ネガティブをポジティブへ変換させるときに、置いていってはならないこともある。

 もう二時だ。
 二時から四時が一番フレキシブルというか、松果体が活性化されるというか、 
 なんかそんな時間なんだと「あのひと」たちはいうのだが、
 そういう意味では、まもなく二時だ。

 数字を上げることがディーラーの仕事ではない。
 と友人に言い切ったあと、わたしは先月の成績一位だったよって一位賞与をもらった。
 なんか、嬉しいんだけどその嬉しさが単純ではない気分を味わった。
 不思議なもんだな、というか、やっぱりそうか、というような。
 
 今日は、仕事の話。
 まだまとまりがないんだけど、
 要するにわたしが、お客さんのペアを当たったのに引いちゃった、ということが二回続けて起きた。
 二回目でお客さんが物申す。
 わたしはディーラーをチェンジ。
 
 一回目のときには笑ってやり過ごしてくれたお客さんが、二回目のときには本当に立ち上がって、というのは物理的にではなく、
 おまえそれはないやろ、と。
 おまえら、それはないやろう。
 うん、ニュアンスとしては、こっち。
 以前からちょいちょいあることだけど、わたしがミスをしたら、客はわたしではなく張り付き、つまり、わたし以外のそこらの方へ怒る。
 ここでの客の真意はともかく、
 わたしにではなく、それを見過ごした方へ怒る、ということについて、
 わたしはもっと真摯に受け止めなくてはならないな、と今日思った。
 だいたい、わたしがそのミスをする時点でどこか、軽んじている、軽く見ているというところがある、そうした事態を招くことに対して。
 いわば、そうしたウッカリはあったところで不思議じゃないだろう、という真剣でなさで処しているところがある。
 いや、それだけはしないと心に決めていることって、やっぱりしない、んだよな。
 しなければラッキー、みたいな態度、どっちつかずの心持ちだからこそ、それこそ必然のように、やっちゃうんだ。
 運ではない。必然だ。
 というような姿勢でミスが起きることに取り組んでいないというかね。

 とはいえこれはあとあと思ったことで、
 最初にはわたしは神さまに感謝さえしていた。
 また物事が動き出した、ということを粛々と感じていたからだ。
 起きる物事が次の段階へ進んだんだな、ということを単純に喜んでさえいた。
 
 トラブルはチャンス、困ったこともチャンス、そんなことを先取りし過ぎてちょっと浮かれさえした。
 
 ミスだとかトラブルは起きてナンボだ、とわたしは思っていたけど、
 それを瞬時に対応しきれない同僚がいることに対しての、わたしは、配慮が足りないんだよな。
 それを即座にプラスに捉えられないひとのことを置き去りにしすぎる。
 
 まあ、いわば、梟カフェのオーナーに冷蔵庫のリース・ローンの連帯保証人を持ち掛けられたときに、お母さんに反対されたけど、いやもういいよってわたしは肚をどこかでくくって引き受けたが、お母さんはそうではない、
 そうではないから、支払いが滞ったときにめちゃくちゃ心配する。
 お母さんは肚をくくってはいないんだ。
 最悪、の見極め点が違う、ということにわたしは、雑な対応をしすぎる。
 そして、心配するひとを馬鹿だな、は言い過ぎだが、それはわたしの課題ではないって若干苛立つというか、説教さえしたくなる、
 こういうことは、
 やめなきゃならないんだな、そういうところまで来たんだな、と思った。

 今日帰りが遅くなったのは、わたしに服をくれるという女のお客の家に行って、話こんでいたからだ。
 彼女がいう。
 わたしもどれだけひとに借金を踏み倒されているか、と。
 わたしは、「あなたね」と腰を浮かせつつぐっと堪えてきくと、
 ひとを信用できない自分なんて、というんだ。
 ひとを信用できない自分にまだなお生きていて価値があるのか、というほどの気迫に満ちたその一言をきいて、わたしは浮かせかけた腰をおろして、
 なるほどな、なるほどね、としみじみ言った。
 いや、わかるよ。
 わたしもそうだ。
 わたしもそうなんだ、どこかしらね。

 彼女も本当に男前というか気風の良いひとで、やくざ男五人に女一人で刃物片手に渡り合っちゃうようなひとなんだ、
 それで自分も女だてらに、惨憺たる傷を負いながら、やくざの親分を通して、お金で解決なんてしない、お金なんていくらでも要求できるけど、お金が欲しいわけじゃない、土下座しろ、そうしたら許してやるなんて見得を切って、啖呵切って、実際に土下座させたりしてさ。
 退くくらいなら一歩前に出る、と言った茨城のよっちゃんを思い出すようだった。
 その彼女に、あなたも気が強いと最初見たときにわかった、と言われたのと、
 彼女55歳なんだけど本当に肌がきれいで髪は健やかに艶やかで、スタイルも抜群に良くて、その彼女に、
 あなた最近肌にも張りが出て、最初に見た三年前よりも若い、と言われたことが、
 ああ、家まで行ってよかったなあと思えた点。個人的に。
 つまり、単純に嬉しかったんだ。

 それで、戻るとそのお客が怒り出したとき、
 そりゃま、当然なわけで、
 こういうものを厄介がっていては何の何でもありはしない。
 むしろ、こういうことを拾ってものすごく怒ってくれるお客っていうのは貴重なわけで、
 だって皆そういうことを億劫がっちゃうじゃん、そうでしょ。
 それを億劫がらずに、臆さずに、鬱陶しいとか嫌われるかもとかそういうことを辞さずにちゃんと怒ってくれる、
 そういうひとってやっぱり、すごいと思うんだ。
 いわば、皆が気が引けてモヤモヤを抱えたまま、あるいは自分だけで自己解決してしまって、敢えて表には出さないことを、
 嫌われ役みたいなことを引き受けられるひとっていうのは、わたしはすごいと思う、
 だって、わたしにはやっぱり、できないもん。
 それで、それをできないわたしには、わたしなりの、返しどころがあると思うの。
 阿吽の呼吸じゃないけどね。
 
 最近、「舐めてる」ってのがわたしの旬な言葉。
 以前流行ったのは、「下心」だった。
 舐めている、舐めていない、で一刀両断しようとする。
 いやさ、舐めていちゃいけないな、と思うんだ。
 汚いからそれ、ともかく。

エゴには、「行きたい場所」なんてない。

 エゴについて、出勤時歩きながら思いついて、やっぱリンカーンみたいに帽子の中にメモを挟んで持ち歩くべきだよな、と痛感してから、
 いやいまはスマホのメモ機能があるじゃんと思い直してメモした内容って、
 覚えているんだよなあ。
 わざわざ読み返さなくても。
 うん、メモって読み返すためにする、わけじゃないわ。
 
 エゴに自分を操縦させているひと。
 というのがいる。
 いや、ほとんどそうかもしれない。
 というか、そうであるひと、とそうではないひと、に分かれるという話ではなくて、
 自分の中で、
 自分をエゴに操縦させている時間の割合が長いか、短いか、という話。

 わたしは、目覚めたことのないひとなんていないと思っている。
 誰だって、目覚めたことくらいはある。
 ふと目覚めてあたりを見渡して、また眠りに落ちる。
 目覚めたことにも眠りに落ちたことにも要するに、気づかないまま。

 犬や猫も睡眠中に夢をみるけど、彼らは夢と現実の区別がついていない、という話はおもしろい。
 なるほどなあ、と思った。
 いったい、われわれが「現実」だと思っている、感じているところの実体とは何なのだろう?という話だ。

 エゴに自分を操縦させて何もいいことはない、その理由は、
 エゴにはどこへ行きたいという衝動も目的も、要するにないってことなんだよ。
 
 エゴには行きたい場所なんてない。

 車に喩えれば、ハンドルにもエンジンにもシートにも、あるいはバックミラーにも、「行きたい場所」なんてないんだよ。
 行きたい場所があるのはただ「あなた」なの。
 ハンドルを握るのはあなた、
 ハンドル自体に向かって、行きたいところへ行ってくれていいよってお任せするなんて、それは無理なんだよ。
 無理っていうか、なんだろう、馬鹿げている。滑稽だ。
 そんなこと言われたってハンドルだって困るだろ?

「仕事は我慢すること」ってのは違う。

 友人の話ね。
 本人にも言ったけど、「仕事だからイヤだけどする」って思ってほしくないんだ。
 我慢しなくちゃならないんだ、それが正しいんだ、それが世の中で通用するやり方なんだって思ってほしくはないの。
「ほんまはそんなこと通らないってわかっているけど、無駄な抵抗してみてん(笑)」と、彼女。
 もうイタイ子っていうより、もはや痛々しいっていうか、
 そうじゃないよって。
 もう、全然そうじゃない、ちがう。
 なんだろう、この、自分を騙す言動に周囲を巻き込む感じ。
 それを聞いて、

「周りが、苦手なことは無理させずに、フォローし合える世の中だったらいいのに」と泣く、また別な友人、の哀しみに共感はする。
 いやもう、彼女が他人の苦境に対して我が事のように「哀しみを感じて」くれたのなら、わたしは小さな成功を果たしている。
 
 無駄な抵抗してみてん(笑)に対して、
 そっか、仕事は仕事だけどそうやって、なんでも抱え込まずに小出しに不満をぶつけるくらい、いいよね、
 とは、わたしには返せなかった。
 そんな見当違いの場で小出しにしてるからあかんねん。
 と言っちゃう。
 いや、あかんねんとは言ってないな、そんなことをしていても見当違いでしかない、と言った。
 イヤなことをイヤだと感じてはダメって言ってるんじゃないの。
 イヤなことはともかく間違いなくイヤなの。
 ちゃんと理由があるの。
 その理由を見つめてほしいんだよ、他人に肩代わりさせずに。
 あるいは、それが「仕事」であること、をスケープゴートにはせずに。
    
 哀しむことってすごい大切だとわたしは思っている。 
 哀しみは浄化だから。
 というか、なんであれ自分の思いを「感じ切る」ってことは浄化になる。
 嬉しい、楽しい時間ならあっという間に経ってしまってもっと、もっとってなるのに、 悲しい、苦しい、やりきれない、ってことには、
 皆それを「感じ切る」前に、逃げ出しがち。
 哀しみに圧し潰される前にそこから逃げ出す、これは生存本能、防衛反応なのかもしれないけど、
 それ、逃げても同じこと、なにも変わらない。
 環境とか他人とか状況が、その哀しみを抱えて不意に現れて、自分に押しつけてきた、んじゃないんだよ、それはあらかじめ「自分の中にある課題」みたいなものなの。

「新・ハトホルの書」を読んでいたら、
 あなたはイニシエーションを授かるためにどこへ赴く必要もありません、
 とあって、すごいわかる、とほんわかした。
 あれ、これ前も書いたっけ。


 実践が大事なんだって聞いて、そうか、と張り切って「実践できる場所」へ出かけていく必要なんてないんだよな。
 いや、うーん、まあわたしは、そうだな。
 よく「水泳法」の本をいくら読んでも実際に水に飛び込む勇気がなければ泳げるようにはなりませんっていうアドバイスがあるじゃん。
 これは、まあ、半分ほんとで半分ほんとではない、というか「片手落ち」である、というふうに思う。
 いや、それで、納得して実際に水に飛び込んでしまえるなら、それはそれでいいんだ。
 でもいまどき、イメトレなんて言葉も耳にする世の中で、
 
 なんていうのかな、
 水場へ出かけなくても自分の中にもちゃんと水場は存在しているんだよ。

 わたしは自分の話が自分にしかわからないんだ、ということが、よく「わかって」いて、
 それこそ小出しに、どころか封じ込めてきたようなところがある。
 うん、だから、そうやって、あからさまにまずいやり方でもオープンになれるひとっていうのが、羨ましいはテンコ盛りにしすぎだけど、
 単純にすごいな、なんなの、っていう気持ちはあった。
 なにがあなたの背中を押したんだ、というような。
 
 でも、もう、いいかなあと思ってる。
 わたしは誰に、何に背中を押されなくても構わないや、
 自分が語りたいことを語ればいいのかなと。
 めちゃくちゃ徹底して空気を読む。的なところがある。
 到底そうは思えないんですけど、というのはわたしの「恰好」に騙されてくれているひとだ。
 いや、言い換えれば、たいていのひとがそうであるように、自分の弱点については徹底的に隠したがるところがわたしにもある、というようなことだ。

 職場の友人にもそうしたところがある。
 いや、見えています、って周りはなるんだよな、けっこう。
 わたしだっておそらくそう、なんだろうなと。
 ならもう、隠すことにはそれほど大した意味なんてないんだと思い切ってしまうほうがいい。
 そこに意味があると感じているのは、ほかの誰でもなく自分だけなんだから究極。

 結局、何が好きとか、嫌いとか、こう感じるとか、なにがどうとか、
 語る内容なんてどうでもいいんだよな。
 大事なのは「語り方」だ。
 姿勢というか。
 モチベーションというか。
 コミュニケーションスキルというか。

 共感することは得意だけど、共感させることは苦手、
 そういうひとは多いんだと思う。

 その友人だって、自分には共感能力がないんだとか言いながら、職場の彼女の話をしただけで、勝手に彼女に取って代わってしまうわけでさ、
 共感能力がない、相手の立場で物を考えられないってのは、そう言い切るのはむしろ嘘だよねっていうくらい、優しさを発揮することがある。
 共感。
 てのも不思議だけどなあ。

 いやそれ、誰だってするだろう。
 しなきゃたぶんとっくに死んでるよね。
 だって。
 それがいわば、プラーナ・生命力を取り込む行為というか。
 
 わたしがいま不意に思うに、相手にプレッシャーを与えないような話し方、伝え方をできるひとは素晴らしいってことだ。

 そして、そういうひとがなぜそんな伝え方をできるかっていうと、
 やっぱり、
 自分もまたそれだけプレッシャーを鋭敏に感じ取る感性を培ってきたからだと思うの。
 そして、そのことに自覚的である。
 自分が苦しんだこと、悲しんだこと、辛かったことを「感じ切って」いるひと。

 わたしはよく思うんだけど、誰だって昔は子どもだったよねってこと。
 誰だって老人からはじめて、若返って、最後に赤ちゃんをやるわけじゃないでしょ。
 誰だって最初は赤ちゃんだったよね。
 もうよく覚えていないかもしれないけどさ。

 ならもう、「思い出せばいい」だけのことなんだよな。

 

「もったいない」っておもしろいよな。
 わたしもある。
 ひとを見ていて、そう頻繁にではないけど、もったいないなあと。
 いや、それテメエがテメエに言ってやれって話、なんだけどな。

 わたしは実はよく、というか、ちょっと仲良くなった子から、もったいない、と言われることがあって、
 おまえ見当違いすんなよ、と見栄を切っていたわけです、本人にはそうまでダイレクトには返さないけど。
 でもどこか、彼女や彼が言っていることは、まあわかるよという気もしている。

 もったいない。
 ほんと、
 もったいないよなあ。

ディーラーはただの接客業。

 友人とこないだ玉川で話したとき、
 ディーラーは数字をあげることが仕事でしょ?という。
 違います。
 こういうところだよな。ほんとに。
 感心してしまった。

 数字はもちろん結果的に上がるけど、べつにわたしが上げなくてもひとが上げるの、
 ひとが上げなくてもわたしが上げるの。
 以前働いていた店が崩壊の憂き目に遭ったときにもよく思ったことだが、
 数字数字とばかり言ってるからあかんねんと。
 勝負事なんか、いわば時の運というか、それこそ左右できないものだ。
 そうじゃない、といえるものもいっぱいあるでしょう、でも究極的にはそんなものは時の運とでもいうほかはない。
 まして、バカラなんか、運以外の何でもない。
 そりゃ色々できることはある、というか、できるように見えることはある。
 イカサマなんて手段もある。
 でもイカサマをしたら意味がない。

 努力すべきは数字を上げることじゃなくて、ホスピタリティをもって接客することなの。
 勝負がどっちに転ぶかは誰にもわからない、わからないことをわかるものにしようとして必死こいてもそれは徒労に終わるだけなの。
 これは賭ける側にも言えることだから、まったく身も蓋もないけど。
 
 いやだから身も蓋もこうしてつけているつもりなんだけど、まだまだですわ。

 彼女は、ディーラーは数字を上げることが仕事だと思っている。
 おそらく、数字を上げれば得意がって、数字の上がらない他のディーラーを気合が足りないとか努力(!)が足りないとか思うのだろう。
 まあこれはちょっと悪意ある誇張かもしれないが、
 まったく的外れだとも思わない。
 彼女には、自分が上げなくても他のひとが上げる、他のひとが上げなくても自分が上げる、それでいいんだってことがわからないから。

 それは何かっていうと、我/エゴなんだよ。
 我が邪魔をして、それをわからなくさせている。
 なにもしなくていいっていう話じゃない。
 努力の方向がちがうよって。
 勝負の行方や数字を上げることに集中するんじゃなくて、ただ接客することに専念すればいい、それが仕事をするってこと。

 わたしは、彼女にも言ったけど、何を描けばいいですか?と聞いちゃうアンディ・ウォーホルってすごいと思うんだ。
 ウォーホール?と聞きなおされて、だからそういうとこや、と突っ込まなかったわたし、大人。
 わたしは最初からわりと大人なんだけど、大人でもやっぱり、目の前にひとがいると、思うに任せないことがもちろんたくさんあって、それが、おもしろいよね。
 

「ハッピーリッチな思考法」というごくまっとうな本を読んでいたら、
 専業主婦時代は、ちょっと髪の長いひとを見たら「わたしの方が長いし」、と思っていたとあって、
 ちょっとウケました。
 そして、なんか深く納得したのは、ああ、コンプレックスって必要やなってこと。
 コンプレックスがあるからレバレッジが効くんだよな。
 
 ああ、なんかさ、
 わたしも最近もういいかと痩せている、自分で自分の身体を気に入っていた頃に戻しているんだけど、それまではすごい難しい方法で痩せようとしていたの。
 ちょっと高度過ぎる痩せ方、つまり内から外を変えようとしていたわけ。
 でももう、方法はなんでもいいわ、とにかく痩せよう、と思って、
 取り入れたのがマクロな食事改善と筋トレとヨガ。
 わたしはですが、激しい運動によって心拍数が上がることが苦手極まりないので、それはやらない。でも、やらなくてももちろん痩せる。
 わたしはいずれ人間はものを食べなくても生きられるということを信じているし、
 信じているというより、そりゃそうだろうというか、知っているというか。
 でも今すぐではないし、一年後とか十年後とかいう話でもない、
 なら、もう、いますぐ通じるやり方で痩せるのが一番早いよな、と思ってそうすることにした。
 
 お金を稼ぐっていうのも一緒なんだろうな。
 欲を出すっていうのは本当に悪いことじゃないし、コンプレックスがあるからレバレッジが効く、
 わたしはコンプレックスというのがあまりなくて、
 そこが「問題」なんだよな。
 薄々気づいてはいたけど。

 それでいうともう、その友人とか羨ましいなっていう話になってくる。
 羨ましいは、ちょっとおかわりしすぎたけど。
 彼のこともそうだけど、彼女のことも、要するにすべてのひとのことは、
 こっちの考え方を変えたら、変わるようなこと、なんだよな。
 と、また内から外を変えようとするわたし。
 でもそこはもう、そうなんだもんなあ。

 わたしが彼を真摯に好き、というだけで、もう彼もわたしを好きっていうのはすごくありうる話というか、当然なんだよ。

泣くことは浄化。どんどん泣こう。

 友人と仕事帰り地元まで出かけて話していた。
 泣くんだ。
 泣くっていいことだよってわたしはいった。
 泣くことは浄化だ。
 
 わたしが、喋り倒した。
 そんな二時間。

 終電で帰るつもりだったけど、もうちょっといいかと思って、結局帰りはタクシー、 
 タクシーでも初対面の運転手さんに向かって喋り倒した。
 降りる際のせりふはこうだ、恋愛してねって。
  
 泣くってのは。
 最近、別な友人も泣いていた。
 そういえばわたしはひとを泣かせたいと思っていた。
 だって、泣くってことは、いいことだから。

 でもわたしはそんな際わたしまでつい、泣いちゃいそうになるんだよな。
 いや、それこそ泣いたっていいんだけどさ。

 わたしはひとの気持ちがわかる。
 外側からわかる。
 観察しているだけで、そこに注意を向けているだけで、わかる。
 
 というか、エゴがなんであるのかってことが、わかる。
 だから、ああ、それはエゴだね、なんて一言で済ませたりしてさ、
 じゃあエゴって、なんなんだって、エゴを本当にはわかっていないひとに説明しろといわれたら、ちょっと困るっていう、
 なんで困るかって、その質問もエゴから発せられたものだからで、
 あなたに、あなたはあなた、となど言っても禅問答のようになってしまう。
 
 エゴは要するにペルソナなんだけどな。

 仮面に対してあなたは仮面だ、といっても、通じないんだ。

 いや、わたしはエゴをすごく愛している。

 恋人を愛するように愛しているんだ。
 あるいは、子どもとか親とかを愛するようにさ。
 もっといえば、神を愛するように、愛している。

 いや、彼がすごいな。
 わたしが彼を慕う気持ちによる波及効果がすごい。

 わたしは、わたしの過去と未来が幾億通りにも広がっているように、彼の過去や未来も幾億通りにも広がっていると思う。
 
 つまりこうだ、わたしは彼によって自分がすごく刺激されるのを感じている。
 この顛末がどこへどう行きつこうともそれらすべてを愛そう、という覚悟、決意がいるってことを、ただ、感じている。

 わたしはひとの気持ちがわかる一方で、ひとの言っていることがわからない。
 おそらく、言葉に堪能なことが、わからなさを助長している。
 枝葉末節にとらわれてしまう。

 内にあるものと外にあるものとの間の矛盾にクエスチョンマークが炸裂しちゃう。
 ま、そういう意味ではわたしも、発達障害的な何か。

 言葉って不思議だよな。

 言葉を駆使することによってわかった気になっちゃう、という裏腹な面をいずれ抱えている。
 それはどこか、エゴにも似ている。

 相手を推し量る必要はない。

ベテランのわたしが、「勝ち方」を教えてあげた話。

  わたしがシャッフルをしてインチョンを入れると、最初の三枚が1・1・1なの。
 それで、1ドロー出るよって、1ドロー賭ければ百倍だから、
 そう彼にいう。
 だってここに1・1・1、見る?というと、身を乗り出して見せて、と彼がいう。
 こんな貴重な瞬間をわたしはわりと軽くフラットにやり過ごしてしまったんだけど、
 あとあと思い返して、あの瞬間たしかに重なり合っていたなと思う。
 お互いの領域をお互いに親愛的に侵しあっていたと。
 あんなに近づいたことは今までなかった、というほどにね。

 うん。
 こういうのは全部、本番に備えた「下書き」なんだよね。
 下書きをどこの誰とも知れない・はずのひとに見せるわたしの不遜さときたら、
 まったくトンデモないよな。

17:19 2019/07/24
 1・1・1のとき、結局1ドローは出なくて、
 でもそもそも一回も1ドローに賭けてもいない、
 わたしがそういうと、彼がだってカマシやろうなってわかってたもん、と笑う。
 いや、ほんまに出ると思ったもん、とわたし。
 いま振り返ると、ちがうな。
 そうじゃない。
 あなたにカマシなんかかけないよ、ほかのひとにはわからないけど、といって笑えばよかった。

 こうした会話には実に色気がある。
 色気っていうのは、単にセクシーだとか、胸の谷間だとか、
 そういうこと、そんな直截的なことじゃなくてさ。
 色気ってたぶん、知的さをいかに躱すかってことなんだよな。
 
 さっき本を読んでいたら、いま目覚めなくても大丈夫です、また二万六千年後があります、とあって、噴き出してしまった。
 いや、「大丈夫です」じゃない、全然大丈夫じゃないだろ、いったい誰がそれ聞いて安心できるんだよ。
 われわれ、たかだか百年と信じられている寿命からして二万六千年とか天文学的なスケールなんて、まるで実感わかないんだから。

 

 彼が、のんちゃんベテラン感出てるもんな、という。
 隣の台にいる現役大学生のディーラーを見て、おれ大学生とやろうかな、と笑う。
 もっと初々しい感じ出した方がいい?と聞きかけて、やめる。
 
 わたしにはたしかに、ベテラン感があるよなあ。
 いや。自分で思う以上になんていうか、ひとに言われる。
 いまだからじゃない。
 もう、なんだ、ほんとに十代のころからだ。
 なんにもしていない、なんの発言もしていないのにね。
 ただ、そこに存在しているというだけで。

 だから逆にわたしに手を出せるやつってすごいなと思うんだ。
 すごい
 馬鹿だなと。
 いや、そうじゃない、馬鹿に可愛いなと。w

 昨日、職場のウエイトレスをしている子を誘って飲みにいった。
 すっごい久しぶり、とわたしがいうと、彼女がわたしもですよ、という。
 上がり時間が誰とも被らないから。
 うん、わたしも。

 彼女は自分が男なら、お客さんKみたいな立ち位置にいたい、という。
 へえ。
 でも、そうだな、似ているかもしれない。
 お客さんK氏、めっちゃ空気読めるからな。

 彼女もすごい読めるの。
 わたしはトランプのQをプリントしたTシャツを着た子が張りにきたときのことを思い出す。

 

 いったい彼はいつからわたしを見ているんだろう?
 いやもう、見ているものとして話を進めますけど。
 わたしにはこれと言って覚えがない。
 自分自身あるとすれば、あのネイルの件からだ。
 言わなきゃ伝わらないじゃん、と言い放ったあの瞬間。
 
 彼はすごく頭がいいと思う、とわたしがいうと、彼女はうん、と大きくうなずく。
 わたし、彼女を買っているんだな。
    
 

 しばらく前から、友人のことを、要するに横着やねんな、と感じていた。
 横着はほんとうによろしくない。
 でも自分じゃわからないんだろうな。
 貯金なぞ興味もなかったわたしが、ちょっとやってみようという気になって五十万貯まったという話をすると、五十万借りにくる。
 いや。いや、いや。
 あるか、そんな話?
 とわたしは驚愕する。
 でもたしかにこれはわたしが用意した舞台なんだよな。

 そのときに友人がいうには、わたしのことがただ羨ましくて、とこうだ。
 なんやねん、羨ましいって。
 羨ましいから、なんなん、それで自分は下手な下心で失敗してお金を失って、お金を借りにくるってどういうことなの。
 いや、
 わたしは羨ましさから自由にならなきゃならない。
 妬むのも妬まれるのも根は同じなんだよ。
 そこを分ける必要ってないんだよね。
 わたしは妬まれることに実に無頓着、というより傍若無人だった。
 妬んでんじゃねえよ、アッタマ悪いなって、ほんとうに冷淡な、あるいはまた心配性な態度を取って生きてきた。
 そうじゃないよな。
 
 彼女は、そうだな、褒め上手だね。
 それ、すごくいいことだよな。
 褒めるのも上手だし、ひとを上向きに乗せるのもすごく上手。
 
 お客さんAが昨日、また走っていて、なんでや、何が起きてるんや、と実にヤケているので、
 なにが起きてるんやって自分、それ、まるで自分で惹き起こしていることだから、
 わたしのシューターで、見かねてわたしが、
 冷静にやらなあかんでほんまに、という。
 これは、せりふじゃないの、
 せりふって文字通り言えばいい、じゃないんだよな。
 ああ、そんなセリフがこんな場面では有効なんだ、じゃないんだ。
 ただ与えられたセリフを言えばいいだけなら、役者なんていらないんだよ。

 戻してあげたくて、その捻じれてこんがらかった糸を解いて、良い流れに乗せてあげたくて、わたしはそのシューターをまいていた。
 それ、カードを操るとかじゃないんだ。
 操れませんから。
 そうじゃなくて、お客さんAの気持ち、気分を変えてあげたかった。

 ちょっと変わったところで、わたしは冗談のようにいう、
 Aちゃんの弱いときってほんまにBちゃんより弱いねんからと。
 Bちゃんが横で、それ本人おるときにいうか、と突っ込んでくる。
 本人おるときがいいでしょ、と軽く流して、さらに、
 勝ち方教えてあげようか、といたずらっぽくわたし。
 二百五十じゃなくて五百走ってるって思えばええねん。

 結局わたしと、その次で戻して、二百五十万走っていたのが、二万七千負け。
 送り出しながら、ほんま、刻むなあとわたしは笑う。

 その日、飲みに行った彼女が、Aさん、のんちゃんに感謝してるって言ってましたよ、という。
 のんさんに、冷静になれって言われてから戻ったって。

 二百五十じゃなくて五百、というとアホ、そしたらおれ五十ベタ張りせなあかん、
 と言っていたが、
 すればいいんだよ。
 結局勝ち方ってのは、なんだろう、
 まあ要するに負けないことなんだよな。
 というか、自分は勝つんだ、と思いきれるかどうかなんだよな。
 ともかく、額じゃないんだよ。

 五十なら戻せるけど五百は戻せない、じゃない。
 数字に惑わされちゃダメだよ。
 数字は使うものであって、数字に使われるものじゃない。

 いや、ベテラン感やばい。

 褒め上手に関して思うのはだから、わたし、ひとが褒めやすいひとにならなきゃダメなんだろうなあ。
 そうやって皆を、誰でも褒め上手にしてあげなきゃいけないよね。

1/12より、1/200,000,000の方が大きい。

    コンプレックスっていうのがやばい。
 それのない人間はいないと思うけど、わたしだってあるし、
 コンプレックスがあることが悪いわけじゃない。
 それに対してどう向き合うか、対処するかということが、「ヤバさ」につながる。

 ストレスとかも一緒だと思う。
 ストレス自体は誰にでもある。生きている以上はある。
 ないのなら、 
 もうじゃあ死んでしまっても一緒なのでは、と思う。

 ストレスがあるから楽しいし、コンプレックスがあるから楽しめるんだよ、
 というところまで行けないから、
 ストレスがやばい、コンプレックスがやばい、という感じになる。
 
 友人の一人が、帯状湿疹みたいなものが出来て病院へいくと、医者に、ストレスですねと言われて、わたしストレスが原因って言われるのが一番イヤ、もっと特定してくれないと医者の意味がない、
 ということを力説していて、
 うーん、いやだって、まあ、ストレスだろうなと当時わたしは思っていたんだけど、
   
 そうだな、確かに単にストレスですね、では能がないといえばない。
 ストレスを解消しきれていない、ストレスを感じ切れていない、ストレスを受け容れきれていないあなたの姿勢が、身体にも現れたんです、というふうに言ってほしいな。

 困ったことが起きる。
 困った、どうしよう、やばい、と危機感を感じるとき、
 それについてどう対応するか、どう受け止めるか、
 そこにそのひとの真価が発揮されると思う。

 なんの危機もないとき、安全でリラックスしているときに、そのひとの真価は問われない。
 作家の氷室冴子さんもよく言っていましたね、いざっていうときの振る舞いでその人間がどういう人間かわかるんだって。
 それで彼女は癌に罹って実に最期をきれいにおさめたという話を何かで読んだけど、
 それはいいけど、
 やっぱりわたしは何も死ななくても、と思ってしまうんだよな。

 わたしはリセットボタンを押さない工夫がしたいんだよ。
 
 職場の友人が、引っ越したのは新築の賃貸で、最初はキレイを保っていたけどどんどん掃除を怠っているうちに汚れてきて、ここは、どうしていいかわからない汚れとかもあるし、一度プロの掃除屋さんに頼んで、リセットして
 それから自分でキレイさを保っていこうかという計画について話していて、
 まあ、そうだなあ、そりゃ、なんもしないよりかはもちろん、いいよなあと思いつつ、
 その「リセット」という言葉がなんだか耳について離れなかった。
 
 工夫したいよね。
 というか、わたしは工夫するのがとにかく好きだな。
 我慢がイヤとか、イヤなことはしたくないから今のままでいいとか、
 そういう二次廃棄物的なものは全部、箒で履いてゴミ箱に捨ててしまいたい。
 もういいからそれ。
 と思っちゃう。

 イヤなことは誰だってしたくない、
 我慢だって誰もしたいわけじゃない。
 わたしだって相当イヤだ、わたしが一番イヤだという自信もある。
 要するに「イヤなこと」「我慢だと思うこと」の具体的な内容は、あなたが独自に決めているだけであって、他の誰にとっても絶対的にそうだというわけではない。
 
 イヤだとか、我慢だとかいうのは、実に表層的な切り取り方なんだよな。
 
 あなたがピンク色について「なんだかわからない」けど、無性に嫌いだと思うとき、
 誰だってピンク色は嫌いだよね!って決めつけちゃうような行為と同じくらい、
「我慢はイヤ」
 という、そのたった一言で自分をごまかすのは幼稚臭いことだ。

 いや、そりゃ誰だって我慢はイヤだけど、誰だってピンクが嫌いとは限らないじゃん。
 ここを混同してしまえる愚かさは脱いでしまうほうがいい。

 つまりそれが何で嫌いなのか、なんでイヤなのか、ということを、
 自分自身にしかわからないソレを、自分が突き止めずにただイヤとだけいう、「イヤ」で察してよ、と振舞う行為に専念したところで、いいことは何も起こらないよ、と思う。

 うん、たとえば、すごく話が超宇宙的になるけど、
 我々の住むこの地球は何度も危機を迎えている。
 何度も原子爆弾や戦争で滅んでいる。
 もうこんな汚いものはいっそ丸ごと全部一掃してしまって、
「リセットボタン」を押してしまって、それからやり直そうって、
   
 そういうのはもう、やめたいんだよ。

 というのに、似ている気がします。

 ノアの方舟はもうオールドファッションなんだよ。

 現にあるもので、現に存在しているもので、何とか工夫して未来を繋げようよ。
 
「いま」に意識を向けようよ。
 

 ノアの方舟の話を最初、子どものころに知ったとき、
 動物の一対だけを集めたの?他のキリンさんやゾウさんはどうなったの?とすごくなんだか胸が苦しくなったのを覚えている。
 そのキリンにも親がいて兄弟がいて友人がいて、ご近所さんがいたんじゃなかったの?
 その喪失をどうやって、その喪失をいったい、ないものにはしてしまえないじゃないか、どうやってそのキリンは解消したんだろうかと、不思議にさえ感じていた。

 わたしは滅びるものを信じていない
 どんな誰だって、なんだって、滅びていいものなんていない。
 それぞれが確かに、確かなパーツだ。

 ジグソーパズルで、12片のうち1片が欠けているものも気になるだろうけど、
 わたしは、2億片でできているパズルの1片が欠けている方がもっと気になると思うんだよ、
 ここまでやったのにソレがない、という事態の方がきっと気になる。

 早い段階で気づいた方がいいけど、遅い段階で気づくことにもメリットはあって、それはそれだけ、その1片の価値に気づく、ということなんだ。