「肉」から「霊」へ

 そのひとが彼に、韓国行くか?という。
 行こ、と彼が軽く答えて、
 韓国へ誰と誰とがいつ行くというような具体的な話をしだすと、聞いたよそれ、と彼。
 プサンやで、行くか、と再度言うと、
 背後のそのひとを振り返り、わたしの目を見て、行かない、と言って彼が笑う。
 行かないって、とそのひとまでが何の為にかわたしを振り返り、笑う。 
 いや。
 わかっているのか、わかっていないのか、わかっていないんだろうが、わかっているのなら少しは何かしてよと、わたしは他力本願にも思う。 
 いつか、そのひとが電話で、店を出た彼と話しているのを、わたしは見て、もうその電話を代わって、と強く思ったりしているんだ。
 その遣る瀬無さを、どこか馬鹿げていると思っている。
 感傷的すぎると頭のどこかでちょっとおかしいんだ。
 
 今日のあの一瞬、わたしの目を、
 あんなことが、あんなことで繋ぐ、
 わたしは馬鹿げているというよりも、不思議の念に打たれる。

 あまりにも掴みがたいものを掴みにいく、
 さすがにこんな儚くわかりにくいものを、他人にひけらかそうとは思えないが、
 同時に腑に落ちる思いもしている。
 
 シンギュラリティは近い、を紹介している「エクサスケールの衝撃」という本を借りたら600ページ余りもあるのでちょっと圧倒されるが、
 読み始めるとやばい、おもしろい、なにこれ。

 わたしの、もののわかり方というのはちょっといわく言い難いが、
 頭と肚で連動してわかる、というか、
 そのどっちがどっちとも切り離せないような、
 どっちもだ、というか。
 
 そもそもそれはバシャールに、ダリル・アンカに面談しにいったひとが、とても面白いと紹介していた本なのだが、
 最近店に入った、従業員の女のひとで、
 バシャールとかエイブラハムとか知っていますというひとがいる。
 そのひともどこか浮かれて、こんな話ができるなんて、というんだが、わたしもそうなんだなあとちょっと感慨深い。
 わたしは、ああいうものは、すごく頭がいいというか、冷静というか、理性的っていうか、もう合理的だと思えておもしろいの、というと、
 相手はそうじゃないので、そうなんですねと驚いている。
 
 わたしは合理的なことが好きなんだ。
 ひとと話をするときくらい合理的であれ、と思っている。

 自分一人でいるときにどんなに不合理で超絶ぶっ飛んだ、説明のつかないことを感じるのも思うのもそれは自由だし、自由であるのが本当だ、
 でもひとと話をするのなら、
 相手目線を想像することはエチケットとして、というよりむしろ必然的にそうでなきゃ意味がないと考えている。
 それを滞りなく実行できているかといえば、わたしにもできていたりできていなかったりするところはあるが、
 何を目指して、何の目的で、本来ひとに話をするのか、ということは、
 意識している。
 意識しなきゃいけないんだよ、
 それは容易く惰性に流されてしまう、
 そうなると、なんていうかもう、意味がない。

 過去の繰り返し、過去の再創造、
 同じことだが決めつけた未来を繰り返し再創造するにすぎない行為、
 そんなものに他人を付き合わせ、
 そんなものを他人に付き合わせ、
 している場合じゃないって。

 この、もう、そんな場合じゃない、という考えが、どことなく焦燥ではないが、
 張り詰めたもの、意識的なものが、
「エクサスケールの衝撃」にもあらわれていて、そのドラマチックさにわたしは、惹き込まれて微笑ってしまう。
 
 特異点、という考え方。捉え方。
 なるほどなあってわたしはどこか勘が響いて、感じ入っている。

 頭でも肚でもなくその統合された感覚として。

 もうわかりやすいのでわたしも繰り返しそれを思い出してしまうが、
 友人の、世界一ってそんなんわからんやん、
 こういうものは、彼女だけじゃないんだ。
 誰だって持っている。
 誰だって大なり小なり持っていて、手放すに手放せない感覚として、それがある。

 いやもう、あたりまえのように、わたしにもあるんだ。
 ここを、レイ・カーツワイルは、「生命体から非生命体へ」と表現する。
 これは聖書でいう、「肉」から「霊」へということと、同じものだ。
 
 バシャールが言っていた、
 AIは賢いんだから人類を支配しようなんて考えるわけない、
 というのが当意即妙と表現するのがぴったりで、
 ぴったりなものって笑っちゃうんだよな。

 発作的な笑いが起きる。

 わたしは何度か、当たるってそう面白くないんだよな、外れることの方がどう考えても面白いんだっていうことを、店で、バカラの話として、
 言っていたが、
 外れるということがというよりも、そんなにぴったりと外れる、
 例えば1対0、9対8で負ける、というようなさ、
 こんな事態に陥ったとき、もちろん腹も立つが咄嗟にはつい笑ってしまう、ということがある。
 勝つことがどこか予定調和ではないが、
 勝ってもあんまり実はおもしろくない。
 ああ、はい、はい、という感じで、そんなにびっくりしないっていうか。
 でももちろん、それこそ1対0で勝つとか、9対8で勝つ、 
 これもやっぱりびっくりして笑っちゃうんだよな。

 ぴったりとしたそれが来ると、ひとってどこか笑ってしまうんだ。

 AIは賢いんだから人類を支配しようなんて考えるわけないだろ、
 というのは、
 そりゃそうだぜ、とわたしは快哉を感じて、にやっとしちゃう。
 
 どこかで、おまえの、自分の次元を超えたところで理解しようと望まなければ、
 いわばエゴではない感覚でそれを理解したいと望まなければ、
 超えられないものがある。

 そしてたしかにわたしは、ここと戦ってみたりしている。
 わたしが、なんだよな、と思うんだ。

 世界一って、世界一強いって意味ばかりじゃないで、というと、
 そんなんわからんやんってむきになってこられる感じを、笑いながら、
 気を引かれている。
 いや、何がそうもあなたをむきにさせるんだろうって、気になっちゃうの。

 教える、ということは、自分が気づく、ということだ。
 相手に気づいてほしい、とわたしも言いながらどことなく躊躇っていたのは、
 いや、相手もかもしれないがどこかそれは大義名分的なところがあって、
 要するに自分が気づく、ということが相手に教える、ということだ。

 相手が気づくかどうかはそれこそ、お金は当意即妙をやったあとについてくる、というようなものと変わりない。
 そこはいわば副産物的な、結果論的な、なにかにすぎない。

 副産物を取りに行こうっていうのは違うよってことだ。
 副次的なものはあくまで副次的なものにすぎない。
 
 ビックリマンチョコのオマケのシールが流行って、本体であるはずのお菓子は道端で投げ捨てられている光景をわたしは、ちょっと何が起きているのかわからない感じで子どもの頃、目を丸くして、眉を上げて、じっと見ていた、
 そういう感覚にも似ている。
 もったいない、というのは簡単だが、どこかそうではない。
 どこかそうではない、なのにわたしには、
 オマケのシールに夢中にはなれない醒めたところがあって、
 むしろ本体のお菓子を捨ててしまえるまでに、オマケが欲しい、と思えるこの感覚が怖いもの見たさのように知りたかった、ずっと。

 結局、何が言いたいかって、
 全部自分なんだよなってこと。

 ジャッジも批判もただ迂遠にして無為徒労、
 こんなものに振り回されて地に足を着けることをいつまでも怖がっていても何にもならない。


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いったい誰が何をどうやって一人になどなれるものか?

 たとえば、皆誰もが神であることなど、
 合理的に考えればそう遅くもなく辿りつけそうな結論だとわたしは思う。
 
 とにかく、皆がやってるから自分もそれをする、とかいうのは無理なので、
 皆が疑わないから自分も疑わないとか、
 いや、無理やん。
 なんでなん。
 もしそれでいいのならいったい自分はなんのために在るのか。

 こんな突飛なことを言えば笑われるだろう、怒られるだろう、馬鹿にされるだろうということが怖い、
 というのも、自分の心をよくのぞきこめば、
 自分がひとを笑いたいとき、怒りたいとき、馬鹿にしたいとき、自分の心に何が起きているのか、ということをつぶさに観察すれば、
 相手がそうした振舞いをしてきたところで、何が怖く、何が不都合だろうかと思う。

 自分をわからないものにしておくから、他人もまたわからないままになってしまう。
 自分のことはわからないが他人のことならわかる、と言っているようでは、とてもわかっているとは言えないと思うんだ。
 そんなものは自省なき空わかりであって、逆にもう、そんな物分かりはどぶの肥やしにしてしまって構わない。

 だからってとある友人のように、そんなものは自分のも他人のもわからないものなんだ、と開き直ってしまうのもどうかと思われる。
 それはどこか怖がりすぎている、もっといえば、どこか横着だ。
 そんな態度で時間を止めるのは頂けない。
 
 どこかとても気の強いところがまだ、わたしにある。
 汝は強すぎる、もっと弱くあれ、と言われた宮本武蔵が、いったいどういうことかと頭から離れない、しぶしぶのような気持ちは、
 だから、わかる気がする。
 
 喧嘩したいわけじゃない、でも喧嘩は嫌いじゃないとやっちゃうような。
 どこか好戦的な気配を捨てきれずにいる。
 それはきっと恐れからなんだ、
 それを愛と呼ぶのはわたしの規範に反する。

 わたしは喧嘩するほど仲が良いってのは信じていない。
 親しき仲にも礼儀あり、の方だ。

 わたしは、結婚をどこか信用していないところがあった、と二十年来の付き合いある美容師さんにいう。
 そんなもので安心が得られるものかと思っていた。
 彼女は、自分は一人では寂しい、自分の居場所が欲しいという気持ちがあったから、結婚したいと思っていたという。
 
 わたしはその寂しい、がわからない。
 ここに大地があって、空があって、水があり、花が咲き、鳥が飛び、自分がいる。
 何も寂しくはない。
 わたしはどこか、とても人恋しい性分も自覚しているが、それは面白いことは多い方がいい、というくらいの気持ちだ。
 
 彼がいい、と心に決めてわかったのは、
 それまでにも自覚はあったが、来る者を拒む理由がないというだけで、要するに妥協をしてきたにすぎない、自分の行いだ。
 他に方法が見つからなかった。
 他に片付け方を思いつかなかった。
 どこか当惑も感じながら、それが妥協であることをわかりながら、
 こんなものでもありがたがっている方が、おもしろがっている方が、それらを片っ端から蹴って捨てるよりかは自分の心が乱されない、そんな理由で、いままでやってきた。
 そして一度は試したものを、もういらない、もう時期は過ぎたとお別れする。

 でも、彼と心を決めると、霧が晴れたように、笑いだしたくなるほどに、
 心が軽い。
 誰がなんといって門戸を叩こうが、一々出たものか居留守を決めたものかと迷うことなくあっさりとただ憂えるところなく満面の笑みを湛えて出ることができ、
 相手が仮にどんな厚かましい、どんな切羽詰まった事情を開示してこようが一切考える余地はなく、そこは彼にあげたもの、と後ろめたさなく、朗らかに言うことができる。
 こんな楽なことがあるだろうか。
 わたしはたしかに、知らなかった。
 
 わたしは追わないし、負わない。
 わたしは孤独を知っているしそれを愛している。
 わたしはいつでも一人になれる。
 わたしはあらかじめ一人でいて泰然とあれる。
 もっといえば、わたしが一人となど言うことなんか所詮高が知れているところがある。
 いったい誰が何をどうやって一人になどなれるものか、と思っているんだ。
 なれないよ。
 だから一人を恐れるひとをどこかわたしは可笑しく感じてしまうんだ。
 失ってはならないものなど何一つとしてない。
 
 でもわたしはどこかで人から来るものに煮詰まってしまって、飽きてしまって、もうたくさんだ、という思いから、
 自分と同じくらいのものを求める気持ちになっていた。
 そうしたら、いつがそうとは知れず、彼がそこにいたんだ。

 美容師さんのお母さんがお金に頼りがない、という話から、
 わたしはわたしの心配には及ばない、という気持ちを親や祖母に対して、どこか持て余し気味に抱えてきたけど、
 世の中には子の心配をする親じゃなくて、
 子に心配させる親もいるんだものな、と思う。

 心配は自分のものだ。
 相手のものじゃない。
 わたしはそこにどうしても譲れない気持ちがある。
 それをなぜ愛と言わないのか、それをなぜあなたなら大丈夫だと言えないのか、それをなぜ心配だなどと言ってしまうのか。

 不安とは、どこまでいっても、自分のものだ。
 相手のものじゃない。
 相手のせいにできる類のものじゃない。
 相手のせいにしているようでは、自分が自分の邪魔をしている。

 自分で自分の邪魔をしているのにすぎない。

 自分を愛することを慢心や過ぎたるものと捉えてしまうような病気/風潮からは、どこかで決別しなければならない。
 自分から決別しなければならない。
 相手の出方を待っていても無駄なんだ。
 相手、そんなものは詰まるところ、いやしない。

 どこかですべてが、あべこべだ。
 
 いったい彼とどうなるの?と言われたらわたしはちょっと困ってしまうんだ。
 わからない。

 と笑い飛ばしてしまう。
 どうなりたいの?と言われたらどこかまだ。

 そんなことなんでおまえに言わなあかんねん、とちょっと眉尻をあげてしまうところがある。
 おまえに言うくらいならとっくに、わたしは、もう。

しんだこと かんしゃ しているよ

 来るんなら殺す気で来いよ、と思っている。
 わたしは容赦しない、容赦するような身分じゃないと思っているから。
 容赦しないことを誠実さだと考えているから。
 ここは、考え違いをしているんだから、というニュアンスもある。
 
 子どもだった弟が阪神野田駅の線路へと落ちる。
 目を瞑りながらホームぎりぎりを歩くゲームをしていた。わたしもしていた。
 弟は落ちた。
 お母さんが悲鳴を上げ、そのへんにいたスーツ姿の男のひとが弟を引っ張りあげてくれていた。
 わたしは後ろから、ちょっと息を呑むような思いで、それを凝視していた。
 いま起きたことを、理解しようとしてじっと見つめていた。
 わたしは落ちられない、ということがわかった。
 それはどこか、痛みにも似ていた。
 弟は落ちることができる。
 わたしはとても落ちられない、それはどこか、敗北感にも似た青ざめた、痛切に突き刺さるような実感だった。
 たった、こんな駅のホームからさえも。

 弟に子どもがいる。
 生まれてすぐ、例によってわたしは生年月日を足してみる。
 22だ。
 なるほど、と嬉しく感じた。
 それなら、いずれまた会おう、と思った。 
 おばあちゃんの通夜で会うと、明後日六歳になるんだという。
 棺桶に死者へのメッセージを入れて焼くことができます、とメッセージカードが配られてくる。
 わたしはその甥っ子が手で隠すように熱心に書いているところへ、
 見せて、とちょっと弾むような挑む調子でいうと、
 つと眼鏡をかけた顔を上げて、いいよ、と彼も元気よく答える。
 そこに書かれていた文字がこうだ、
「しんだこと
 かんしゃ
 しているよ」
 いや、すっごいな。
 わたしは嬉しくなるくらい感心して、賢いねって叫ぶ。
 賢いってこと知ってたで、と彼の目を覗きこんでいうの。
 
 

殺さずに殺す方法を考え中。

 言葉は二重に響かせなければ、一重では捉えきれなくてふらふらする、ということを思った。
 このことを、どうしても言葉は裏切る、あらかじめ矛盾する、言葉では言い表せないものがある、とわたしは感じていた。
 二重にしなきゃ終わることなくメビウスの輪を回り続けることになる、自分がそうしているとも気づかず、どこかそうであることを気づきながら打つ手もなく。
 
 わたしは言葉を二重に響かせる。
 三重、四重ということもある。
 そうして安定感と、重なり合った和音の響きを楽しむ。

 どこかふざけたような余白、遊びを残しておかないと、詰まる。
 彼らは一重を拾って響く。
 そして勝手に崖から転がり落ちる。
 わたしは落ちない。
 
 公衆の面前で汚らしくオナニーをしているやつ。 
 あんなもの痴漢と変わりない、とわたしがいう。
 触られたんですか、というから、身体に触るだけが痴漢じゃないやろ、と返す。
 また別のひとにも同じようなことを言ったら、
 いまにはじまったことじゃないやろ、と返ってくる。
 いや、
 いまにはじまったことじゃない、だから何。
 いつはじまって、なぜいまもそうしているの。
 そんなありきたりな逃げ口上で、わかったふうな口をきくおまえはなんや。
 とちょっと向かう相手を変えたかのように向き直る。
 いわば、物騒で後先のないことだが、喧嘩に備えた小手調べをしていた。
 
 負ける喧嘩はできないし、相手を負かすことは自分に負けているようでいやだ、などと生温いことを言うのはやめだ、
 喧嘩上等だ、と思い決めていた、勝手に。
 だいたい、復讐だとか、仕返しだとか、思っている時点で甘いんだよ。 
 それは単に喧嘩でいい。
 人殺しもできないようなやつが、人殺しに勝てることはない。
 絶対に勝てないんだよ。
 だからって実際に殺せというわけじゃない、覚悟の問題なんだよ、
 人を殺しちゃうやつは覚悟を決めているようでそうじゃない、
 あれは単に喧嘩に勝ちに行っているだけ、
 そうして、勝つことで自分に負けている。
 
 自分に負ければいいんだ、と思った。
 上等じゃないか。
 自分に負けもできないやつが、何を言える。

 とはいえ、自分から唐突にふっかけるなんていう早まったことはやめにして、刃を鋭利に研ぎながら、機を伺うことにした。
 向こうからやってくる機を捉えて、一刀のもとに殺したら相手が負けを噛み締める時間もないだろうから、二刀目で必ずやる。
 こんな策でどうだろうか。
 誰にきいているんだろうか。
 周りの目もあるからな。

 あんな、公衆の面前で汚らしくオナニーをしているやつ、と罵っているとまわりがちょっと引く。
 その引きを実際の手応えとして量っている。
 これは、やつだけがそう、という話じゃないので実に物騒なんだ。

 下手したら周りが全部敵になっちゃうようなことに手を出している。
 まあ、下手にはやらないつもりだけど、
 わたしは100対1でもいく。
 死ににはいかない。
 自殺を相手に手伝ってもらうなんて、公衆の面前でオナニーをしているやつより罪深いものがある。
 そんなことはできないよな。

 

わたしは、心の神棚に「我」を祀っておく。

 わたしの心は豊かだ。
 わたしは豊かさと繋がっているから、環境や時代や周囲の人がどうであるかは関係がない。

 ここに齟齬がある。
 なんでそんなことで簡単に貧しくなれちゃうんだろう、と不思議だった。
 
 死にかけているひとの病床を訪れて、まだ与えられないことへの不平を言い、嘆いている姿を見て、
 自分でも実に説得力がないなという無力感と遠慮を感じながら、
 ほかにかける言葉も思いつかず、
 感謝できることを見つけるほうがいいってわたしはどこか躊躇いながら言うんだ。
 あなたはこんな病室、というけど、布団もある、屋根もある、空調もきいている、
 満たされているという感覚、いわば感謝の気持ちをもつかもたないかは、
 もう、自分の選択によるとしか、いいようがない。
 そしてどこまでいっても自分の選択から離れる、逃げるってことは、ただできない。

 そんなことはできないじゃんっていう心の悲痛な悲鳴、
 こういうのは、
 
 ほんとに逆なんだなあと思う。

 だから何を見ていようが自分の限界は自分で決めている。
 わたしが何を見ていようが、あなたが何を見ていようが、自分の限界は自分で決めている。
 そこは同じことだ。

 小学生や中学生で、いじめに遭っていて、そんなの相手にしなきゃいいんじゃん、なんて言われても、無理だ、できない、
 そんなのできないじゃんっていう追い詰められ方を、わたしは、
 いまにも死にそうなひとが「何を求めて」かは自分には推し量ることも躊躇われ、
 まして、相手の感じ方を自分が決めつけることなどもっと無理だと思えて、
 たじろいでしまって、
 そこでようやく理解するの。
 なるほど自殺するまで追いつめられるひとの心境は、こうもあるのかなと。
 
 あなたの求めていることは単に不可能だ、と宣言するくらいならその場を逃げ出したく思ってしまう。

 もしそれをするだけなら、わたしが、いまここ、に立ち会っている意味は果たしてあるんだろうか、と思うんだ。

 なぜわかってあげられないんだろう、という、怖いような泣きたいような気持になる。
 自分がすごく弱い人間だっていう気がしてしまうんだ。


 ネガティブに弱い。

 ネガティブなものに共感する気持ちを、保てないんだ。

 もっと大きなものになって、相手を丸呑みにして、叱りつけるくらいの器があれば、
 相手の全部を引き受けられるくらい、肚が座っていたら、覚悟ができていたなら、
 あのひとは安心して、それで治るものも治ったのかもしれない、
 と思うと、
 もうカルマだよな、どこか。

 忸怩たる気持ちを、忘れられずにいる。

 わたしが意気地ないんだ、という思いを忘れられずにいるんだ。

 治るも治らないも自分の選択の結果だ、という立場から離れることはできなかった。 
 わたしには何も他に言葉がない。

 感謝できないことへの共感はとても難しい。

 死のような圧倒的なイベントなら、なおさら。

 些細なことなら、言えるんだよ、おまえなんでそんな不味そうに飯を食べるの、感謝が足りんわ、とかなら。
 
 我を脱ぎたい。
 我はもうそれこそ、神棚にでも飾っておきたい。
 毎日わたしは、心の神棚に我を祀っておいて、それを脱いだまま過ごしたい。

 

カルマは愛だよ。

  

   友人にこないだ、のんちゃんよく主語がないって言われてたの覚えてる、とおかしそうに言われて、
 いやさ。
 よく言われてるのならたしかに問題というか、
 要するにわたしのほうでも相手に対する無関心があったのだと思うが、
 なにも期待していないというか、
 お父さんがよく言っていた「見てわからんもんは聞いてもわからん」的な投げやりさがあった、というか。
 
 
 こういうことは、なんていうか、
 照れではないが、
 美意識ではないが、
 いえば、言葉は少ない方がいい。
 省けるものは省いていったほうがいい。
 わたしはよく一回ですむところを二回するのは嫌いなの、ということをいう。
「あ」で通じるのなら「い」まで言わなくていい。
 新人の子の研修をしているときにも、
 90ドルナイスキャッチ、100ドルから参ります、ショート10ドル失礼します、コミッション10ドルから失礼しますって、
 いまなんで二回失礼しますって言った、と思って、
 そういうときは、ショート10ドル、コミッション10ドルから失礼しますって言うのと教えてあげる。
 整理するの、ちゃんと、文章を。
 二回も三回も言う効用、というのはある場合もあるのかもしれないけど、
 無自覚になんとなくやってるんなら、一回にまとめましょう。
 効果がないのなら重複は避けましょう。
 
 美意識っていうか、美意識で合ってると思うけど、
 効率が悪いことは美しくない。
 必然性のないことは美しくない。
 
 起きる物事はなんだって必然で、その必然性は絶対に後付けではあるのだが、先付けはできないから、(先付けもできるんだけども)
 ここをなんとなくとか偶然にしておいては、
 なんとなくならなんとなくの効果、偶然ならばそれが偶然である効果、を感じていないのなら、
 必然に置き換えていってもらいたい。
 その方が潔いし、美しいから。
 
 コミュニケーションにおいて、わからんやつが馬鹿、となど言っていたら、そいつこそ馬鹿、なのは間違いないんだけど、
 たしかに、通じる相手と通じない相手がいるんだよな。
 
 勘が鈍い。
 これは、もう、そうだなあ、馬鹿にしていては自分が馬鹿になるからやめておくとして、
 馬鹿にしているわけじゃないが、
 勘が鈍いことは、往々にして勘違いへと発展しがち。
 
 なんだろうな、勘って。
 馬鹿にすることには意味がないが、勘が鈍いと、勘の鋭いひとから、一定の状況下においては見透かされがち。
 勘だけじゃだめなのだが。
 愛がないとな。
 愛というか、関心だな、相手への関心もなく勘が鋭いばかりでは、その勘の鋭さが自分を苦しめるだろう。
 勘が鋭くても、相手への関心がなければ、それは勘違いへと発展していくだろう。
 わたしも人の子なので、自分にわかることは相手もわかるだろうということを、まあやってしまうことはある。
 そしてさっき言ったようにそこには美意識も絡んでくるので、
 言葉少なに通じ合える仲への気持ちよさを感じるってことは当然のようにある。
  
 友人の一人にものすごく言葉数の多い子がいる。
 東京だったか忘れたけどバスで行ったとき、ずっっっと、喋るの、自分ばっかり。
 話の切れ目もなく。
 話がどんどん展開していって、枝葉まで太くしていって、もはや根幹に戻るのにも一苦労、みたいな、
 要するに全然整理されていない、思いつくままの話をする。
 いやわれわれ喋りのプロじゃないですから、にしても常人の比ではない。
 だれだれっていう子がいて、だれだれっていうひとがいて、そのひとをなんでだれだれって呼んでいるかというと、こういうことがあって、そこにいたのはだれだれで、
 いやドストエフスキー読んでるんじゃないんだからっていうくらい名前さえもが煩雑にして量が多い。
 いや、それでいったい何の話をしようとしてこの話をはじめたの?と何度軌道修正を促しても、やっぱり枝葉を育てちゃう。
 わたしも相当辛抱強いと思うが、次第に疲れてきて、
 いったいこういうのは何だろうな、という自分の思考へと意識が向かう。
 
 いま思い返すに、もう、そうなんだよな、彼女自身が、枝葉を生きている。
 枝葉を生やすためには根幹を育てなきゃならないし、あなたはそもそも根幹でもあるんだということを、忘れてしまって、蔑ろにして、まるで糸の切れた凧のように風に任せて宙を舞うばかり、起きた物事に簡単に一喜一憂して、それがあたりまえだと思っている。


 仕事を飛びたい、というんだ。
 なんで飛ぶんだよ、辞めるでいいじゃん。
 ここを整骨院の先生は、何かに毒されているんじゃないですか、テレビとかに、というんだけど、それはまたちょっと違う、と感じている。
 辞める、ということさえもストレスなんだよね、おそらく。
 辞める、ということで起きるあれやこれやのコミュニケーションさえもがストレス。


 それは結局あなたが、自分の気持ちに嘘を吐いているからだ、とわたしは思う。
 厳しく言うと嘘、やわらかく言うと、誤魔化している。
 もう、他にもそういうひとはいるだんけど、
 というかだれでもなのかもしれないけど、
 仮面は仮面でしかない。
 嘘は嘘でしかない。
 過去の古傷、いわばカルマは、
 自分の手によって解消されるその日まで、この世にある何物よりも力強くそこに横たわり続けて、決してあなたを手放すことはない。
 カルマは愛だよ。
 あなたは愛を受け取ることをただ拒んでいるだけなんだ。
 ほんとうなんだよ。

無人島に持っていくスキンケアは、化粧水なんかじゃなくて、オイル一択!


 わたしを羨ましいとかいうひとって、舐めてるな、と思うんだ。

 おまえももうちょっと気概持てよ、というかさ。
 わたしは表面上、結果的に、笑っているだけに見えるかもしれないけど、常に真剣で勝負してるんだよ。
 小刀じゃなくて、真剣。

10:02 2019/08/09
 怯えたら、負け。
 そうだよなあ。
 相手を負かすことが勝つことだと思ってるうちは、そうだな、もう何にもわかっていない。

 わたしは迂闊に攻撃はしない、返り討ちに遭ったらイヤじゃん。

 愛の告白を怖がるのは傷つくのがいやだからっていうの、よくわかるよ、
 愛を打ち明ける行為は、本来攻撃ではない。
 おなじことだが、懇願でもない。
 要求ではない。
 
 愛の告白をまるで攻撃のように、懇願するように、要求するかのように、やってしまうとそれは、受け容れてもらえない、拒絶される、という返り討ちが怖いよな、と思う。

 わたしの真似は簡単そうに見えるかもしれないが決して簡単にはできない。
 わたしは遊んでいるように見えるだろう、ふざけているように見えるだろう、
 笑っちゃいけないようなところで笑ってそれを誰も、笑われた客が咎めないので、のんちゃんだから許されるってずるい、なんていうのは、
 まるでわかっちゃいないな、と思う。

 わたしは関係を築いている。
 関係を築いた上で遊んでいるわけで、ひとの上にあぐらをかくように自分だけ楽しんでいるわけじゃない。
 
 わたしは自分が唾を吐いた門を平気でくぐれるやつは嫌いなの。

 客がチップに見えているんだろう、なんて間の抜けたことは言うな、
 わたしは人間だと思って見ている。
 わたしがいつ油断したよ。
 
 だから、舐めているっていうのは、そういうことだよな。
 
 油断したらUFOが見えちゃう、わたしは油断しないからそれらを見ない。
 全部わたしの手柄にしたい欲張り者なの。

 迂闊な攻撃はしない、
 無自覚にはそれをしない、意図的にしかしない。
 落ちどころまで見据えた攻撃ではない、相手任せの無神経な攻撃をするなんて、
「自分が唾を吐いた門を平気でくぐれる」無礼者、愚か者だ。