かもめのジョナサン、ジョゼフさん、もしくはジョジョさん。

 毎朝何分か、ジョゼフ・マーフィーの音読を聴いていたら、読み返したくなったので図書館で借りる。
 なんか、いいよな。

 彼の言うことは本当でしかない。
 成功哲学の分類は何冊か、いや何十冊かは読んだが、
 おおむね要するに、本当だよな、と思っている。
 
 今日は、「かもめのジョナサン」を読んだ。
 五木寛之のあとがきを併せ読むと、どこか、なんというか、
 いや、わかるけど、わからないではないけど、
 この危惧は何だろうか、と実に興味深い。
 どこか、
 どこかしら、
 ごめん、時代錯誤的な。

 いや、わかりますよ。

 時代錯誤というか、
 どこかしら、要するに、この宇宙に自分以外の他人を認めているところがある。
 
 わたしはつくづくと思うが、こんなことはどこまでも、
 上が下になり、下が上になるように、
 キリのない何か、
 目が覚めない何か、
 現実とはいったい何か、自分とはいったい何者かというような、
 問わず語りに延々と語り継がれる間にまた眠りにおちてしまうような何か、
 そんなものでしかないところがあると。
 
 どこかでこの小宇宙を閉じなければ、どこかでいわば、開き直ってしまわなければ、
 どこへ行きつくこともできないというような、間延びしきった収拾のつかなさがある。

 いや、あなた、神とは己自身に他ならないものだ。

 そこのゴールを決めないと、この過程を楽しむことはできない。

 ゲームのルールもわからないままゲームに興じていたところで、
 何の作戦も立てられない、
 そして作戦も立てずにただゲームに参加していたところで、
 あるいはまた、参加させられていると感じていたところで、
 甲斐がない、
 わたしはそう思う。

 何が正解かはわからない、というようなことを知ったふうに、悟ったふうに、あるいは謙虚なふうに、あきらめたふうに、
 そんな場面にある、なんだかわからない、先延ばし的なものに触れるたびに、
 わたしは違和感を覚える。

 なんでそんな漠然とした物言いのうちに納得できるものを見出せるのか、ちょっと意味がわからなくなる。

 賢さを敵にしているようにしか感じられなくなる。

 用心深さは、本来の目的のためにあるのに、用心深さのその深さを追求しだすような本末転倒な何かを感じる。

 五木寛之が、なぜ群れを蔑視するのか、というようなことを言っていた。
 群れを蔑視する。
 軽視する。
 
 いや、群れは、
 というか、
 群れも個も等しくたしかに同じ、自分から派生したものにすぎない。
 かもめのジョナサンを書いたひとは、というか、ジョナサンは、そこを蔑視しているわけじゃないんだろう、とわたしは思う。
   
 どこかで個の感覚を誰だって、どこかでは、味わうものだ、
 そうしたときに、どこか覚束ないような孤独、寂しさ、理解者のいなさ、つぶれてしまいそうな個の感覚を奮い立たせるような何かとして、
 群れと自分とをどこか分けて考えるような気持ち、
 それは、
 
 それを蔑視とまでいうのは、
 ちょっと、なんだか、いえば、厳しくない?と思ってしまったりする。

 いや、個を感じたとき、どこか戦う気構えになってしまうのは、わたしは、わかる。
 
 ジョナサン第一部を読んで、たしかに幼い、たしかに、
 崇高だが幼い、
 そんな気持ちはわたしもしている。
 群れには群れとして守りたいものがある。
 そこをなぜ守りたがるのかと、他者を他者と捉えて非難していたところで自分の成長はない。
 群れにとどまり、群れを形成している彼らが何も、悪者集団だというわけではない。
 
 誰だって群れから離れるときには相当な決意がいるし、相当な自恃がいる。
 いわば、どこか、反抗的な何かがきっといる、そんなときがある。
 群れから自分を引き離すための反骨精神はどこか、避けがたいものとして横たわっている。
 どこかしら生身の刃物をさらすような、危なっかしさがある。
 それはもう、必要な段階として、放っておいてやったら、とわたしは思う。

 刃物をさらしたからって、即誰かを斬り殺すと決まったものでもないだろう。
 刃物をさらした、といって非難するのは要するに、自分の側に掻き立てられる不安があるからだ。
 恐れがあるからだ。
 刃物をさらしているやつに負けない気構えが、自分にないからだ。

 批判はなんでもない、なんでもないんだけど、自分を鼓舞するためにそれを必要とするときだってある。

 先へと進んだかもめはなぜ揃って純白なのか、ということも言っていた。
 いや。
 これはいわば、

 社会的な、表面的な、見えたままに捉われているのはあなたの方だ、と思わし得る何かがある。
 憐みを発揮する体でその実、自らの劣等感を浮き彫りにしているにすぎないような。


 ビッグの台を馴染みのない客の一団が半ば囲み、ひとりのお客が打つ玉もなく絡むきっかけも見出せず、どこか退屈そうに、
 ソファへと退いたタイミングで、まだゲームしていないの?とわたしが話しかける。
 
 そこから、どう転んだのか、
 なんだかんだと話して、
 
 いや、詳しく言うならこうだ、
 ゲームやらないの、というと、
 いやもう怖いとか、あんまり毎日きたらあかんとか、そんなような、
 いわばどこか「普通」なことを言うんだ。
 わたしがソファから見える3タップの罫線をさして、二目め鉄板P、あれPやろ、というと絶対Bがくる、となどいう、
 経験でわかる、となどわざとらしさを自分でもわかっているような逃げを残しながら、笑いを誘うようなそれ、
 いや自分、そういう、台の外からの呼び込みでも罫線変わるからな、とわたし。
 台の外で呼び込んでいるやつを、悪いってわたしは思っている、という。
 結果はBだ。
 
 こうした会話、こうした予想、こんなものはどこかしら、たしかに、
 何でもないとしか言いようのない何かではある。
 
 結果論だなどという。
 そうだな、とわたしはどこか、歯切れが悪い。
 いや、結果論って何なんだ、という、どこか、
 結果論と名乗るおまえは何者なのか、と言いたがるような気持ちを残している。

 ともかくそのお客が話すうちに、
 自分が金を飛ばれた話や、関わっているひとの話、
 そこでちょっと縺れたり凄んだりするような話のうちに、
 わたしは確かに詳しくはそれを知ってなどいない、
 そのお客の口からそんなことがあったんだと聞くばかりだ、でもふと、
 それを話すその子の口ぶりから、
 ふと笑いがこみあげてきて、
 自分どこか可愛いとこあるな、と言ってしまう。

 あれはどこか、戦っている。
 その前日、わたしの台で、
 これはBやんな?と言ってきた、その目のあまりに、
 つぶらな様子に、わたしは、まるで何を相手にしているのか、たじろいでしまうほどの瞬間を感じている。
 そんなつぶらな瞳で、と思っている。
 その場では、そんな目で見られても、と返して笑っただけだ。   
 
 おれは何も間違ったことしていない、
 何も後ろめたいことなどない、
 後ろめたいことがあったらこんな場所に出てこれなどしない、とあのつぶらな瞳をどこか上向かせていう。
 
 いや、どこか可愛いところがある。

 わたしは誘われて笑ってしまう。

 純粋なものを汚された、
 怒りのようなもの。

 純粋なものを汚された怒りに、まだ震えているような、
 まだ歪められたそれに、
 ふるい落とされずにいる、
 誰を呑むこともない、誰の上にあぐらをかくでもない、
 いききれず、どこへもいききれずにあきらめをどこか捩れさせて、
 強気に徹しきれない弱音を吐いて拗ねてしまうようなそれ、
 
 いや、自分可愛いところあるな、というのはわたしの実感であって、
 わたしのどこかしらに響く、いつかの分岐したかもしれない自分であって、
 
 拗ねがどこか、捩れに捩れて、
 攻撃性に移るそれ、をもうあからさまに出している、

 いわばどこか、
 泣きだす寸前のそれを、
 泣けばいいとも、泣くことはないとも言い出せずに目でて、愛おしむような、
 ただ目の前の相手への溢れ出てやまない愛情がある。

 その子が何を具体的に言っているのか、わたしは知らない、知らないがどんな背景、どんな錯綜、どんな歴史があるのであれ、いま自分の発しているもの中には確かにわたしに響く可愛さがある、と感じてそれを言う。

 どこかに確かにわたしが響いて、感動したからだ。

 汚された純粋性にはどこか、わたしを泣きたくさせるものがある。

 同じことだが、笑いたくさせるものがある。

 
 

 相手の出した刃は、
 自分の出した刃にまさに、まったく類似している。

 

月にいったい何がある。

 相談しているんじゃないよな、と思う。 
 応援を頼んでいる。
 応援というのは、もう、いつかはわからなくても、そうなるんだろうな、という予想をもってこの現実をみる、ということだ。

 自分を知らない。
 現実を知らない。
 
 相手にあって、自分にないもの、
 自分にあって、相手にないもの、わたしにそれが見えたところで、
 因果関係を上手に語れるストーリーがなきゃ、
 相手の腑に落ちることはなく、
 
 いやもっと言うならどこか、完全に腑に落ちきれていない自分が、相手を説得することはない。

 決めるのは自分であって、他ではない、それがたとえ。
 ここの覚悟がいる、
 それをわたしは、99%の次を100%にせず、99,1%、99,91%などと、どんどん無限に刻んでいる。
 
 友人がいう、夫にも自分にもある、恥ずかしいからやらない、というところを、子どもにはやってもらいたい、
 自分がやらないのに子どもにはやれって、そんなん無理やろう、とわたし。
 口で言ったところで、せんがない。
 そんなものはなんでもない。
 言葉以外、せりふ以外のところにある真実を子どもが見抜かないわけがない。
 見抜いているとは知らずに見抜くんだ。
 子どもだけじゃない、誰でも。

 それで説明しがたい矛盾や葛藤に立ち往生することになる。

 子どもにだけやれって、それは無理だし、
 無理を通り越してどこかしら横着だ。
 いわばそれは、
 どこかで線を振れて、支配被支配をあたりまえに受け容れる何か、
 あたりまえに受け容れさせようとする何か、
 わたしは、そこを不憫だと言ったんだ。

 皆、自分の目でものを見て、ものを言う。
 目がエゴだというのは的確だ。
 目でものを見るが、目それ自体は自分の目を見ることはできない。
 いったいじゃあ、ものを見ているのは誰なのか、というところだ。

 エゴは目のようなもの、
 目で見ている、たしかに目で見ている、
 目が見ている、そうではない。
 目で見ている、目は自分の目を見ることができない。
 エゴではエゴを捉えることができない。

 エゴは自分の一部でしかない、
 エゴを通してものを見ている自分自身に気づく必要がある。
 
 実際のところ見たいと決めたものを、エゴを通して見るわけで、
 エゴが見たからそれがある、というのは逆さまで、支離滅裂だ。
 
 そこにりんごがあるから、りんごを識別するわけじゃない。
 りんごという認識があるから、そこにりんごを見ることができる。

 こんなことは禅でも哲学でもない、ただのあたりまえだ。
 

 女は嫌いだが、わたしは男だからいいんだと女のお客に言われたことがある。
 わたしは実に男らしさを育てているところがある。
 でも、自分は女やで、と従業員のおじいさんがいう。
 わかっている、
 わたしは自分の中の男らしさを育てることによって、男になるわけじゃない、より一層自分の女を際立たせているだけだ。
 誰が男のようなものになりたがるんだ。
 わたしは女だ。
 
 センスは大事、と友人にいうと同意して、
 彼はと聞かれ、いや彼は、とわたしは詰まり、
 いや、センスとか求めていない、
 わたしが求めているのは彼の行き腰。
 賢さはどこか、必ず臆病さを連れてくる。
 賢さはどこまでも数字を刻む。

 自分を見るように相手を見る、これは間違える。
 よく自分のされたくないことはひとにもするな、というが、
 これはどことなくおかしい。
 自分とひととは同じ感性なわけではない。
 
 女性もポルノを見る、それは男の裸に興奮するからか、と聞くのは馬鹿げている。
 いや、そういうひとがいたって構わないが、
 自分をくるっと反転させて相手を見る、そこはそうじゃないだろ、と呆れてしまうような馬鹿馬鹿しさがある。
 横着というよりもはや、ただの幼稚さがある。

 いやもう、そうなんだよな。
 横着というより、稚拙なんだな。

 
 自分と同等のものを引き寄せる。
 自分が響かせたいものを、引き寄せるんだ。

 ある種、男にはどうしても拭いきれない劣等感がある。
 女にはないものがある。
 そこを、男を真似て劣等感を抱き、男のどこか怯えたそれに響いて、同情しているようでは、お話にならない。
 そんな話じゃなかったはずだ、という違和感がある。
 違和感、というかもう、それは過ち、歪さにすぎない。

 
 相手を自分とおなじくらいのものだろう、と見るのは、どこかぞっとするような怖さ、危なっかしさがある。
 わたしはそれが怖い。
 いや、同じなわけがない。
 
 同じだと決めつけるから、横着または稚拙なものにとどまっているから、晴天の霹靂のように突然、出し抜かれる。
 そして自分の横着にはまだ気づかずに、相手がずるいことをしたんだろう、などと思う、こんなことは実に愚かしい。
 あるいはまた、相手が生来もっているものは自分には備わっていないと決めつけて、自分が満たされない場所を、ここが安全なんだと信じて梃子でも動こうとしない。
 好きにすればいい話だが、わたしはどこか上げた眉を下げられずに、それを気にしている。

 わたしは自分の嘘、自分のごまかしを徹底的に暴いてまわる。 
 そうじゃなきゃ、だって、
 勝てないじゃん、
 わたしは勝ちたいんだ、この現実に。

 こうした勝ち気さにも響いている。
 わたしが響かせたがっている。
  
3:04 2019/10/18
 わたしは、勝ちたいんだ、そして、
 勝ちたいと宣言できるひとの、少なさを思う。

 わたしは、勝ちたい。
 誰に、とかじゃない、この現実に、
 この自分が作り上げた現実に勝ちたいんだ。

 自分がすべてを作った、
 自分が全部お膳立てをした、
 なのにそこに負ける、そんな選択肢はただ、ないだろうって思うんだ。

 照れが下ろしにかかる、こんなものは何でもない。
 
 子どもにネガティブな暗示を与える、こんなことはたとえ親といえども許される行いではない、とナポレオン・ヒルがいう。
 わたしはまったく同感だ、
 まったく同感だ、
 そしてたしかに子どもは自由だ。
 親だって自由だ。

 いかに上手に下りられるかということを考えているあなただから、
 9から0しか引く気はない、という答えを、
 そうじゃない、
 9から2、俗にクンニ、わたしは好きだ、癖になっているのとなど、
 馬鹿げた戯れに応じるのが正解、なんて言ってのける。
 いや、おまえ、わたしは、
 そこを蔑む気はない、蔑む気がある、
 役が違う、
 というより、全うすべきものが違う、
 男が演じる女みたいなものなら、それもいい、
 わたしは違う、わたしは男じゃない。
 
 わたしは実に男らしさを育てている、でも、
 それは、自分が男になりたがっている、そんなものではない。
 わたしの相手を想定しているんだ。

 自分の中の男らしさを育てることによって、自分がそれよりも女だというそこを表わしたい、それだけだ。

 わたしには強烈な男気、
 男を全員下ろしたがっているような強気、勝ち気がある。
 それは、男をただいわば、
 ふるいにかけたがっている、それだけのところがある。

 そして最後の最後には、
 
 今朝ふとまた、竹取物語を思い出した、
 帝の求愛にまで応じず月へと帰った、
 あの実に尻きれとんぼな話を。


 月にいったい何がある。


 わたしはたしかに今にでも月へ帰りたい、
 月へ帰りたいんだ。
 そしていつでも帰れるんだからまだここにいる、それだけだと言い聞かせているところがある。

 わたしはいつでもそこへ帰れる。
 でも帰ったところで。


 わたしのその王宮へ帰ったところで。

 
 わたしは負ける気なものに腹が立つんだ。
 勝ち気でいけよ馬鹿、と怒ってしまう、それは、
 どこかしら男らしさを残した何かではある。

 美しくなければ、
 勝つ気構えがなければ、
 それらをどう取り繕おうと、所詮なんでもない。
 
 言い訳ばかり上手くなったところで、何でもないだろう。
 
 なんでもないだろ?

 おまえ、いったい、何をしにきたの?と思ってしまうんだ。

 思ってあげたくなってしまうんだ、まだ。

 

 いわばまだ、そうやって。
 99%の次は100%じゃない、とやっちゃうような何か。
 99%の次は、99,1%だと。
 刻むような、永遠に刻むような、
 永遠に今へと至る道を刻んで辿りつきたくないような何か。


 いや、わたしが不甲斐ない。

「肉」から「霊」へ

 そのひとが彼に、韓国行くか?という。
 行こ、と彼が軽く答えて、
 韓国へ誰と誰とがいつ行くというような具体的な話をしだすと、聞いたよそれ、と彼。
 プサンやで、行くか、と再度言うと、
 背後のそのひとを振り返り、わたしの目を見て、行かない、と言って彼が笑う。
 行かないって、とそのひとまでが何の為にかわたしを振り返り、笑う。 
 いや。
 わかっているのか、わかっていないのか、わかっていないんだろうが、わかっているのなら少しは何かしてよと、わたしは他力本願にも思う。 
 いつか、そのひとが電話で、店を出た彼と話しているのを、わたしは見て、もうその電話を代わって、と強く思ったりしているんだ。
 その遣る瀬無さを、どこか馬鹿げていると思っている。
 感傷的すぎると頭のどこかでちょっとおかしいんだ。
 
 今日のあの一瞬、わたしの目を、
 あんなことが、あんなことで繋ぐ、
 わたしは馬鹿げているというよりも、不思議の念に打たれる。

 あまりにも掴みがたいものを掴みにいく、
 さすがにこんな儚くわかりにくいものを、他人にひけらかそうとは思えないが、
 同時に腑に落ちる思いもしている。
 
 シンギュラリティは近い、を紹介している「エクサスケールの衝撃」という本を借りたら600ページ余りもあるのでちょっと圧倒されるが、
 読み始めるとやばい、おもしろい、なにこれ。

 わたしの、もののわかり方というのはちょっといわく言い難いが、
 頭と肚で連動してわかる、というか、
 そのどっちがどっちとも切り離せないような、
 どっちもだ、というか。
 
 そもそもそれはバシャールに、ダリル・アンカに面談しにいったひとが、とても面白いと紹介していた本なのだが、
 最近店に入った、従業員の女のひとで、
 バシャールとかエイブラハムとか知っていますというひとがいる。
 そのひともどこか浮かれて、こんな話ができるなんて、というんだが、わたしもそうなんだなあとちょっと感慨深い。
 わたしは、ああいうものは、すごく頭がいいというか、冷静というか、理性的っていうか、もう合理的だと思えておもしろいの、というと、
 相手はそうじゃないので、そうなんですねと驚いている。
 
 わたしは合理的なことが好きなんだ。
 ひとと話をするときくらい合理的であれ、と思っている。

 自分一人でいるときにどんなに不合理で超絶ぶっ飛んだ、説明のつかないことを感じるのも思うのもそれは自由だし、自由であるのが本当だ、
 でもひとと話をするのなら、
 相手目線を想像することはエチケットとして、というよりむしろ必然的にそうでなきゃ意味がないと考えている。
 それを滞りなく実行できているかといえば、わたしにもできていたりできていなかったりするところはあるが、
 何を目指して、何の目的で、本来ひとに話をするのか、ということは、
 意識している。
 意識しなきゃいけないんだよ、
 それは容易く惰性に流されてしまう、
 そうなると、なんていうかもう、意味がない。

 過去の繰り返し、過去の再創造、
 同じことだが決めつけた未来を繰り返し再創造するにすぎない行為、
 そんなものに他人を付き合わせ、
 そんなものを他人に付き合わせ、
 している場合じゃないって。

 この、もう、そんな場合じゃない、という考えが、どことなく焦燥ではないが、
 張り詰めたもの、意識的なものが、
「エクサスケールの衝撃」にもあらわれていて、そのドラマチックさにわたしは、惹き込まれて微笑ってしまう。
 
 特異点、という考え方。捉え方。
 なるほどなあってわたしはどこか勘が響いて、感じ入っている。

 頭でも肚でもなくその統合された感覚として。

 もうわかりやすいのでわたしも繰り返しそれを思い出してしまうが、
 友人の、世界一ってそんなんわからんやん、
 こういうものは、彼女だけじゃないんだ。
 誰だって持っている。
 誰だって大なり小なり持っていて、手放すに手放せない感覚として、それがある。

 いやもう、あたりまえのように、わたしにもあるんだ。
 ここを、レイ・カーツワイルは、「生命体から非生命体へ」と表現する。
 これは聖書でいう、「肉」から「霊」へということと、同じものだ。
 
 バシャールが言っていた、
 AIは賢いんだから人類を支配しようなんて考えるわけない、
 というのが当意即妙と表現するのがぴったりで、
 ぴったりなものって笑っちゃうんだよな。

 発作的な笑いが起きる。

 わたしは何度か、当たるってそう面白くないんだよな、外れることの方がどう考えても面白いんだっていうことを、店で、バカラの話として、
 言っていたが、
 外れるということがというよりも、そんなにぴったりと外れる、
 例えば1対0、9対8で負ける、というようなさ、
 こんな事態に陥ったとき、もちろん腹も立つが咄嗟にはつい笑ってしまう、ということがある。
 勝つことがどこか予定調和ではないが、
 勝ってもあんまり実はおもしろくない。
 ああ、はい、はい、という感じで、そんなにびっくりしないっていうか。
 でももちろん、それこそ1対0で勝つとか、9対8で勝つ、 
 これもやっぱりびっくりして笑っちゃうんだよな。

 ぴったりとしたそれが来ると、ひとってどこか笑ってしまうんだ。

 AIは賢いんだから人類を支配しようなんて考えるわけないだろ、
 というのは、
 そりゃそうだぜ、とわたしは快哉を感じて、にやっとしちゃう。
 
 どこかで、おまえの、自分の次元を超えたところで理解しようと望まなければ、
 いわばエゴではない感覚でそれを理解したいと望まなければ、
 超えられないものがある。

 そしてたしかにわたしは、ここと戦ってみたりしている。
 わたしが、なんだよな、と思うんだ。

 世界一って、世界一強いって意味ばかりじゃないで、というと、
 そんなんわからんやんってむきになってこられる感じを、笑いながら、
 気を引かれている。
 いや、何がそうもあなたをむきにさせるんだろうって、気になっちゃうの。

 教える、ということは、自分が気づく、ということだ。
 相手に気づいてほしい、とわたしも言いながらどことなく躊躇っていたのは、
 いや、相手もかもしれないがどこかそれは大義名分的なところがあって、
 要するに自分が気づく、ということが相手に教える、ということだ。

 相手が気づくかどうかはそれこそ、お金は当意即妙をやったあとについてくる、というようなものと変わりない。
 そこはいわば副産物的な、結果論的な、なにかにすぎない。

 副産物を取りに行こうっていうのは違うよってことだ。
 副次的なものはあくまで副次的なものにすぎない。
 
 ビックリマンチョコのオマケのシールが流行って、本体であるはずのお菓子は道端で投げ捨てられている光景をわたしは、ちょっと何が起きているのかわからない感じで子どもの頃、目を丸くして、眉を上げて、じっと見ていた、
 そういう感覚にも似ている。
 もったいない、というのは簡単だが、どこかそうではない。
 どこかそうではない、なのにわたしには、
 オマケのシールに夢中にはなれない醒めたところがあって、
 むしろ本体のお菓子を捨ててしまえるまでに、オマケが欲しい、と思えるこの感覚が怖いもの見たさのように知りたかった、ずっと。

 結局、何が言いたいかって、
 全部自分なんだよなってこと。

 ジャッジも批判もただ迂遠にして無為徒労、
 こんなものに振り回されて地に足を着けることをいつまでも怖がっていても何にもならない。


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いったい誰が何をどうやって一人になどなれるものか?

 たとえば、皆誰もが神であることなど、
 合理的に考えればそう遅くもなく辿りつけそうな結論だとわたしは思う。
 
 とにかく、皆がやってるから自分もそれをする、とかいうのは無理なので、
 皆が疑わないから自分も疑わないとか、
 いや、無理やん。
 なんでなん。
 もしそれでいいのならいったい自分はなんのために在るのか。

 こんな突飛なことを言えば笑われるだろう、怒られるだろう、馬鹿にされるだろうということが怖い、
 というのも、自分の心をよくのぞきこめば、
 自分がひとを笑いたいとき、怒りたいとき、馬鹿にしたいとき、自分の心に何が起きているのか、ということをつぶさに観察すれば、
 相手がそうした振舞いをしてきたところで、何が怖く、何が不都合だろうかと思う。

 自分をわからないものにしておくから、他人もまたわからないままになってしまう。
 自分のことはわからないが他人のことならわかる、と言っているようでは、とてもわかっているとは言えないと思うんだ。
 そんなものは自省なき空わかりであって、逆にもう、そんな物分かりはどぶの肥やしにしてしまって構わない。

 だからってとある友人のように、そんなものは自分のも他人のもわからないものなんだ、と開き直ってしまうのもどうかと思われる。
 それはどこか怖がりすぎている、もっといえば、どこか横着だ。
 そんな態度で時間を止めるのは頂けない。
 
 どこかとても気の強いところがまだ、わたしにある。
 汝は強すぎる、もっと弱くあれ、と言われた宮本武蔵が、いったいどういうことかと頭から離れない、しぶしぶのような気持ちは、
 だから、わかる気がする。
 
 喧嘩したいわけじゃない、でも喧嘩は嫌いじゃないとやっちゃうような。
 どこか好戦的な気配を捨てきれずにいる。
 それはきっと恐れからなんだ、
 それを愛と呼ぶのはわたしの規範に反する。

 わたしは喧嘩するほど仲が良いってのは信じていない。
 親しき仲にも礼儀あり、の方だ。

 わたしは、結婚をどこか信用していないところがあった、と二十年来の付き合いある美容師さんにいう。
 そんなもので安心が得られるものかと思っていた。
 彼女は、自分は一人では寂しい、自分の居場所が欲しいという気持ちがあったから、結婚したいと思っていたという。
 
 わたしはその寂しい、がわからない。
 ここに大地があって、空があって、水があり、花が咲き、鳥が飛び、自分がいる。
 何も寂しくはない。
 わたしはどこか、とても人恋しい性分も自覚しているが、それは面白いことは多い方がいい、というくらいの気持ちだ。
 
 彼がいい、と心に決めてわかったのは、
 それまでにも自覚はあったが、来る者を拒む理由がないというだけで、要するに妥協をしてきたにすぎない、自分の行いだ。
 他に方法が見つからなかった。
 他に片付け方を思いつかなかった。
 どこか当惑も感じながら、それが妥協であることをわかりながら、
 こんなものでもありがたがっている方が、おもしろがっている方が、それらを片っ端から蹴って捨てるよりかは自分の心が乱されない、そんな理由で、いままでやってきた。
 そして一度は試したものを、もういらない、もう時期は過ぎたとお別れする。

 でも、彼と心を決めると、霧が晴れたように、笑いだしたくなるほどに、
 心が軽い。
 誰がなんといって門戸を叩こうが、一々出たものか居留守を決めたものかと迷うことなくあっさりとただ憂えるところなく満面の笑みを湛えて出ることができ、
 相手が仮にどんな厚かましい、どんな切羽詰まった事情を開示してこようが一切考える余地はなく、そこは彼にあげたもの、と後ろめたさなく、朗らかに言うことができる。
 こんな楽なことがあるだろうか。
 わたしはたしかに、知らなかった。
 
 わたしは追わないし、負わない。
 わたしは孤独を知っているしそれを愛している。
 わたしはいつでも一人になれる。
 わたしはあらかじめ一人でいて泰然とあれる。
 もっといえば、わたしが一人となど言うことなんか所詮高が知れているところがある。
 いったい誰が何をどうやって一人になどなれるものか、と思っているんだ。
 なれないよ。
 だから一人を恐れるひとをどこかわたしは可笑しく感じてしまうんだ。
 失ってはならないものなど何一つとしてない。
 
 でもわたしはどこかで人から来るものに煮詰まってしまって、飽きてしまって、もうたくさんだ、という思いから、
 自分と同じくらいのものを求める気持ちになっていた。
 そうしたら、いつがそうとは知れず、彼がそこにいたんだ。

 美容師さんのお母さんがお金に頼りがない、という話から、
 わたしはわたしの心配には及ばない、という気持ちを親や祖母に対して、どこか持て余し気味に抱えてきたけど、
 世の中には子の心配をする親じゃなくて、
 子に心配させる親もいるんだものな、と思う。

 心配は自分のものだ。
 相手のものじゃない。
 わたしはそこにどうしても譲れない気持ちがある。
 それをなぜ愛と言わないのか、それをなぜあなたなら大丈夫だと言えないのか、それをなぜ心配だなどと言ってしまうのか。

 不安とは、どこまでいっても、自分のものだ。
 相手のものじゃない。
 相手のせいにできる類のものじゃない。
 相手のせいにしているようでは、自分が自分の邪魔をしている。

 自分で自分の邪魔をしているのにすぎない。

 自分を愛することを慢心や過ぎたるものと捉えてしまうような病気/風潮からは、どこかで決別しなければならない。
 自分から決別しなければならない。
 相手の出方を待っていても無駄なんだ。
 相手、そんなものは詰まるところ、いやしない。

 どこかですべてが、あべこべだ。
 
 いったい彼とどうなるの?と言われたらわたしはちょっと困ってしまうんだ。
 わからない。

 と笑い飛ばしてしまう。
 どうなりたいの?と言われたらどこかまだ。

 そんなことなんでおまえに言わなあかんねん、とちょっと眉尻をあげてしまうところがある。
 おまえに言うくらいならとっくに、わたしは、もう。

しんだこと かんしゃ しているよ

 来るんなら殺す気で来いよ、と思っている。
 わたしは容赦しない、容赦するような身分じゃないと思っているから。
 容赦しないことを誠実さだと考えているから。
 ここは、考え違いをしているんだから、というニュアンスもある。
 
 子どもだった弟が阪神野田駅の線路へと落ちる。
 目を瞑りながらホームぎりぎりを歩くゲームをしていた。わたしもしていた。
 弟は落ちた。
 お母さんが悲鳴を上げ、そのへんにいたスーツ姿の男のひとが弟を引っ張りあげてくれていた。
 わたしは後ろから、ちょっと息を呑むような思いで、それを凝視していた。
 いま起きたことを、理解しようとしてじっと見つめていた。
 わたしは落ちられない、ということがわかった。
 それはどこか、痛みにも似ていた。
 弟は落ちることができる。
 わたしはとても落ちられない、それはどこか、敗北感にも似た青ざめた、痛切に突き刺さるような実感だった。
 たった、こんな駅のホームからさえも。

 弟に子どもがいる。
 生まれてすぐ、例によってわたしは生年月日を足してみる。
 22だ。
 なるほど、と嬉しく感じた。
 それなら、いずれまた会おう、と思った。 
 おばあちゃんの通夜で会うと、明後日六歳になるんだという。
 棺桶に死者へのメッセージを入れて焼くことができます、とメッセージカードが配られてくる。
 わたしはその甥っ子が手で隠すように熱心に書いているところへ、
 見せて、とちょっと弾むような挑む調子でいうと、
 つと眼鏡をかけた顔を上げて、いいよ、と彼も元気よく答える。
 そこに書かれていた文字がこうだ、
「しんだこと
 かんしゃ
 しているよ」
 いや、すっごいな。
 わたしは嬉しくなるくらい感心して、賢いねって叫ぶ。
 賢いってこと知ってたで、と彼の目を覗きこんでいうの。
 
 

殺さずに殺す方法を考え中。

 言葉は二重に響かせなければ、一重では捉えきれなくてふらふらする、ということを思った。
 このことを、どうしても言葉は裏切る、あらかじめ矛盾する、言葉では言い表せないものがある、とわたしは感じていた。
 二重にしなきゃ終わることなくメビウスの輪を回り続けることになる、自分がそうしているとも気づかず、どこかそうであることを気づきながら打つ手もなく。
 
 わたしは言葉を二重に響かせる。
 三重、四重ということもある。
 そうして安定感と、重なり合った和音の響きを楽しむ。

 どこかふざけたような余白、遊びを残しておかないと、詰まる。
 彼らは一重を拾って響く。
 そして勝手に崖から転がり落ちる。
 わたしは落ちない。
 
 公衆の面前で汚らしくオナニーをしているやつ。 
 あんなもの痴漢と変わりない、とわたしがいう。
 触られたんですか、というから、身体に触るだけが痴漢じゃないやろ、と返す。
 また別のひとにも同じようなことを言ったら、
 いまにはじまったことじゃないやろ、と返ってくる。
 いや、
 いまにはじまったことじゃない、だから何。
 いつはじまって、なぜいまもそうしているの。
 そんなありきたりな逃げ口上で、わかったふうな口をきくおまえはなんや。
 とちょっと向かう相手を変えたかのように向き直る。
 いわば、物騒で後先のないことだが、喧嘩に備えた小手調べをしていた。
 
 負ける喧嘩はできないし、相手を負かすことは自分に負けているようでいやだ、などと生温いことを言うのはやめだ、
 喧嘩上等だ、と思い決めていた、勝手に。
 だいたい、復讐だとか、仕返しだとか、思っている時点で甘いんだよ。 
 それは単に喧嘩でいい。
 人殺しもできないようなやつが、人殺しに勝てることはない。
 絶対に勝てないんだよ。
 だからって実際に殺せというわけじゃない、覚悟の問題なんだよ、
 人を殺しちゃうやつは覚悟を決めているようでそうじゃない、
 あれは単に喧嘩に勝ちに行っているだけ、
 そうして、勝つことで自分に負けている。
 
 自分に負ければいいんだ、と思った。
 上等じゃないか。
 自分に負けもできないやつが、何を言える。

 とはいえ、自分から唐突にふっかけるなんていう早まったことはやめにして、刃を鋭利に研ぎながら、機を伺うことにした。
 向こうからやってくる機を捉えて、一刀のもとに殺したら相手が負けを噛み締める時間もないだろうから、二刀目で必ずやる。
 こんな策でどうだろうか。
 誰にきいているんだろうか。
 周りの目もあるからな。

 あんな、公衆の面前で汚らしくオナニーをしているやつ、と罵っているとまわりがちょっと引く。
 その引きを実際の手応えとして量っている。
 これは、やつだけがそう、という話じゃないので実に物騒なんだ。

 下手したら周りが全部敵になっちゃうようなことに手を出している。
 まあ、下手にはやらないつもりだけど、
 わたしは100対1でもいく。
 死ににはいかない。
 自殺を相手に手伝ってもらうなんて、公衆の面前でオナニーをしているやつより罪深いものがある。
 そんなことはできないよな。

 

わたしは、心の神棚に「我」を祀っておく。

 わたしの心は豊かだ。
 わたしは豊かさと繋がっているから、環境や時代や周囲の人がどうであるかは関係がない。

 ここに齟齬がある。
 なんでそんなことで簡単に貧しくなれちゃうんだろう、と不思議だった。
 
 死にかけているひとの病床を訪れて、まだ与えられないことへの不平を言い、嘆いている姿を見て、
 自分でも実に説得力がないなという無力感と遠慮を感じながら、
 ほかにかける言葉も思いつかず、
 感謝できることを見つけるほうがいいってわたしはどこか躊躇いながら言うんだ。
 あなたはこんな病室、というけど、布団もある、屋根もある、空調もきいている、
 満たされているという感覚、いわば感謝の気持ちをもつかもたないかは、
 もう、自分の選択によるとしか、いいようがない。
 そしてどこまでいっても自分の選択から離れる、逃げるってことは、ただできない。

 そんなことはできないじゃんっていう心の悲痛な悲鳴、
 こういうのは、
 
 ほんとに逆なんだなあと思う。

 だから何を見ていようが自分の限界は自分で決めている。
 わたしが何を見ていようが、あなたが何を見ていようが、自分の限界は自分で決めている。
 そこは同じことだ。

 小学生や中学生で、いじめに遭っていて、そんなの相手にしなきゃいいんじゃん、なんて言われても、無理だ、できない、
 そんなのできないじゃんっていう追い詰められ方を、わたしは、
 いまにも死にそうなひとが「何を求めて」かは自分には推し量ることも躊躇われ、
 まして、相手の感じ方を自分が決めつけることなどもっと無理だと思えて、
 たじろいでしまって、
 そこでようやく理解するの。
 なるほど自殺するまで追いつめられるひとの心境は、こうもあるのかなと。
 
 あなたの求めていることは単に不可能だ、と宣言するくらいならその場を逃げ出したく思ってしまう。

 もしそれをするだけなら、わたしが、いまここ、に立ち会っている意味は果たしてあるんだろうか、と思うんだ。

 なぜわかってあげられないんだろう、という、怖いような泣きたいような気持になる。
 自分がすごく弱い人間だっていう気がしてしまうんだ。


 ネガティブに弱い。

 ネガティブなものに共感する気持ちを、保てないんだ。

 もっと大きなものになって、相手を丸呑みにして、叱りつけるくらいの器があれば、
 相手の全部を引き受けられるくらい、肚が座っていたら、覚悟ができていたなら、
 あのひとは安心して、それで治るものも治ったのかもしれない、
 と思うと、
 もうカルマだよな、どこか。

 忸怩たる気持ちを、忘れられずにいる。

 わたしが意気地ないんだ、という思いを忘れられずにいるんだ。

 治るも治らないも自分の選択の結果だ、という立場から離れることはできなかった。 
 わたしには何も他に言葉がない。

 感謝できないことへの共感はとても難しい。

 死のような圧倒的なイベントなら、なおさら。

 些細なことなら、言えるんだよ、おまえなんでそんな不味そうに飯を食べるの、感謝が足りんわ、とかなら。
 
 我を脱ぎたい。
 我はもうそれこそ、神棚にでも飾っておきたい。
 毎日わたしは、心の神棚に我を祀っておいて、それを脱いだまま過ごしたい。