこうだ。
 なんやねん、羨ましいって。
 羨ましいから、なんなん、それで自分は下手な下心で失敗してお金を失って、お金を借りにくるってどういうことなの。
 いや、
 わたしは羨ましさから自由にならなきゃならない。
 妬むのも妬まれるのも根は同じなんだよ。
 そこを分ける必要ってないんだよね。
 わたしは妬まれることに実に無頓着、というより傍若無人だった。
 妬んでんじゃねえよ、アッタマ悪いなって、ほんとうに冷淡な、あるいはまた心配性な態度を取って生きてきた。
 そうじゃないよな。
 
 彼女は、そうだな、褒め上手だね。
 それ、すごくいいことだよな。
 褒めるのも上手だし、ひとを上向きに乗せるのもすごく上手。
 
 お客さんAが昨日、また走っていて、なんでや、何が起きてるんや、と実にヤケているので、
 なにが起きてるんやって自分、それ、まるで自分で惹き起こしていることだから、
 わたしのシューターで、見かねてわたしが、
 冷静にやらなあかんでほんまに、という。
 これは、せりふじゃないの、
 せりふって文字通り言えばいい、じゃないんだよな。
 ああ、そんなセリフがこんな場面では有効なんだ、じゃないんだ。
 ただ与えられたセリフを言えばいいだけなら、役者なんていらないんだよ。

 戻してあげたくて、その捻じれてこんがらかった糸を解いて、良い流れに乗せてあげたくて、わたしはそのシューターをまいていた。
 それ、カードを操るとかじゃないんだ。
 操れませんから。
 そうじゃなくて、お客さんAの気持ち、気分を変えてあげたかった。

 ちょっと変わったところで、わたしは冗談のようにいう、
 Aちゃんの弱いときってほんまにBちゃんより弱いねんからと。
 Bちゃんが横で、それ本人おるときにいうか、と突っ込んでくる。
 本人おるときがいいでしょ、と軽く流して、さらに、
 勝ち方教えてあげようか、といたずらっぽくわたし。
 二百五十じゃなくて五百走ってるって思えばええねん。

 結局わたしと、その次で戻して、二百五十万走っていたのが、二万七千負け。
 送り出しながら、ほんま、刻むなあとわたしは笑う。

 その日、飲みに行った彼女が、Aさん、のんちゃんに感謝してるって言ってましたよ、という。
 のんさんに、冷静になれって言われてから戻ったって。

 二百五十じゃなくて五百、というとアホ、そしたらおれ五十ベタ張りせなあかん、
 と言っていたが、
 すればいいんだよ。
 結局勝ち方ってのは、なんだろう、
 まあ要するに負けないことなんだよな。
 というか、自分は勝つんだ、と思いきれるかどうかなんだよな。
 ともかく、額じゃないんだよ。

 五十なら戻せるけど五百は戻せない、じゃない。
 数字に惑わされちゃダメだよ。
 数字は使うものであって、数字に使われるものじゃない。

 いや、ベテラン感やばい。

 褒め上手に関して思うのはだから、わたし、ひとが褒めやすいひとにならなきゃダメなんだろうなあ。
 そうやって皆を、誰でも褒め上手にしてあげなきゃいけないよね。

1/12より、1/200,000,000の方が大きい。

    コンプレックスっていうのがやばい。
 それのない人間はいないと思うけど、わたしだってあるし、
 コンプレックスがあることが悪いわけじゃない。
 それに対してどう向き合うか、対処するかということが、「ヤバさ」につながる。

 ストレスとかも一緒だと思う。
 ストレス自体は誰にでもある。生きている以上はある。
 ないのなら、 
 もうじゃあ死んでしまっても一緒なのでは、と思う。

 ストレスがあるから楽しいし、コンプレックスがあるから楽しめるんだよ、
 というところまで行けないから、
 ストレスがやばい、コンプレックスがやばい、という感じになる。
 
 友人の一人が、帯状湿疹みたいなものが出来て病院へいくと、医者に、ストレスですねと言われて、わたしストレスが原因って言われるのが一番イヤ、もっと特定してくれないと医者の意味がない、
 ということを力説していて、
 うーん、いやだって、まあ、ストレスだろうなと当時わたしは思っていたんだけど、
   
 そうだな、確かに単にストレスですね、では能がないといえばない。
 ストレスを解消しきれていない、ストレスを感じ切れていない、ストレスを受け容れきれていないあなたの姿勢が、身体にも現れたんです、というふうに言ってほしいな。

 困ったことが起きる。
 困った、どうしよう、やばい、と危機感を感じるとき、
 それについてどう対応するか、どう受け止めるか、
 そこにそのひとの真価が発揮されると思う。

 なんの危機もないとき、安全でリラックスしているときに、そのひとの真価は問われない。
 作家の氷室冴子さんもよく言っていましたね、いざっていうときの振る舞いでその人間がどういう人間かわかるんだって。
 それで彼女は癌に罹って実に最期をきれいにおさめたという話を何かで読んだけど、
 それはいいけど、
 やっぱりわたしは何も死ななくても、と思ってしまうんだよな。

 わたしはリセットボタンを押さない工夫がしたいんだよ。
 
 職場の友人が、引っ越したのは新築の賃貸で、最初はキレイを保っていたけどどんどん掃除を怠っているうちに汚れてきて、ここは、どうしていいかわからない汚れとかもあるし、一度プロの掃除屋さんに頼んで、リセットして
 それから自分でキレイさを保っていこうかという計画について話していて、
 まあ、そうだなあ、そりゃ、なんもしないよりかはもちろん、いいよなあと思いつつ、
 その「リセット」という言葉がなんだか耳について離れなかった。
 
 工夫したいよね。
 というか、わたしは工夫するのがとにかく好きだな。
 我慢がイヤとか、イヤなことはしたくないから今のままでいいとか、
 そういう二次廃棄物的なものは全部、箒で履いてゴミ箱に捨ててしまいたい。
 もういいからそれ。
 と思っちゃう。

 イヤなことは誰だってしたくない、
 我慢だって誰もしたいわけじゃない。
 わたしだって相当イヤだ、わたしが一番イヤだという自信もある。
 要するに「イヤなこと」「我慢だと思うこと」の具体的な内容は、あなたが独自に決めているだけであって、他の誰にとっても絶対的にそうだというわけではない。
 
 イヤだとか、我慢だとかいうのは、実に表層的な切り取り方なんだよな。
 
 あなたがピンク色について「なんだかわからない」けど、無性に嫌いだと思うとき、
 誰だってピンク色は嫌いだよね!って決めつけちゃうような行為と同じくらい、
「我慢はイヤ」
 という、そのたった一言で自分をごまかすのは幼稚臭いことだ。

 いや、そりゃ誰だって我慢はイヤだけど、誰だってピンクが嫌いとは限らないじゃん。
 ここを混同してしまえる愚かさは脱いでしまうほうがいい。

 つまりそれが何で嫌いなのか、なんでイヤなのか、ということを、
 自分自身にしかわからないソレを、自分が突き止めずにただイヤとだけいう、「イヤ」で察してよ、と振舞う行為に専念したところで、いいことは何も起こらないよ、と思う。

 うん、たとえば、すごく話が超宇宙的になるけど、
 我々の住むこの地球は何度も危機を迎えている。
 何度も原子爆弾や戦争で滅んでいる。
 もうこんな汚いものはいっそ丸ごと全部一掃してしまって、
「リセットボタン」を押してしまって、それからやり直そうって、
   
 そういうのはもう、やめたいんだよ。

 というのに、似ている気がします。

 ノアの方舟はもうオールドファッションなんだよ。

 現にあるもので、現に存在しているもので、何とか工夫して未来を繋げようよ。
 
「いま」に意識を向けようよ。
 

 ノアの方舟の話を最初、子どものころに知ったとき、
 動物の一対だけを集めたの?他のキリンさんやゾウさんはどうなったの?とすごくなんだか胸が苦しくなったのを覚えている。
 そのキリンにも親がいて兄弟がいて友人がいて、ご近所さんがいたんじゃなかったの?
 その喪失をどうやって、その喪失をいったい、ないものにはしてしまえないじゃないか、どうやってそのキリンは解消したんだろうかと、不思議にさえ感じていた。

 わたしは滅びるものを信じていない
 どんな誰だって、なんだって、滅びていいものなんていない。
 それぞれが確かに、確かなパーツだ。

 ジグソーパズルで、12片のうち1片が欠けているものも気になるだろうけど、
 わたしは、2億片でできているパズルの1片が欠けている方がもっと気になると思うんだよ、
 ここまでやったのにソレがない、という事態の方がきっと気になる。

 早い段階で気づいた方がいいけど、遅い段階で気づくことにもメリットはあって、それはそれだけ、その1片の価値に気づく、ということなんだ。

恋は良いもの。

 わたしのこの衝動に対して責任を負えるのは、彼ではなく、宇宙のどこかに鎮座している神様でもなくただ、わたしだけ。

1:55 2019/07/21
 わたしはやっぱり「きれい」でいたい、
「美人」でいたい。
 そして、美人ってほんとうに誰にでもなれるもの。
 美人ってどう考えても「顔立ち」「顔の造作」じゃないんだよ。

 それこそ、姿勢、立ち居振る舞い、しぐさ、言動、いわば「ありかた」だね。
「ありかた」が美しいかどうか。

「ありかた」はいまこの瞬間意識で変えられるものだ。

 鼻を変えたい、という職場の彼女に、
 あなたそんなごくごく細部じゃなくてもっと手っ取り早い方法があるよ、姿勢を美しく変えることだよっていうと、
 ヨガとかですか、わたしそういうの三日坊主どころか一日坊主になっちゃうんですよねという。
 最近よく本当に思うけど、こういう手合いの面倒くささっていうのはもう、筆舌に尽くしがたい。

 このことを他のひとにいうと、それが本当に効果があるのかどうか実感しづらいとか、これをやったからこうなるっていう理屈を彼女自身が落とし込めていないからじゃないかといわれて、まあそうなんだろうけどさ。
 
 わたしからすれば、結局モチベーションが低いんだよな。
 もっと言えば、鼻だけを変える、そのデメリットについてまるで意識していない。
 まあ、何がメリットで何がデメリットかは当人が決めることだから、
 わたしはそこでなんだか、押し黙っちゃうんだよな。
 でもものごとって本当に、メリットとデメリットって背合わせであって、どちらかしかないなんてことは、ありえない。

 彼について、それでその後どうなの、進展はあったのと聞かれることを勝手に想定したわたしが思うに、
 もう、なりゆきに任せる、ということしか言いようがない。
 この、なりゆきに任せるとは、
 もちろん自分が何もしない、ということではないんだけど、
 
 韓国の占い師が言ったように、
 相手が「いいひと」か「よくないひと」かを決めるのは完全に自分なんだから、
 自分の調子を整えよう、ということに意識が向いている。

 たとえば仮に彼がいまこの瞬間わたしの家に来るとしたら、
 ここはこうしておけばよかった、と思うようなことがあるのだとすれば、
 もういまただちに、来ているわけじゃないけど直すとかね。
 禍根を残したくはないからね。
 それのせいで、という枝葉を、妄想の種を残したままにはしたくない。
 
 いまからハイ、セックスしますというような場面になって、身体のどこかを恥じるような、つまり自分を出し切れないようなことがあるのだとすれば、
 いまのうちにすでにそこを解消しておくとかね。
 
 うん、もう、そうだよなあ、
 そんなのどうでもいいから体当たりしちゃいなよってわたしはすぐに言っちゃうから、
 忸怩とした気持ちでどこか、

 そうだなあ、
 皆がいうのは、こういうことか、というのを実際しみじみと感じてもいる、のかもしれないな。
 うん、いや、恋は良いものだよね。
 
 

人間の最大の罪は不機嫌だと、ゲーテは言ったらしい。と、二年前のわたしが言っている。


7:04 2017/04/27
 ゲーテいわく、人間の最大の罪は不機嫌だと。
 わたしの今年の目標は、自分の機嫌は自分で取ること。
 わたしはひとのご機嫌を取ることが出来ない。
 そんなもの知らない。
 わたしに怒ってくるひとが苦手だ。
 頼んでいない。
 怒って何かを要求してくる。わたしに変われという。
 嫌だね。知らない。
 わたしに我慢ならないなら近づかなきゃいい。あっちへ行けばいい。
 あなたの事情なんてわたしは知らない。
 知ろうと思わない。
 さよなら。
 わたしは楽しいことだけが好き。
 面白いことにしか興味がない。
 わたしはわたしを好きなひとが好き。
 わたしは自分が好きなひとに好かれると、とても嬉しくなる。
 わたしは相手にわたしを好きになれと要求はしない。
 それはとても不恰好だ。
 わたしが誰かに何かに怒るとき、それは要求だということをよく知っている。自覚している。
 わたしは好きなひとに怒ろうとは思わない。
 そんなまわりくどいことはしない。
 そんな不純なことはしない。
 そのひとに怒りを覚えた時点でわたしはそのひとのことが嫌い。
 あなたを嫌いだとわざわざ伝える必要があるだろうか。
 いったい何の為に?
 ましてや好きなひとに?
 わたしはそんな子供じみたことはようやらない。
 相手の重荷になるくらい下手糞な愛はない。
 わたしは下手糞は嫌い。
 それは馬鹿げているし不恰好だ。不細工だ。
 そうでない選択も出来るのにそれをしない、ただ気づかないというだけでそれをしない。
 それはただの横着だ。
 横着は嫌いだ。
 わたしは目を覚ましている。
 わたしは自分に出来ることしか出来るとはいわない。
 自分の知っていることしか知っているとはいわない。
 わたしはギャンブルが出来る。
 生きることが出来る。
 それを楽しむことが出来る。
 それは僥倖だということをよく知っている。
 誰かを好きだとか会いたいという気持ちはそれ自体僥倖のようなものだということを、よく知っている。

 わたしは成長という観念を厄介に思っていた。
 でもそれはする。
 成長はひとりでにする。
 それは自然なこと、
 わたしがそれを阻むことが出来ると思うこと自体、不遜なこと、それはわたしの傲慢さなのだとやっと気づいた。
 新しいものは次々にやって来る。
 わたしはそれを喜べる。
 豊かなこと、美しいことは自然だ。
 そうでないことは不自然だ。
 わたしは安心を求めない。
 それはあるだけがある、すでにある。
 過剰に求める必要があるだろうか。
 それは不安だ。
 不安は病だ。
 わたしは病という経験を求めない。
 病を必要とはしていない。
 見ていないときに月は存在しない。
 見ていないときにあなたは存在しない。
 わたしはひとりで違うところに立っている。
 わたしはわたしがわかるところまではわかるというひとを求める。
 恐れない。
 楽しめる。
 わたしを怖いというひとは正解だ。
 わたしを面白いというひとは正解、
 わたしを美しいというひとは正解だ。
 わたしは怖い。
 あなたなんて知らないと平気で言う。
 あなたの過去も未来も知らない、そんなものは実体ではないと言うから。
 わたしはいま、目の前にあるあなたを見て知る、それしか結局のところするつもりはない。
 ほかのこと、それ以上のことは所詮お付き合いにすぎない。
 皆お付き合いに付き合っているだけだ。
 わたしはわたしの正体が愛だということを表現したいだけ。
 あなたにあなたの正体は愛だということを知ってほしいだけ。

「自分」の話をし過ぎる人。

 さっきYoutubeを観てたら、「人に好かれる会話術」というのをやっていて、
 一に、「単純接触効果」。
 二に、「フォローアップクエスチョン」。

 単純接触効果とは「会う頻度」「見る頻度」もっと踏み込むと「雑談の頻度」のこと。
 皆さん、職場で、あるいは片思いの相手と雑談してますかー?
 まあ片思いはわたしが旬なだけなのでおいておくとして、
 雑談が大事だと。
 たとえば営業職のひとが取引先相手、あるいはまだ取引の成立していない相手に営業をかけているとして、
 ちゃんと雑談していますか?
 で、ここで雑談って何かというと、要するに「相手の話を聞く」「相手の話を広げてあげる」「相手が困っていることについてクローズアップしていく」ということで、
 決して「自分の話題」を持ち出すことではない。

 なるほど。
 そうなんですよね。
 いやほんとに。
 あたりまえだろ、みたいな。
 でもこれ意外とできていない。

「我」とも関わってくるね。
 
 スカイプで自称及び他称・発達障害の友人とやりとりしていると、発達障害っていうのはいったんこっちへ置いておいて、
 凹みやすいとか、自分は「人並な能力がない」とかですね、
 もうさ。あのさ、
 発達障害
 そんなもんと遊ぶのはやめな、とわたしは言いたい。
 まるで自分の娘や息子が、小さい頃は可愛かったのに、思春期になって不良みたいなのと交流しだすのを見て、やめておきなさいと眉を顰める親のような気持ちとしかいいようがない。

 親になったことはないんだけどね。
 発達障害とされる具体的な行動や傾向そのものが悪い、といっているわけじゃない。
 発達障害という概念、そのくくりが、もうややこしいからやめときなって。
 そんな概念の世界とは手を切りな。

 関係ないから。
 発達障害のせいで成功しない、幸福ではない、不足している、なんていうことはありえないから。
 というわけで、わたしはその部分は無視して話をすすめるけど、
 
 まあまあくだんの彼女には「自分の話」が多い。
 最近読んだ本で、「・・・
 なんだっけタイトル、「多元パラレル自分宇宙」かな、
 ドクター・ドルフィンの本で、
 究極的には宇宙には自分しかいませんから、
 というくだりがあって、
 ほんとうにそうなんだよなあ、そうなんだけどなあと思った。
「けど」が何に懸かるかというとですね。
 
 いや言葉ってむずかしいよな。
 単にわたしが「言葉下手」なだけかもしれないけど。

 自己愛って言葉があるじゃないですか。
 これも、まあだからあれだよな、結局、過剰は無用、
 過ぎたるは及ばざるがごとし、なんだよな。
 で、じゃあ何が、どこが適切なのかっていうともうこれは、
「こうです」というポイントを実に明確に適切に示せるひとはすごい。
 でもわたしはそうじゃないので、「自分の感覚を研ぎ澄ませること」というような曖昧な表現しか思いつかないよな。

 自分を愛すること、受け容れることはもう絶対的に必要なんだけど、
 もうそれがいうならば、この世にある究極の「答え」だから。
 うん、でもそれって例えば、「E=mc2」みたいなもので、
 それを見て膝を打ってそうだったのか!てなる人はごく稀だよね。
 ていうかそれに関してはわたしも、ならない。
 物理の知識以前にアルファベットを知らない、数式を知らない、イコールがわからない、ということだってありうるわけでさ。

 宇宙には自分しかいない、
 というのも同じようなことでさ。

 は?何言ってんの大丈夫?意味わからないんだけど。
 てなる人が、おそらく。まあ控え目にいって半数くらいは。
 これはドクター・ドルフィンも言っていたけどそういう人っていうのはひじょうに頑固なんだよね。
 読んで字のごとく、頑なに固まっちゃっている。
 いわばこの地球の重力、

 わざわざ意識することさえもない「あたりまえ」に捉われてしまってね。

 で、戻ると、「自分の話題を出さない」
 これは、色んなレクチュアがあらゆる分野、特にコミュニケーション分野についても多く出されているので、
 情報には事欠かないはずだ。
  
 他人と会話するにおいて、自己紹介は必要ない。
 もうね、わざわざわかりにくい、とらえにくい、簡単に嘘のつける言葉による自己紹介をしなくても、「見た」だけで相手は情報を受け取っていますから、大丈夫です。
 ひとは見た目が九割なんて言いますよね。
 まったく同感。

 人を見た目で判断しちゃいけない、なんていうことに深く納得するひとっていうのは、
 だいたいその人自身が嘘吐きなんだよ。
 自覚的か無自覚かはおいといて。

 嘘吐きっていうか、いやまあもう嘘吐きでいいんだけど、あえて表現を選びなおすなら、
 言葉に依存しすぎなんだよね。
 言葉を信頼しすぎ。

 言葉で相手を説得できるとか、言葉で自分をなだめられるとか、
 コミュニケーションの手段は言葉が九割だと思いすぎるというか。

 いや。
 言っていてちょっと恥ずかしくなったのは、わたしにもそういうきらいがある。
 はい、あります。

 でね、知識としてまずはそうなんだ、くらいに聞いてもらうとして、
 自分の話っていうのは本当に意識してぎりぎりまでセーブするくらいがちょうどいい、というひとがおそらく大半なんだと思います。
 ものすごくシャイな人とかいるじゃん。
 いや実はわたしも、他人が同意するかどうかはともかくそうだと思っているんだけどさ、
 と、こうやって自分の話を折り込んでいく、というね、もう。

 シャイなひとにもっとオープンになって、というのは全然間違っちゃいないアドバイスなんだけど、
 実際のところ、シャイなひとほど、言葉によらない自分自身の情報を開示している、という面はある。

 なんせ口数が少ないから、感じ、とか態度、とかで相手を判断するしかない、というところがある。
 それはそれで、ひるがえって、おまえホントにシャイなのそれ?というような。

 言い換えると逆に、口数の多い、おしゃべりなひとほど実はシャイなんだ、ということはあるよね。

 はい、それで、その「コミュニケーションが足りない」と職場でダメを出されている友人に提案したい。
 コミュニケーションっていうのは、もちろん相互交流なんだけど、
 ありていに言うならば、相手の話を聞いてナンボ。

 聞く、つっても、ハイハイ聞こえてますって~、じゃないで。
 相手の話に心を開いてナンボ。
 それは悪い意味で胡麻をする、とかじゃないんだって。
 また自分を押し殺す、というようなことでもないんだってば。
 
 こういうのはさ、なんでもそうだけど、また話が横へそれるようだけど、
 ちょうど梅雨なので旬でよろしいかと。たとえば、
 雨が降る。
 これは単に事実。
 それを、ああ、雨が降ってジメジメしてうっとうしいなあ、と感じるか、
 雨が降って、空気が潤って瑞々しく、水の反射によってあらゆるものがキラキラして美しいな、と感じるか、
 結局は、「自分の感じ」がすべてなんだよね。
 胡麻をする、というのも本来、胡麻は身体に良いものだし、すれば丸ごとより消化吸収が早いし、相手の健康を思って胡麻をする、これは「悪い」とか「邪ま」などと決まった話じゃないんです。

 自分をごまかすやつがわたしは一番悪いと思う。
 なんか一気に結論しちゃうけど。

 自分の話をし過ぎる人っていうのは、自分のことを好きなんじゃなくて、好きになってもらおうとして一生懸命なだけなんだよね。

 ていうかさ、これは、皆ほんとうにそうなんだよね。
 だから、逆に、自分の話ばっかりしてウザイなあ飽きたよどうでもいいよ、
 というような人と対面しているとして、
 ウザイなあ、じゃなくてそんなにもこの人は自分に好かれたいんだな、というふうに目の前の出来事を捉え直してみる。

 これがおそらく、受け取らなくてもいい石を受け取った際に、その石を裏返して光に変えていけばいい、ということにちょうどピッタリ繋がると思う。

 自分の話をし過ぎる人っていうのは、ともかく不安なんだよ。
 これは何もリアルにおしゃべりする、会話する、というようなことでなくても、
 自分の心の中だけでも会話というか対話がありますね。

 いや、あなたはそう受け取ったかもしれないけど自分としては本当はそうじゃないんだ、と延々発展しない自己正当化に明け暮れるモノローグを繰り返していたりね。

「守るな」と言いたいな。

 自己防衛はするな、と言いたい。

 

 攻撃は最大の防御なりってのはまったく真なりと思うね。

 つまり防御、それは攻撃なんだよ。

恋愛について①もしかすると②

 どっかで腹をくくらなきゃならないんだなあ。

 と、つくづく思う。

 わたしはやっぱりスケールのでかい人、変わった人、ぶっ飛んでいる人が好きで、
 そうじゃない人には用事がない。
 もちろん、本当はそうじゃない人などいないといえばいない。
 誰だってスケールはでかい。
 本当は、たぶんね。

 わたしのこの狭い視野、限定された視野で見たところ、
 自分が強く惹かれる人、というのは、やっぱり相当変わった人だと思う。

 言い換えるならそれは、泣き言を言わない人。
 戦士、ウォリアーみたいな人が好きだ。
 二言はないというか。

 二言のある人は、わたしは無理なんだよな。
 そういう複雑な、不純なものは受け付けない。
 ある意味単純というか、シンプルなものがいい。
 シンプルなものほど力強いものはない。
 
 相手を試すひとも無理だ。
 卑怯な真似をするんだな、と思ってしまう。
 相手を推し量るということはわたしもする。
 でもそれは相手を試すっていうほど能動的なものじゃなくてあくまで観察によるというか。
 
 わたしはすごいやつが好き。
 そうなんだ、ともう受け容れる。
 普通、とか好きじゃない。
 それに夢中になることはできない。
 
 で、これが本題だけど、なぜそうなのかって、わたしもまたすごいやつ、だからなの、
 このことをもう、受け容れるしかないと思った。
 もちろんわたしだけが他を差し置いてすごいんだということじゃなくて、誰だって本来そうなんだけど、いまは手が回らないからそれはあとでまた。機会があればいずれそのうち。

 以前勢いで一緒に住んだひとにしみじみと言われた、
 ぼくはいまあなたといられて幸せですって。
 わたしは、そうか、それは本当に良かったねえとほっこりした。
 
 どうよ。
 よかったねえじゃないだろ。

 もしわたしがいま、意識している人にそんなことを言われたら、よかったねなんて他人事みたいに構えていられやしないだろう。
 
 以前関係したことのある男のひとに、オレは自分が追いかけるのが好きで、相手からも好きって言われるともう嫌いになっちゃうの、ということを言われて、
 それは困ったねと思った。
 わたしがじゃなくて、どこの誰とも知らない女じゃなくて、相手自身、つまりその男本人が困るだろうなと。
 なんだろう、その永遠の一方通行。
 困らね?
  
 というのは、いやそれは困ったねと思いつつ、わたし自身、わからないこともないと共感できるところは、あったんだ。

 わたしは相手に好意を示されて何もそこまで兎みたいに跳んで逃げたりはしないけどさ、
 これは単に性差なのかもしれないが、
 でもまあなんか、うん、そんな俊敏に飛んで跳ねて逃げたりはしないけど、
 いずれ遅かれ早かれそういったところは、自分にもあるかもしれない、あるなと思った。
 
 どこかで嘘臭さを嗅ぎ取ってしまう。
 その相手が嘘を吐いているということではなくてさ。
 少なくとも自覚的に嘘を吐いているというようなことではないにしても、
 自分が嘘を敏感に嗅ぎ取ってしまう。

 というよりも、自分の相手はこの人ではない、相手にとっても自分はそうではない、ということを相手よりも先に察知してしまうんだと思う。

 以前居候していた人に、なぜいるの?と聞いたら、わたしを好きやからと言われてわたしは笑ってしまったことがある。
 いやあなたはわたしを好きじゃない、とわたしは一語一語噛んで含めるように言った。
 好きやって、と相手は言う。
 わたしは半ばにあきらめて、まああなたが自分で思うならそれでもいいけど、
 要するにわたしには何も響かない。

 何もってことはないけど、嬉しさはない。
 
 わたしはわたしのことを好きなひとが好き。
 でも、わたしが好きなのは、わたしのことを好きと言ってくれてすごく嬉しく感じるひとなんだ、と以前気づいてそれこそ、すごいことに気づいちゃったというほど胸躍る気持ちを感じたことがある。

 いやあたりまえじゃんとか言わないで。
 わたしはそんなことにさえ鈍感だった。

 好き、と一言でいえばそれこそ汎用性の高すぎるきらいがあるけど、
 嫌いじゃないものは好きってこと、みたいなさ。
 いや。
 まあ、そうじゃあないよなあ。

 好きっていうのは、星五つで言えばどのくらい?と聞かれて四つかな、みたいなものではない。
 ないんだよ。
 と自分で自分にツッコミ入れたい。

 いや。というか、そんなことは最初からわかっていた。
 わたしは最初からわかっていた。
 
「太陽の国へ」という本を読んでいたら、受け取る予定ではなかった相手の石を受け取ってしまい詰まらせている、というくだりがあり、
 そうだな、とわたしはしばしその一文に釘付けになっていた。
 その石は相手に返してもいいし、あなたが裏返して光に変えてもいい、とアヌビスがいう。
 光に変える。

 たしかにそんなことも出来る。
 出来るしそもそも、受け取らなくてもいいものは受け取らなくていいんだよなあと。

 自覚的である必要がある。
 タダで配っているティッシュは貰わなきゃ損、ならばまだしも、
 せっかく差し出してくれたものを拒むのは失礼、みたいな気持ちで受け取るようなことは、しなくていい、ただただ、そんな必要はない、失礼じゃないから、
 失礼だと思うことがむしろ失礼だから、というほどのものだ。

 せっかく訪ねてきてくれたのに、もてなしもせず帰ってもらうのは申し訳ないな、という気持ちがあったのだと思う。
 ひととティッシュを一緒にするのもナンだと思われるかもしれないが。

 それでいうと思い出すことがある。
 そのへんで知り合った、というか声をかけられたひとと一度くらいを拒む理由もないとわたしは思って、ガーナ人だった、黒人ってのはお初ですねと思ったのもある、
 それでしてみてですね、
 ワンナイトラブじゃないよね?と聞かれて、いやあ一度でわかるだろと思うような内容だったけど、もう一度くらい、ツーナイトがあってもいいかというような気持ちで、
 うん、というと、それから、
 その頃はよく行っていた居酒屋で飲んでいて、電話がありいま飲んでいるよ、というと、あなたは自分の奥さんになる身なのに、と言われてまったく持て余してしまって、仰天して、いやこれは、ずるずる、のらくらしていてはいけないと思い、
 あなたが本気で結婚相手を探しているのなら、その相手はわたしではない、ということを本当に真剣に伝えた。
 そうか、わかったと悄然として帰っていったあと、
 そのあと、ヤレ終わったと安心していると、
 夜中にいきなり家にあらわれるということがあった。
 そして、飲み物も出さないの?と、なじるようでこそないが、軽口のようにではあったが、言われたときにも、心底びっくりしたというか、ないないないないない、と思ったというか。
 という経験がある。
 
 もてなす必要はない。

 いいですか。
 もてなす必要はない。

 彼はむしろ、そのことを伝えに来たんだと思うわ。

 いやこれは恋愛沙汰に限った話だし、いままさに恋愛沙汰について思うことがあって書いているのではある。

 わたしは不特定多数を、いわば自分が意図せざるところのものを「もてなす」ためにこの世にきたわけじゃなくて、
 特定多数の、いわば自分が意図したところのものだけを「もてなす」、あるいはそれらと遊ぶためにきたわけで、
 そこをめちゃくちゃに混同してはいけないよ、と思う。

 思えば高校生の頃、見も知らぬ相手から通学途中に、好きです、と頭を深々と下げられたとき、不愉快さまで味わって素っ気なくその場を通り過ぎたわたし、の方がある意味「正解」だったわけだとさえ、

 いまになればなんだか滋味深いものがある。

 その頃のわたしは処女で、つきあった経験も告白したりされたりの経験もなく、
 自分の身にそんなことが起こりうるとは想像してみたことも、憧れたこともないような時期だった。自覚的には。

 だからそれを「もてなす」というような発想は、逆さにしても塵も出てこない状態だった。
 
 なんかこんなことをわざわざ書いていて思うけどわたしは、うぶというか、オクテなんだな。 

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賭けずして増やすことはできない。

 山手樹一郎が好きだ。
 一言でいうなら、その成熟。

 幸せとは、という言及を最近読んだ。
 幸せ、これは、「なる」んじゃなくて「感じる」ものだとそのひとはいう。
 かつてわたしに、「私は幸せになりたい、あなただってそうでしょう」といったひとがいる。
 こういう手合いは、実にじっと立ち止まって考えこんでしまう。
 違和感がある。
 その違和感のもとをたどりたく、動き回るのはやめ、ただ耳を澄ましてみる。

「なる」というのは不思議なことだ。
 あるいは「なりたい」というのは、実に奇妙な概念だ。

 それはまるで「時間」の概念のように、わたしたちを絡め捉えて離さない。

 時間、いわば未来や過去なんていうものはない、あるのは現在/今だけだ、という話をきいたとき、すごく腑に落ちた。
 なんてこった、そのとおりだ、ブラーヴォって気持ちになった。
 
 この感動を他人に話すこと、さらに共感を得ることは実に難しい。

 過去は変えられないという。
 いや、過去は変えられるとわたしは思う。

 パラレルワールドについてわたしに質問してきた子がいる。
 もし自分がまったく別なパラレルワールドへ行ってしまったら、ここにいる自分は消えるんですか?と聞かれた。
 消えないよってわたしは答えた。
 そうなんですね、やっぱり、でも、とかなんとか言っていた。
 ここにねじれがある。
 いやもちろん、このねじれは解けつつある。
 わたしはそのねじれをじっと見つめるのが好きだ。
 ねじれていたものが、解けていくさまを見つめることが好き。

 いま、好きな人がいる。
 好きっていうのもヘンっていうか、それって何なんだろうなあと思う。
 以前うちに、居候がいたとき、それは下心やなと事あるごとにわたしは言っていて、何なんそれ、と若干、意味不明さに苛立ったように問い尋ねられたこともあるけど、
 好きっていうのも、じつに、なんていうか、
 下心の親戚みたいなところがあって、
 なんか思い出すね。

 これは雑談。
 こないだ友人と会って、あなたが好きなひとにアピールするとしたらどうやってする?というようなことを聞いていた。
 とりあえず好意を持っていること、特別なんだってことを伝えるかな、という。
 まあそうですよね、でもそれ一体どうやって?
 
 これ、おもしろいよなあ。
 わたしはひとつ想像というか妄想していたシチュエイションがあって、
 わたしに好き、愛してる、とやたらに言ってくるひとがいる、それはゲーム中にだ、
 勝負事、賭け事中に、
 わたしはうんうん、知ってる何回も聞いたなんてふうに受け流していたんだけど、
 そこに、いやわたしはKちゃんが好きかな、とぶっこんでみたらどうだろう、なんて想像してみていた。
 それをやるなら実際にKちゃんがいるときかな?
 そりゃそうじゃない?と友人がいう。
 そうかなあ、どうかなあ。
 そもそもこんなアプローチはどことなくネタじみていて果たしてどうなんだろうかという気もしていた。
 でも今日、本人はいないときに、うん、わたしはKちゃんの方が好き、と言っちゃった。
 そうしたら相手は、あんなイケメンと張り合ってないし、などという。
 えっそうなん、いやなんかショック、告白してもいないのにふられた気分などと騒いで横の子に話しかけるんだけど、その子は勝負に集中していてそれどころじゃない。
 
 実はその横の子、もわたしはわりと好きで、
 それは、買っている、みたいな好きだ。
 まあまあかっこいい。
 アルセーヌ・ルパンみたいに見える。薄いその口髭が。

 わたしが予想外だったのは、愛してるよ、と連呼してくる客が、ふられた気分、嫌いって言われたしテンション下がる、みたいに言って引きずった展開だ。
 嫌いとまで言ってないじゃんっていう、そっちのフォローにまわる想定はしていなかったなあというときに、
 そのルパンみたいな子が、なんなんですか、あなたたちデキてるんですか、というような合いの手を入れる、これがわたしのフォローしきれないものを代わりにフォローしてくれているような気がして、やっぱあなた出来るね、とわたしは密かに感嘆していた。
  
 でも、言ってしまってよかったかな。
 これが仮にネタみたいになったとしても、わたしの気持ちとしてはネタではないし、
 少なくとも自分の気持ちの逆を伝えたことにはならない、と思っておこう。

 わたしはずっと言ってきたことがあって、
 わたしはわたしのことを好きなひとが好き、なんだよね。
 特にそれは男の人に関しては、そうだ。
 ここはもう鉄板。
 わたしはわたしのことを好きじゃないひとに用事はない。
 でもこの好きっていうのも実に多彩というかピンキリであって、
 憎からず思っている、というようなひとなんかはそれこそ一々相手していたらキリはないという感じにいる。
 (わたしと)ご飯行かなあかんな、というような言い方をしてくるひとがいる、
 実に下手なんだよなあと思う、
 アプローチだけが下手っていうことは、わたしからすればありえない。
 アプローチが下手イコール中身もヘタレ。
 
 好きなひとがいるときに、そのひとに対して守りに入るような真似はしちゃいけないんだよ、それ失礼だから。
 賭けは汚くやるものじゃない。
 守れば賭けに負ける。
 ほんとうなの。

 というか、守ればそれ賭けじゃないよね。
 賭け、というのはおもしろいもので例えばだけどバカラ
 これは張った額が5%差し引かれる問題はまだあるが、大雑把にいって1/2の確率で勝てる、
 張った額が没収されるか、張った額が二倍になって戻ってくるかというゲームだ。
 
 これはつまり、たとえば千円でも十万円でもいいんだけど、
 賭けますね、そのときに、賭けた額以上を失うってことはないんだ。
 
 賭けた額以上を失うってことはない。
 この賭けに負けた時に、賭けた十万円プラスあと十万円とか百万円くださいと言われる可能性のある賭けではない。
 
 これさ、
 わたしに借金を申し込んできたひとが先物というか、
 損切りで投資した額以上を請求されてしまって支払いに困っているというひとがいて、
 こういうのはわたしは、
 あってはならないとは言わないが素人が手を出していい筋のものではないと思うんですが、
 実際のところ素人が手を出してこそ成り立っているところがあるので、
 どうなんだろうなとちょっとアレなんだよな。

 その点、バカラはそうじゃない。
 ちゃんと得も損も目に見える。
 十万賭ければ十万失うか、十万が二十万になって戻ってくるか、
 という単純明快、明朗会計な賭け事だ。
 賭け事において、賭けた額以上を失うことはないっていうのは、すごく大事な、おさえておかなければならない要素だ。
 基本のキだと思う。

 バカラは何がおもしろいって、どこまでいっても1/2ってことなんだよな。
 考えて勝てるとかはない。
 準備して勝てるってことはない。
 どこまでいっても1/2の運なんだよ。
 知識は何の役にも立たない
 それがおもしろい。
 ほんとにね。

 知識っていうのは結局過去の遺物なんだよね。
 もちろんそれが、それだから悪いわけじゃない、
 ただただ過去の遺物だということが事実、それだけ。
 なのに、それ以上のことを知識に求めるのが間違いのもとなんだよ。

 そういうことが、恋愛に関してもわたしは、
 恋愛に限らないが、すべてのことに対して言えると思っている。

 経験や体験は本当に自分にとって宝だ、
 でもその宝を生かすには、
 宝を宝として大事に取っておいては腐らせてしまうようなものだ、という局面は必ずや訪れる。
 宝を宝として生かすには、宝を宝として差し出すほかはない。 
 そしてそこに賭け要素っていうのは必ずやついてまわるんだよ。

 賭けずして増やすことは出来ないんだ。

 恋愛についてメモろうと思ったのに結局賭けの話になってしまうわたし。