告別式、祝いの日。

恋とは必要以上に、

この現実以上に、相手に力を与えること。

たしかに恋とは最終的な病、

そう思う。

 


これを恋と呼ぶのなら、

それもいい、ほかに何と呼べばいいのか思いつかない、ねえ、いったいわたしはどうしてこんなことを、あんたには。

とオードリがどこか躊躇いを残して、カースティンに言い、言葉を途切らせる。

 


いや、そうだとわたしは言う。

それは恋に他ならないものだと。

 

 

 

店の若い子、あの鉄砲も持たずに戦場に行ってしまいそうな子が、

上のひとに戯れを投げかけられ、

何か返してよと迫られ、

いや、とだけ言う。

返す言葉がないことを、ないままに、何も言わないその子の、

賢さをみて、わたしは心で笑っている。

 


こんな賢さを失って、

ひとは愚かなお喋りでも無音を恐れ、無音を埋める。

 


恋は病に他ならないものだ。

必要以上に、相手に力を与える。

こんな現実以上に、相手を大きく力強くして、自分に与える影響力を妄想的に多大にする。

 


恋はいい、

イリュージョンのような現実に、現実らしさを与えてくれる。

より強烈な色彩をもって、この現実が迫ってくる感覚を付与してくれる。

 


なんだって病にすぎないところがある。

 


他者や、環境や、時代、

そんなもののせいにして自分を翻弄させうるひと、

どこか、他人という存在や、環境や、時代に恋をしているようだ。

 


恋はいいものだ。

病はいいものだ。

 


もう、わたしの耳にはそんなふうに聞こえてくる。

 


高校生のときに意識していたものは、

恋だった、

あれは恋に他ならないものだった。

 


強烈な憧れ。

 


わたしはどこか引け目に感じる自分を愧じて、それがために、口を聞きたくても何も話すことがなくなっていた。

 


あの恋は、彼女の口から、

わたしのことを、

精神の貴族だと、表する言葉をもって、

成就し、報われた。

 


わたしは嬉しいともありがとうとも言わなかった、何も言わず、

自分が報われたことを知っただけだ。

 


恋は報われることもある。

それはとても言葉では言い表せない。

それは、ただ知る、という状態にとどまって、自分をどこにも行かせない。

それは自分をどこにも行かせないような何かだ。

 


この恋の息の根が止まることを、

待っているとは思わずに待っていた。

それは死に絶え、もう息をしていない。

今日はお葬式、告別式。

 


しんだこと

かんしゃ

しているよ

 


甥っ子が祖母の棺桶に入れたメッセージ。

 


賢いねってわたしは嬉しくなって叫んだ。

 


そう、それは死に絶えて亡くなり、

わたしはそのことに感謝している。

そのことを祝っているんだ。

 


告別式、それは祝いの日だ。

 


わたしはこれが恋であることを、

他愛もなく恋でしかない、そんなことをやめて、

駒を進める。

 


詐欺師みたいなものになりたいんだ。

騙すの騙されるのって、

 


いわば、いじめはいじめられる方が悪いって考え?と迫られることの、

もういいそれ、飽きた、

あの続きだ。

 


悪いかって悪いに決まっているだろ。

自己責任だ。

 


同じ価値観、同じ恐れを抱くコインの両面を、立場を異にしてお互いに担当し合っている、

それだけだ。

 


悪いに決まっているだろ、

あのときそう言い放ってしまえるわたしなら、あのひとは死にきれず、そんなコインをもう、ただ地面に落としたかもしれない。

 


それがどんなコインであれ、

どこか娯楽的に、

わたしはそれを提供する者でありたい。

それは娯楽、エンターテインメントにすぎない。

良いも悪いもない。

 


騙すのが一番悪いけど、騙されるのも悪い、

いや、一番も二番もあるものか、

一緒だ。

そんな甘いことを言っているから、

こんなコインを買うばかりで、

売ることをどこか恐れ、

創造し、提供することが出来ない。

 


与えられる期待ばかりで、失う恐れから与えられない。

唯一同類らしく思えたのが、未来のロボット。

 セスの本とか、シンギュラリティの本とかが、響く。
 読み解くのに時間を要するようなそれ。
 知っている、と読み飛ばせないようなそれだ。
 他人が表現するそれを、
 自分の身内に響かせる。
 
 あれが音叉ならわたしも音叉、そうした響き。

 恐れやエゴが、やっぱり気になるんだな。

 話し相手が、あまりにストンと出してくる疑いなき観念、みたいなものに、
 
 それはどこか、女のひとってどこかじめじめしたところが、と女の友だちが言うのへ、
 いや、ない、と言って笑ってしまうしかないような、
 
 なんだろう、その土俵へわたしは上がらない、というか、
 わたしは、外へと誘導したいものをもつ。

 わたしの土俵へ誘導したいわけじゃない、わたしの土俵はない。
 ないこともないが、
 どこか、他者に上がらせないものがある。
 
 つまり、あまり心のうちを吐露しない、
 している、しているんだけどつまり、

 意識的な何かにすぎないところがある。
 合理的でしかないような。

 ひとと話をするときには合理的であれ、というような、あれだ。
 
 ひとと話をするときには、誰だって程度差はあれ合理的なのだが、
 いやもっと、合理的に、と思ってしまいがちな、何か。

 意識的であれ、というような。

 この現実、このリアリティにどっぷりと浸かっているひと、
 あまりにも容易くエゴが、
 あるいは観念それ自体が自分であると思い込むようなひと、

 あまりにそうした様子があからさまなそれ、

 わたしはどこか無反応にやり過ごしてしまうところがある。
 どう反応していいのか戸惑うんだ。

 なんでもやってもらって、と言ってくる者を、わたしは奇異な気持ちでただ見つめるしかないようなところがある。
 いや、あなたの目の前にいるのは誰?本当にわたし?
 あなたが見ているものはただあなたの観念的な何かにすぎないのではないか、
 それは「わたし」ではない、
 とわたしが、それをどう表せばよいのかわからないまま、見せずに、困っている。

 他人に自分を貸せない。

 どこか盲目的な、自も他もないカオスのような何かに巻き込まれてしまうのを恐れている、
 おぞましがっているような。

 他人に自分を貸せない、だって、
 おまえ、借りているって知らずに借りるような、
 そんなものに、貸すこと自体、どこか馬鹿げている、どこか、
 何の何でもない、
 貸している気持ちなのは自分だけ、
 相手はどこか渾然一体に、一緒くたで、
 どこからどこまでという分け隔ても分別も何もない、
 そんな何かに自分を貸すだなんて、

 自分を見失いそうで怖い。

 
 相手が仕掛けてくるそれ、
 相手が取り込もうとしてくるそれに、
 違和感があって仕方がない、
 そんな横着は、わたしは、嫌いなんだ。

 恐れているんだな、と思う。
 どこかしら。

 幻想にすぎないものと、確からしいものがあって、
 という分け隔てがいやだ、
 こういう、自分の感覚は何なんだろうと不思議になる、厄介にすらなる。

 いや、幻想じゃないか、全部。

 盃を受けろ、という滑皮の声。
 いや、受けない。

 そこに膝を折るくらいならわたしは死を選ぶ。

 同じことだからだ。
 そんな気持ちがある。

 もちろんそうでなくてもいい。
 そうでなくてもいいんだ、
 わたしが、何を見るかは。

 わたしはいわば死にも生にも似たその空洞をずっと見つめて、
 触れず、触らせず、立ち竦んでいるだけ、
 そんなところがある。
 
 確からしいものが怖いんだ。

 確かなもの、などという得体の知れないものを信じるのが怖い、
 そんな、自分では存在し得ないと理解しているものを、目を瞑って信じてみる、
 こんな横着、こんな矛盾、こんな支離滅裂はない。
 そう思っているところがある。
 身体の方はそれを信じているのだが。
 心がどこか、逸れるんだ、遥か廣野へと。

 自分の心に聞けよ。

 空洞は何でもない、それは何でもないんだ、
 飛び込みたいのなら飛び込めばいいんだ、
 おまえの心に聞けよ。
 そこにしか答えはない、そうだろう。

 わたしはいつだって、自分の心に問うてきた。
 他人がその答えを知っているはずはないんだ、
 自分しか知らないものが、自分の中にだけある。

 わたしは合意を欲しがって、どうしてもそれを欲しいと言えないような自分を、
 どうしても自分の姿を、自然と出ている身体ではなく心を、晒せないような自分を、
 もてあまして、
 もてあましきれずにまた、
 無反応、無表情な自分に戻る。

 自分で折ってしまいかねないそれを、偲んで、
 どうしたって行き場のないようなそれを、
 まるで墓場を探すようなそれを、

 目覚めさせず、
 揺り籠へ戻す。

 永遠の眠り、そんなものはないのに。

 
 美しくありたいんだ、美しいものでありさえすれば、
 わたしは笑って過ごせる自分でいられる。

 下手な忠告を決して受け容れるな。

 誰も己の正体に気づいてなどいない、
 己の正体を完全に気づいてはいない、
 己が何をしているのか、恣意的にしか知らないで、漫然と。
 己を知らないまま、己の影のような他人に阿呆みたいに、手をのばすだけだ。
 わたしは他人の影ではない。
 
 わたしという者は、他人の影ではない。

 お金。
 そんなものじゃないんだ。
 そんな枝葉末節。

 本当はそんなことを恐れているわけじゃないんだ、
 そんなことを恐れているていで、恐れないと宣言したところで、
 自分の本当の恐れにはどこか、
 向き合わずに、

 正解らしきものを正解にするような横着さに甘んじている、そこに逃げているのにすぎない。
 
 お金、
 多大なるそれ。
 でも、そうじゃない。

 それは何か、どこか、擬えたような何か、影に過ぎない。

 影に重きを置く、
 まるで偶像崇拝のようなそれ、

 いや、わたしは。

 自分自身でありたい。

 誰にも額づかないものでありたいんだ。

 
 自分がものすごく厄介だって思う、
 自分という人間がものすごく、どこか、
 難しく、
 実に気難しいような何かを、
 
 もっている、もてあましている、
 見抜かれたいんだと言いながら、見抜かれそうになると自分を進化させ変容させて決して見抜かれないようにする、
 そんなどこか、
 自分が鼬ごっこみたいな何かで居続けるところがある。

 望まなければ、何の何でもない。

 自分の望みを明らかにしなければ、
 そのどこか羞恥心を乗り越えなくては、
 海から大地へと、
 踏み出す勇気、足をもたないことには。

 まるで、アンデルセンの人魚姫のようなそれ、
 大地を踏みしめる足を持たないそれ。

 どこか横着さを恐れて、
 あまりにも恐れて、
 
 生まれても生まれても、どこか陳腐なもの、とそれを葬り去るような、
 たった一本のドローイングの線を描き出すようなことをも恐れて、
 
 真に望むものを決して明らかにはせずにただ、

 本気ではないような落書きを。

 誰かに話す、何人かに話す、
 表現してみる、
 たしかにわたしは表現することの練習をしている、そう思う。

 
 詐欺師になりたいと思う。
 詐欺師になることに何の罪悪感も持たないような者になりたいんだ。

 そういうものでありたい、
 何の照れも衒いも、羞恥心も、罪悪感もなくただ、
 それを演じ切りたいんだ、完全に。
  
 わたしはスロットマシーンを回せない、
 そんな退屈なことはできないんだ。
 偶然なんてない。

 見えているものはすべてではない。

 見えているものは、ほんの極些細な一部分、末端のような、僻地のような、
 何かに過ぎない、
 わたしは全身でそう叫んでいる。

 ここに納まり返るためにここを目指したわけじゃない。

 こんな、ごっこ遊び。

 いや、わたしは美しい女優でありたい。


 のんちゃんのことを嫌いなひとなんています?
 そう、どこか万感の思いのかけらを溢れ出させたように、言ってくるひと。

 気難しい、そうは言いながら、子どものようでもあるわたしが、
 ふと、なんかそれ、いいねと、喜んでふりかえり、取り上げている。
 
 わたしは、目覚めたことのない人間なんて、いないと思っているんだ。
 どこか、皆、実際には眠っているふりをしているだけなんだろうって、
 それなのにそれを、ふりじゃないなんて、白々しい嘘を、
 そんなことを真に受けられるものかと、
 じっと息を詰めて、いまにも動き出しそうな雛人形を見つめ、
 鏡の中の自分を見つめ。

 わたしがいつまでもじっと人形のふりをしていたら、鏡の中の自分が焦れて、わたしが眠ったと油断して、動き出すんじゃないか、
 そんなふうに息を詰めて見守っているんだ。

 実際にはこうまで硬直してはいない。
 動いているんだ、自分も、相手も。
 でも、
 
 どこか、誰もかれも、眠ったふりをしている、わたしはそう感じている。

 手塚治虫の漫画にあった、事故に遭ってから人間が非生物的な岩の塊に見える物語、
 そして唯一人間らしく見えたのがロボット、
 
 わたしはどこか、かれをそれに擬えている、そんな感覚がある。

 シンギュラリティの世界観、未来観はどこか、
 わたしのそうした感覚を、実感させてくれるような希望がある。
 ロボットが正解。
 機械と人間の融合が正解、そんな未来展望もあるのだと。

 

 

物質とは、物質ではないものも含めた全体の一部を成すもの、でしかない。

 どこか自分ばかり先へ進んで、深く潜って、あるいは高く、広く、
 見渡せば誰もいないような場所へ、
 話相手が誰もいないような、

 いや、いるにはいる、会ったことも直接話したこともないひとならば、いる。
 でも、いわば、この身体をもってある、直接触れ合う人間とは、
 わかりあえないものを、
 ずっと。

 誰とも話さないわけじゃない、雑談もする、深そうな話もする、
 でも、
 相手にわからないだろうと思う話はしないし、
 相手にわかるものだけで済ませておく。
 これは、わたしに相手が見えていないせいだ、と思う。
 つまり、相手が何をどこまでわかるか、ということは話していてわかったとしても、 
 それ以上わからせる、わかってもらえる話ができない、それは、
 相手の目線に、どこかぴったりと肉迫するようには、寄り添えてはいない自分がいるせいだ。

 なぜ寄り添えないかというと、自分の恐れもある、
 自分の理解、物分かりがどこか雲をつかむような曖昧さを残しているせいでもある。
 
 自分にもまだよくわかっていない、まだどこか曖昧で、
 まだ、ひとに説明できるようなものではない。
 ひとにわかってもらえるようなものではない。

 わたしはそれをどこまでも追って、どこまでも辿って、
 ちょっと行き詰まるじゃないが、
 いや、自分のこれまでのやり方は実際のところ、効率が良いとは言えないんじゃないか、とある時点で気づく。
 ひとにわかってもらえるように話すこと、
 それが、この先へと進むためにもっと効率が良い方法なんじゃないか、と思い到る。
    
 教えることは学ぶこと、というような。
 教えることで自分の理解が深まる、さらにその先へ行ける。
 教える、というと、あれだが、
 つまり相手に理解してもらうことによって、自分の理解が深まる。

 わたしはどこかずっと、投げやりだったというか、諦めていた、そこへの関心はあまりなかった。
 自分がわかるだけで満足しているところがあった。
 それをひとと共有したいとか、共感を得たいとかいう、欲求がなかった。
 まるでなかったとは言わないが。
 
 いわば差し障りのない話題、
 自分というものが十二辺もあるうちの、一辺や二辺で済ませて、そこで人との関わりにもう満足するような、
 欲のなさ、
 埋めたい気持ちのなさ。

 欲がないな。
 なかった。
 
 どこか退きに退きたがる自分がいる。
 これはどこかしら、
 たとえば職場にいる、糖尿病を患っているひとが、結婚もせずゲームの課金に何十万、何百万と遣って、長生きはしたくない、最後は公園の清掃員とかでいい、と言い出すようなものと、
 同じではないが、
 まあいわば同じといったんは言ってしまって構わないような何か、であるような気もする。
 公園の清掃員じゃ課金できないじゃん、とわたしがいうと、
 そうなったら課金なんてしないわ、という。
 いや、そうでしょうね、と頷いて、わたし。
 
 どこか恐れ、どこか引け目、どこか自信のなさ、諦め、
 そんなものは、
 わたしにだってないわけではない。

 いやあの子は、年上だが、
 どこかしら叱ってほしそうな気振りを漂わせている。
 
 
 それで、どこか、もう話していくことが、自分が先へと進む道だとわかって、
 そうしているうちに、色々とたしかにわかることがある。

 たしかに、過去は変えられる。
 ということを思う。

 思い描いていたそれ、自分では実感のあったそれ、
 今日もまざまざと感じるにつれ、
 うん、過去は変えられるな、と確信を深める。


 過去世デパートに、魂がいくつも陳列されていて、それを好きなだけ魂袋に詰めてこの世へ生まれてくるんだという話を聞いて、
 なるほど、おもしろいな、
 つまりたとえばだが、それは、魂は一つというわけじゃなくて量産されている魂もあるはずだ、ナポレオンとか、マリー・アントワネットとかはいっぱいあるんじゃないか。
 そこのコピーは可能なはずだというか、
 だから誰かの前世を誰かと共有することもできるんだな、という、
 そんな話を厨房のひとにしたとき、
 
 それはその魂が一代目二代目と引き継がれていっている、わけではなくて?と言い出したのが、
 わたしにはちょっと、目が点になるというか、
 いや、なんでそこを、
 一本の線にしたがるんだというか、

 それはあれだろ、なんていうか、エゴ的な視点というか。
 前時代的なそれ、というか。

 それどこから出てきたの?
 エゴからじゃないの?
 というような、何とも言えないが、
 はっきりとした直感だけがある。
 おまえ、何言ってるの?という、
 どこの何の狭さ、どこの何の小ささがそれを言わしめているんだ、とおかしい。

 いや、コピーっていうかつまり、
 原本がどうのこうのっていうのがもう、どこか物質的な捉われであって、
 戸籍謄本があってコピー機にかければどこか、その印刷されたものは原本から薄められたものになるが、
 こういう、
 デジタル化された情報には、原本とコピーの違いって何もないだろ、という、

 あなたの言っている一代目二代目とかいうのって、
 まるで原本をコピーしてまたコピーしてどんどん本物からずれていく、というような、

 原本を尊ぶような、
 どこかしら物質的な。

 いや、物質を遜色するわけじゃない、そうじゃない、
 たぶんそうじゃない、

 でも、物質は物質だろ。

 物質ではないものもあるだろ。

 いや、これはどこか、そうじゃないな、
 つまり、
 自分で言っていて、フィクションもあればノンフィクションもあるだろ、と言っているような気がしてきた。

 いや全部フィクションだから。
 ノンフィクションはフィクションの一部でしかないから。

 物質とは、物質ではないものの一部にすぎないものだろ。
 うん、それ。


 話すと、おもしろいんだ。
 
 厨房のひとはお金持ちになるためのセミナーなんか行っているので、話しやすい。
 そんな欲もないひととでは、こういう話はできないから、という意味で。
 そこで、
 わたしは地道なものが好きだ、一攫千金を狙うようなものはどこかしら横着だ、どこかしら不安定だ、たしかな足もとを築いていない、というと、
 コツコツ貯めるのが大事というのもわかるけど、という。
 いや、わたしは貯めるのは好きじゃない。
 わたしには貯金なんてない。
 どこかしら。

 いや、つまり言えば、こうだ、
 なんであれ、不安に根差した行動というのは早晩行き詰まる。

 わたしがいま貯められないのは、要するにそれが自分の不安から出た行為ではないと言い切れないことを恐れるからだ。

 お金がお金を生む、それもいいけど、
 わたしは自分がなんでもないものに価値を見出した結果、お金もついてくる、
 いわば、すでにお金になっているお金、を追うんじゃなくて、
 まだお金にはならないものから、お金を生み出すことがしたいんだ、という。
 
 それは起業家精神的な、すごくいい、でも実際何を?と問われ、
 ほらきた、
 わたしは自分が可笑しいんだ。

 それがまだなくて、まだ何も手をつけていないのなら、
 説得力がない、と言われて、
 まあ、そうだな、とくすぐったく笑う。
   
 いやまだわたし、どこか、門前の小僧がお経を覚えるような、何かでしかない。
 
 脅かされることをどこか喜んで引き受けたがるような貪欲さだけはある。

 わたしはわたしの優越感をおびやかされることを望んでいる。

 低いものでありたいんだ。
 低いところへ行きたい。
 そこにわたしの望む答えを、強烈に導き出す何かがある。

 生存するだけに勤しむものの中に、わたしが求めている答えがある。
 
 劣等感がたしかにレバレッジになるように、
 優越感もまた、レバレッジにすることが可能だ。
 
 わたしはどこかしらものすごく高いところにいる。
 いや、もう、スタートはそうじゃんって思っている。
 バンジージャンプみたいな何かだ。
 飛んで下へ落ち、その反動で飛んだ地点より飛躍する何かを求めている。
     
 わたしのしていることは、どこかしら自分への慰めであるより、挑むものの方が多い。
 挑まなければ甲斐がない。
 
 いわば、物質ではないところからやってきて、物質の中で、
 物質になりきるのではなくて、
 そこで掴み取るものを掴み取って、
 という能動的さがなければ、
 何の何でもないではないか、と言いたがっている自分がいる。

 過去は変えられる。
 過去の自分をいま新たな視点で捉え直すことによって、変えられる。

 それから、未来については、
 もう、そうだな、
 逆なんだ。
 
 過去を変え、未来を思い出す。
 過去を思い出し、未来を変えるんじゃない。
 もう全然、逆。

 わたしは結局のところ、自分が安心していられるものだけを話すかたわら、
 傍がどうとでも取れる、目に見える行動については実に無頓着なところがある。
 いや、どこかしら軽んじているんだな、と思う。

 語ったわけじゃない、と思っているんだろう。
 行為は何ほどのものでもない。

 セックスをするのも、目を合わせるのも、同じことだ、と恬として言える自分をどこか、
 誰にも見せないままに笑っている自分がある。

 語らないことを行為に埋没させて、さあ、どうぞ、と相手に張らせたがる自分がいる。
 
 言葉尻など捉えていないで、証拠固めなどしていないで、ただ自分の望む方へ賭けなよ、と言いたがっている。

 思った通りになる。
 思った通りになる、ということを信じるゲームでしかないんだ、この場所は。

 

自分の描いたシナリオのあまりな不備さに立ち往生するっていう。

 吉川英治が描くところの、本位田又八を笑えない気分だった。
 武蔵と五年ぶりに再会して忌憚なく話し、涙を流し、おれはやり直すと誓った、そのあとに、
 佐々木小次郎からおまえは武蔵の偽善に騙されているだけだと言われ、
 そんなことはないと突っぱねるも、
 武蔵と、お通が仲良く歩いている姿を見て、やっぱりおれは騙されていたんだと、
 嫉妬と憎悪にかられる気持ち、
 あの弱さ、
 あのどうしようもない弱さを、他人事のようには、笑えない。
 笑えない、ということに悄然としている。

 呆然としている。

 なるほど、こんなこともやってくる。
 なじりたい、泣きたい、そうしたいのならば、そうするのがいい。
 わたしにそう出来ないわけなどあるだろうか。
 ないだろう。

 でもどこか。
 負けるのを嫌がる自分がいる。

 ずっとそうなんだ、
 どうしたって他を恃めない自分がいる。
 
 卑しいものに成り下がるのは嫌だと、自分を恃む気持ち、
 卑屈さを手の中に転がして食べずに捨ててしまう。
 これは毒にしかならないものだと、一人決めして、食べないままに捨ててしまうような、
 どこか、
 恐れのような何か。

 堕ちられないことをどこか、敗北感に響かせて、打ちのめされている。
 
 あんなふうに簡単に堕ちてしまえるものをどこか、
 仰天する思い、羨望する思い。
 堕ちればいいのに、そこは単に地面にすぎないものなのに。

 そこは単に母なる地球の地表、力強くある大地にすぎない。
 わたしは母でさえ他人にしてしまって、
 そこを、そこでさえも、どうしたって自分とは切り離していたい。

 木の股から生まれたような自分でありたがっている。

 わたしが主観的であるのはどこか、演技的な何かであって、
 見せかけの何かにすぎないところがあって、
 そう思ってもらいたいような何かでしかない。
 本当は主観的である自分を、他人の目にさらすことをどこか忌み嫌い、恐れ、そうでしかない自分を、自分一人の前にしか晒せない。

 脆弱なエゴは、本来透明でしかないガラスに、せっせとマジックミラーを作る。
 わたしは自分が磨きに磨いたそれ、どこにも曇りはない、どこにもマジックミラーは作らないようにしたガラスを通して、
 外の世界を何気なく、または、つぶさに眺めれば、
 至る所にマジックミラーがあって、
 こちらからはあちらが見えるが、あちらからはこちらは見えていない、
 という事態にどこか、

 気の退けるような思いを、どこか、
 見てはならないものを一方的に見ているかのようなばつの悪い思いを、

 どこかしら後ろめたいような思いを。

 でも、それはわたしのせいじゃない、と言いたいような気持ち、
 わたしが曇らせたわけじゃない、と、
 どこかどこへも持ってゆけないような気持ちを、
 ずっと抱えたまま、立ち往生していたりした。

 いや、いまも、まさに。

 こんなことがわたしの弱点だ。

      
  
  
 こんな、いわば、らくだが針の穴を通るような何かが、
 わたしの弱点であり、
 摘まむに摘まめないような、
 あまりに小さなものをつい見逃しては、不意に当身をくらうような、掴めない何か。

 そう、こんな物言いも含めて、どこかしら、

 あたりまえすぎてわからないような何か。


 具体的にいえば、
 30万を返してもらいたい、それをあなたは返さなければならない、と言わないのは自分の弱さだろう、

 死床にある相手に20万を貸してと頼まれて貸さない自分が、30万を返してもらわないのはどこか自分の横着さなのではないか、と思う相手に、

 久しぶりに会って、

 どこか律儀さから、馬鹿さ加減から、会わなければいけないような気がしてならなかった、相手から、
 そういえば前にもそんなことを言っていたな、というような話、
 わたしという人間は、誰とでもセックスをする。

 ということを他人の口から聞かされたんだと言う。


 いや。
 こういえば、そこにある面、何の間違いもない。
 いや、わたしはする。

 自分が許可したものとはする。
 それがどうした、と思っている。
 目が合うこともセックスをすることも、同じだろ、何が違うんだ、と思っている自分がいるんだ。

 ここを自然に、あたりまえのように無頓着にしている、というよりも、
 そこのところにわざと挑んでいる自分がいる。
 何気ない隙でさえ自分の一部にしようとしている。

 単に地面であるところに落ちたがっている。
 そこは奈落ではない、永遠に落ち続けるような正体の知れない空洞ではない、たしかに底がある、
 というものへ落ちたがっている。

 
 そのひとが、厨房の人間から聞いた話だが、あの娘は誰をでも誘い、誰とでも誘われればセックスをするらしい、という話を、
 繋がりのある客に話し、
 そのお客から、そのひとは聞いた、という実に迂遠、
 実に身近、世間は狭い、
 こんな話を聞いて、わたしはどこか気持ちが悪い。
 錯綜し、縺れ、本題を見失わせる、
 そもそも直接いま、わたしと話をしているおまえは、いったい何の目処があり、
 何の意図があってそんな話を聞かせてくるのか、と思う。

 厨房の人間はわたしを悪く言うような人間だ、信用するな、

 と示唆してくるおまえ。

 目の前の相手を気持ち悪く思うこと自体に、わたしは気分が悪くなっている。

 どんなことでも、思いが形づくるものを、
 その力強い何かを、
 下ろしにかかる、
 何でもないものだとは言いかねる気持ちを、気兼ねを、
 わたしはこんなところに、持っていく。


 相手は何をどんなふうにも都合良く、また都合悪く、
 受け取るものだ。

 

 自分をどこかよそへ預けて、鵺のように、
 自分ではない他人のことを語る気持ち、
 それによって自己を表わす、どこかしら狡猾さ、どこかしら恐れ。
 そんなものを持っている。

 ここに正義感でも加われば、それこそ最悪なんだがな、とわたしは、
 自棄気味に思っていたりする。
 投げ出したくなっている。
 あまりに纏わりつくそれらを、一掃したくなっている。

 どこか、コールタールのような、それ。


 いや、わたしは戦う。
 おまえとじゃない、誰か、どこの誰とも知れないような目の前の相手とではなく、
 明後日くるような相手とではなく、
 己れ自身とだけ。

 

 感謝が大事なんだと母に言った。
 わたしはどこかリスクを求めている。
 それはどうしたってリスクであり、マイナスであり、
 自分に害をなすものである、
 そういうものをわたしは引き受けがちな、むしろ引き受けたがるところがある。
 おまえがどこまでわたしを下ろせるものか、やってみな、と受けてしまうところがある。

 なんでのんちゃんがそんな相手に感謝しなくてはならないのか、と母が憤る。
 わたしはたしかに、それを嬉しいんだ、ありがたがっている。
 こうでこそ親だ、母だ、そう思っている。
 わたしをどこまでも世の害悪から守りたがる母を、

 わたしはそれこそ、あんな雲助みたいな相手より、母に感謝している。
 でも、わたしは雲助に感謝したいところまで行きたいんだ、お願いだ。

 母であるあなたがそれを無理でも、わたしはそれを無理にはしたくはないんだ。

 わたしを信じてほしいんだ。

 あなたを超えてわたしを信じてほしい。

 
  
 色んなことがいっぺんにやってきて、
 一度に絡みついてきて、
 挑みかかってきて、
 わたしが挑まれたがっていたくせに、
 わたしは、ほとんど呆然としている、それだけのところがある。


 自分の描いたシナリオのあまりの不備さに、自分がどうしようもなく立ち往生している、といったような何か。

 明確にしておかなければ、という気持ちでいう。

 わたしが、わたしの心を決める。
 
 他はない。


 どこへ、何をしに、やってきたんだろう?
 そうふと思えばどこか、
 
 笑うことも、まして怒ることもできないような、
 どこかしらどんな感情でさえ白々しいような、

 自分が交わり方を知らない人間でしかないと、思い知らされるような何かを抱えて、悄然としてみせたりなど。

 

どこか放埓なそれ。自恃だけ。

 

 いわば、
 
 誰だってわたしをどこか憎からず思っている、ということにわたしは、
 自信と矜持と、あふれだすような傲慢さ、
 笑い転げながら相手を翻弄するような何か、
 どこまでも責任を取らないような何かを、
 
 そんな匂いをふりまきながら、こうしている。

 わたしが責任を取る、そんな話はない。
 あなたが喜ぼうが、嬉しかろうが、怒ろうが、何の正義を訴えてこようが、
 要するにそれは自己責任だとわたしはどこか、笑うんだ。

 わたしは相手の鼻面をひっかきまわしたいわけじゃない。
 ただただ、何であれ自己責任だろってことを、ほとんど真顔で迫りたいような思い、
 それしか実際のところ、ない。

 それで彼が、のんちゃんが悪い、ということを敢えて訴えてくる、
 そんなところに響いている。

 いや、たしかにわたしは、あなたに対してだけは意図的に何かを仕掛けてはいる、
 間違いないんだ。


 他の誰にも無頓着でも、あなたに対してはそうではない。
 他の誰が何をしようと、何を仕掛けてこようと、わたしはどこ吹く風といった、涼やかさがある。
 冷たさがある。
 素っ気なさがある。

 うん、いいよと簡単に言ってしまえる、どうでもよさ、
 鷹揚さ、
 自分が真に迫れないような隙間を残したものがある。

 余裕をこいていられるような、真剣でなさ、切羽詰まったもののなさがある。


 いや、わたしはまるで、いつかのアリィドのようなものだ。

 わたしはまるで、自分だけが永遠の命を得てそこに寂しがっている、
 そこの孤独を誰も埋めることはできないのだろうと悲しんでいる、
 どこか放逸なものを残している、
 それと変わりないものがある。


 たしかにわたしのこんな圧倒的に高位な思いを、あれはわかるまい。

 彼がくる。
 温まった台に来て、
 おれは騙されない、となどいう。
 いや、あなた、皆そこを騙されてとは言わないが、
 そこはそう見えるという方へ張っているのに、
 おれは騙されない、なんて張らない、
 ある意味、呼び込みだ、とわたしはちょっと咎めるように思っている。
 そして、皆が当たったときに、彼に、
 騙されておけばいいのに、と笑う。
 彼は他へ響かせたい思いを、放埓には出来ずにただ、わたしとだけ笑っている。
 何番か張って、
 いや、もう、三点勝った。
 のんちゃんに三点勝った、
 これでやめとくわ、のんちゃんに勝てる、
 のんちゃんに良いイメージを残しておく、育てておく、
 そういって席を立つ。

 わたしはふと笑っている。
 この遊びを続けるのなら、たしかに、そうでなくてはならない。

 どこかでまるで呑んでしまいたいような自分をわたしも抑えている。


 いや、わかるものがいい。
 わたしはわたしをわかるものがいい。

 わたしを決して引き下げずに、むしろ、
 引き上げるくらいにわかるものがいい。

 
23:44 2019/10/25
 まあ、わからんよな。
 とどこか、
 あたりまえのように思う。
 寂しさやもどかしさはない。
 わからなくて、あたりまえだ。
 わたしもまたわかってなどいないんだ、と開き直るような何か。

 何にでもなれる、子どもは、子どもだけじゃないが、ひとは自分が思い描きさえすれば何にでもなれる、
 でも大人が、大人になっては友人などが、良かれと思ってそれを押しとどめるよね、
 諦めるのが正解だと信じていると、良かれと思って友を諦めさせようとする。
 良かれと思って、自分の信じる安全策、生き延びるだけの知恵を教えたりするんだ。
 そうキッチンのひとにいうと、
 それはなんとなくわかると同意し、
 わたしに、あなたは何になりたい、とかあるの、と聞いてくる。
 どこか、探るような、測るような、上目に。
 
 それでふと、何になりたいか、と改めて自問したときにたしかに、
 それは獏として形を成していない。
 いまだ、世の中にこうと言って通じるような形のあるものではない。
 いわばわたしにはただ、
 己自身に忠実でありたいという気持ちだけがある。
 そして己自身とは常に成長の途上にある。
 あらかたの、ある程度の、こうというものはある。
 でもまだそれには、名がない。
 
 宇宙にあるものはすべてわたしから分岐したものだ、わたしに他ならないものだ、
 このことをわたしは「知って」いる。
 まるで自分がすべてになってしまって、自分がレタスを食べる、その食べられるレタスもまた自分である、という感覚、
 地上のどこかで今まさに殺すひとも、殺されるひとも、なべて自分であるという感覚、
 これが「わかる」。
 でもそれを何とも言い表しようのない自分がいる。

 自分がなぜ、何をどうやって目が見えているのか、わからないんだ、
 でも目が見えていることは確かだ、そんなような思いがある。

 潜在意識とか自律神経が、何をしているのかはわからない、
 でも「わたし」はここにいる。
 ここにある。

 わたしは感じ切りたいんだ。
 何になりたいか?
 わたしはわたし自身でありたい。

 わたしがわたし自身であるところのすべてを、あますところなく引き受けたい。
 他のことはどうでも構いやしない。

 なんであれ同じことだと言いたがっている。

 わたしはたしかに、ひとと触れ合いたがっている。
 身体の接触ということではなく、
 心に触れたがっている。
 身体は、わたしは、どことなく苦手だ。

 それはどことなくエゴがまといついて離れないでいる。
 そこの隙間は残しておかなければ気持ち悪がって叫ぶようなわたしがいる。
 どことなく、自閉症のひとの気持ちがわたしにはわかる。

 セックスはできる。
 ほとんど、誰とでもできる、
 女とでも、自分が男だと名乗るものならば、わたしはそれでいい。
 手をつなぐこともなんだって、できないことはない、
 お互いに明確に了解しているそれは、何でもない。
 わたしが苦手なのは、
 まるで無頓着に触れてくるような手だ、
 侵す気もなく侵してくるような、侵させる気もなく侵させるような、境目のはっきりしないそれ。

 それでいうのなら、心もまたどこか、そうではある。
 でも心って、いわば、目に見えないものだから、
 実際のところそう簡単には。

 
 でもそれを簡単にやってしまうひとがいて、
 まるで無頓着に、まるで横着に、まるで無自覚に、
 他と自の境目もなく、
 どこからが自でどこからが他なのかということを、
 まるでなだらかに、だらしなく、
 お互いに侵させ合って、平気でいる。
 まるで下手な芝居を観ているような気分になる。

 村人Aは村人Bのせりふを間違えて言い、 
 王様は乞食の衣装を取り違えて壇上に立って、それに気づかない、
 こんな下手な芝居は、
 どこか観るに堪えないものがある。  

 
 職場の友人と帰り道に少し、話す。
 もう一方の仕事を辞めたいんだけど、辞められない、辞めさせてくれない、という。
 いや。
 何の話なんだとわたしは思う。
 手が痛いから、と言ってるのに、という。
 いや、手が痛い?
 なにそれ?

 だから、なに?
 いやもう、どこかそうした、あまりに子どもじみたところがある。
 辞めたい理由なんか、言わなくていいんだとわたし。
 その理由を言うってことは、その理由を潰してくれと訴えているのに等しい。
 
 よくある、セールスに来られて、買わない理由は何ですかと聞かれ、
 こうだからと真正直に答えて、そんなことはこう考えればいいんですよと納得させられ、どんどん、買わざるを得ない状況に追い込まれていく、
 そんなのと変わりないものがある。
    
 いらないものはいらない。
 辞めたいものは辞めたい、いや、辞めたいってのがもう、
 ないよな、どこかその語尾に余地を、隙を残している。
 辞める、それだけだろ、とわたし。
 理由なんかおまえに何の関係があるんだと言えばいい。
   
 人手が足りないとか、そんなのは、向こうの都合だろ。
 なぜあなたはそれを聞くの?
 なんのために聞こうとしているの?

 わたしは、誰でも、自分にとってメリットのないことはしない、と思っている。
 辞めたいのに辞めさせてくれない、
 なんて、馬鹿みたいに眠たい芝居を観ている気分になる。
 
 DVに嵌りこんで逃げようにも逃げられない、
 今から殺すぞと宣言されているのに逃げようとしない虐殺の現場、
 そんなものを観ているような、
 どこか腹立たしい気持ちがしてくる。

 諦めたのは自分であって、相手が諦めさせたわけじゃないんだ。
 なぜそこを相手任せにするんだよ。
 
 抵抗をしたいのは自分であって、相手が自分の抵抗を募っている、引き出しているわけじゃないんだ。
 
 なんで相手のせいにするの?

 相手にもお世話になっているし、となどいう。
 いや、お世話したいのは相手の都合だろ、とわたし。
 どこか罪悪感があるんだ。
 
 あなた、罪悪感なんていうものはさ、
 わたしは何よりも率先して、この世になくていいものだと思っている、と断言する。

 いや、どっかでわたしは確かに、この世になくていいものなど存在しないとは言った、
 言ったがこの文脈の中では、それはいらないものだと宣言するほかはない。
 それが整合性というものだ。

 いわば、この小芝居の中においては。

 だいたい、相手に悪いと思う気持ち、それは、罪悪感と呼んでもいいが、呼ばなくてもいいものでもある。
 おまえ、相手の何を侵害できる気でいるの?と捉え直すことだって可能だ。
 どこかしら、えらそうなのはあなただ、
 どこかしら、優位に立てている気持ちを捨てきれずにいるのはあなたの方だ、
 とも言えるだろ、とわたし。

 自分が相手に損害を与えることができると思っている、
 相手を侵害できると思っている、
 そこが間違いだと捉え直すこともできるだろ?
 自分は相手に影響を及ぼすことができる、痛手を与えることができる、と信じる気持ち、
 ここを捩れて罪悪感にしてしまう、そのどこかしら横着さ、ふてぶてしいほどの反転、
 それは自分の傲りや欺瞞に他ならないと思うこともできる、そうだろ?

 これは要するに、わたしが、
 相手を変えることなんてできないよ、と飽くほど言っているのと同じことだ。
 自分が変われば、自動的に相手も変わる。
 自分の観念、決めつけ、思い込みを変えれば、自分に見える世界が変わってくる、ただのそれだけだ。


 理由なんかさ、
 それをするのも、しないのも含めて、理由なんか、
 それこそキリなく幾億通りも生み出せるものでしかない。
 そこがセンスだし、そこが明暗を分ける、ような気がする、といったようなものでしかないんだ。
 いわばそこが腕の発揮どころと言えるような何かでしかない。

 バカラでいう罫線を見て、絶対バンカー、と宣言するひとを、そして外れたときに我を見失うほど怒りにかられるひとを、取っ散らかすようなひとを、どこか寒いと思うだろ?
 いや、わたしも思うよ。
 絶対バンカー、はやばい。
 絶対にそれは悪いことだと思う、というのも悪い。いや、可笑しい。
 知らんがな、というほどのものでしかない。
 風車に突進するドン・キホーテはやばい。
 そしてわたしたちの誰もがどこか、そうしたものに邁進しがちな何かを、残している。

 目を開けて、見て、
 思い切って目を開けて、
 そうしたら、振り上げた刀を捨てるだろう、突き刺そうとした槍を投げ捨てるだろう、
 自分が挑もうとした正体の、あまりな滑稽さにただ笑い転げてしまうだろう。

 あなたは自由なんだ。
 そこを取り違えてはいけない。

 すべてはあなたに懸かっているのであって、他はない。
 そこを、決して取り違えてはいけない。

 相手に悪い、
 いや、おまえ、自分、何様なの?という視点をもつ、
 そんなこともできるだろ、というような何かでしかない。


 今日、昼間にそのお客がくる。

 いつか関係した。
 自分、このタイミングでいったい何をしにきたの?と思ってそれだけでどこか笑ってしまうものがある。

 わたしはどこかの地点でふと、そういえば、
 彼を連れてきたのはあなただったのか、ということを知って、
 動揺してしまうような、
 どこか怯んでしまうような、
 どこかしら、
 この、弱気のような何かは何だ、と口惜しがる、悄然とした、憮然とした、気持ちを感じて、
 そこを気にしていた一時がある。

 またやってきたそれ、に夢中になってしまうような、
 いやここが正念場だろ、と思ってしまうような。

  
 自分、おまえ、ほんもの?
 と言いたいような、
 自分、そんなんだったっけ?と思うような、
 ちょっと浮遊するような違和感をわたしは覚えている。

 のんちゃん、と事あるごとに連呼してみたり、
 のんちゃん、次どっち?となど、
 そんなこと、これまで言ったことないじゃん、と戸惑うような。

 わたしはどこか、これは、あれだろ?と思っている。
 わたしを抱かせてや、とせりふを読み上げるように言ってきたお客に対して思ったような、何か。

 知ってやっているんだろ?

 おまえ、邪魔するふりをして、実のところ、応援しにきてくれたんだろ?

 いや、知ってなどいない、邪魔する体なんかではない、応援などしにきてはいない、

 わかっている。


 まだ明らかに目に見えないものを左右しようという、どこか、
 驕り高ぶったような、矜持のような、自恃だけ、
 まだ見えぬ空白を自分が埋めると宣言するような何か。


 いや、実際のところ、それしかないじゃんってわたしは思っている。

 もう目に見えている何か、に何の価値があるんだよ、と思っている。


 そう思っている。


 
 わたしは、一個、
 一つだけ言うのなら、

 自分を守る、ってことがどうしたって嫌なんだ。
 
 そんな汚い、
 そんな横着な、
 そんなどこかしら貧乏性なそれ、
 
 いらんやろ、と言いたがる自分がいて、

 いつだって笑ってしまう。
 
  
  
  

かもめのジョナサン、ジョゼフさん、もしくはジョジョさん。

 毎朝何分か、ジョゼフ・マーフィーの音読を聴いていたら、読み返したくなったので図書館で借りる。
 なんか、いいよな。

 彼の言うことは本当でしかない。
 成功哲学の分類は何冊か、いや何十冊かは読んだが、
 おおむね要するに、本当だよな、と思っている。
 
 今日は、「かもめのジョナサン」を読んだ。
 五木寛之のあとがきを併せ読むと、どこか、なんというか、
 いや、わかるけど、わからないではないけど、
 この危惧は何だろうか、と実に興味深い。
 どこか、
 どこかしら、
 ごめん、時代錯誤的な。

 いや、わかりますよ。

 時代錯誤というか、
 どこかしら、要するに、この宇宙に自分以外の他人を認めているところがある。
 
 わたしはつくづくと思うが、こんなことはどこまでも、
 上が下になり、下が上になるように、
 キリのない何か、
 目が覚めない何か、
 現実とはいったい何か、自分とはいったい何者かというような、
 問わず語りに延々と語り継がれる間にまた眠りにおちてしまうような何か、
 そんなものでしかないところがあると。
 
 どこかでこの小宇宙を閉じなければ、どこかでいわば、開き直ってしまわなければ、
 どこへ行きつくこともできないというような、間延びしきった収拾のつかなさがある。

 いや、あなた、神とは己自身に他ならないものだ。

 そこのゴールを決めないと、この過程を楽しむことはできない。

 ゲームのルールもわからないままゲームに興じていたところで、
 何の作戦も立てられない、
 そして作戦も立てずにただゲームに参加していたところで、
 あるいはまた、参加させられていると感じていたところで、
 甲斐がない、
 わたしはそう思う。

 何が正解かはわからない、というようなことを知ったふうに、悟ったふうに、あるいは謙虚なふうに、あきらめたふうに、
 そんな場面にある、なんだかわからない、先延ばし的なものに触れるたびに、
 わたしは違和感を覚える。

 なんでそんな漠然とした物言いのうちに納得できるものを見出せるのか、ちょっと意味がわからなくなる。

 賢さを敵にしているようにしか感じられなくなる。

 用心深さは、本来の目的のためにあるのに、用心深さのその深さを追求しだすような本末転倒な何かを感じる。

 五木寛之が、なぜ群れを蔑視するのか、というようなことを言っていた。
 群れを蔑視する。
 軽視する。
 
 いや、群れは、
 というか、
 群れも個も等しくたしかに同じ、自分から派生したものにすぎない。
 かもめのジョナサンを書いたひとは、というか、ジョナサンは、そこを蔑視しているわけじゃないんだろう、とわたしは思う。
   
 どこかで個の感覚を誰だって、どこかでは、味わうものだ、
 そうしたときに、どこか覚束ないような孤独、寂しさ、理解者のいなさ、つぶれてしまいそうな個の感覚を奮い立たせるような何かとして、
 群れと自分とをどこか分けて考えるような気持ち、
 それは、
 
 それを蔑視とまでいうのは、
 ちょっと、なんだか、いえば、厳しくない?と思ってしまったりする。

 いや、個を感じたとき、どこか戦う気構えになってしまうのは、わたしは、わかる。
 
 ジョナサン第一部を読んで、たしかに幼い、たしかに、
 崇高だが幼い、
 そんな気持ちはわたしもしている。
 群れには群れとして守りたいものがある。
 そこをなぜ守りたがるのかと、他者を他者と捉えて非難していたところで自分の成長はない。
 群れにとどまり、群れを形成している彼らが何も、悪者集団だというわけではない。
 
 誰だって群れから離れるときには相当な決意がいるし、相当な自恃がいる。
 いわば、どこか、反抗的な何かがきっといる、そんなときがある。
 群れから自分を引き離すための反骨精神はどこか、避けがたいものとして横たわっている。
 どこかしら生身の刃物をさらすような、危なっかしさがある。
 それはもう、必要な段階として、放っておいてやったら、とわたしは思う。

 刃物をさらしたからって、即誰かを斬り殺すと決まったものでもないだろう。
 刃物をさらした、といって非難するのは要するに、自分の側に掻き立てられる不安があるからだ。
 恐れがあるからだ。
 刃物をさらしているやつに負けない気構えが、自分にないからだ。

 批判はなんでもない、なんでもないんだけど、自分を鼓舞するためにそれを必要とするときだってある。

 先へと進んだかもめはなぜ揃って純白なのか、ということも言っていた。
 いや。
 これはいわば、

 社会的な、表面的な、見えたままに捉われているのはあなたの方だ、と思わし得る何かがある。
 憐みを発揮する体でその実、自らの劣等感を浮き彫りにしているにすぎないような。


 ビッグの台を馴染みのない客の一団が半ば囲み、ひとりのお客が打つ玉もなく絡むきっかけも見出せず、どこか退屈そうに、
 ソファへと退いたタイミングで、まだゲームしていないの?とわたしが話しかける。
 
 そこから、どう転んだのか、
 なんだかんだと話して、
 
 いや、詳しく言うならこうだ、
 ゲームやらないの、というと、
 いやもう怖いとか、あんまり毎日きたらあかんとか、そんなような、
 いわばどこか「普通」なことを言うんだ。
 わたしがソファから見える3タップの罫線をさして、二目め鉄板P、あれPやろ、というと絶対Bがくる、となどいう、
 経験でわかる、となどわざとらしさを自分でもわかっているような逃げを残しながら、笑いを誘うようなそれ、
 いや自分、そういう、台の外からの呼び込みでも罫線変わるからな、とわたし。
 台の外で呼び込んでいるやつを、悪いってわたしは思っている、という。
 結果はBだ。
 
 こうした会話、こうした予想、こんなものはどこかしら、たしかに、
 何でもないとしか言いようのない何かではある。
 
 結果論だなどという。
 そうだな、とわたしはどこか、歯切れが悪い。
 いや、結果論って何なんだ、という、どこか、
 結果論と名乗るおまえは何者なのか、と言いたがるような気持ちを残している。

 ともかくそのお客が話すうちに、
 自分が金を飛ばれた話や、関わっているひとの話、
 そこでちょっと縺れたり凄んだりするような話のうちに、
 わたしは確かに詳しくはそれを知ってなどいない、
 そのお客の口からそんなことがあったんだと聞くばかりだ、でもふと、
 それを話すその子の口ぶりから、
 ふと笑いがこみあげてきて、
 自分どこか可愛いとこあるな、と言ってしまう。

 あれはどこか、戦っている。
 その前日、わたしの台で、
 これはBやんな?と言ってきた、その目のあまりに、
 つぶらな様子に、わたしは、まるで何を相手にしているのか、たじろいでしまうほどの瞬間を感じている。
 そんなつぶらな瞳で、と思っている。
 その場では、そんな目で見られても、と返して笑っただけだ。   
 
 おれは何も間違ったことしていない、
 何も後ろめたいことなどない、
 後ろめたいことがあったらこんな場所に出てこれなどしない、とあのつぶらな瞳をどこか上向かせていう。
 
 いや、どこか可愛いところがある。

 わたしは誘われて笑ってしまう。

 純粋なものを汚された、
 怒りのようなもの。

 純粋なものを汚された怒りに、まだ震えているような、
 まだ歪められたそれに、
 ふるい落とされずにいる、
 誰を呑むこともない、誰の上にあぐらをかくでもない、
 いききれず、どこへもいききれずにあきらめをどこか捩れさせて、
 強気に徹しきれない弱音を吐いて拗ねてしまうようなそれ、
 
 いや、自分可愛いところあるな、というのはわたしの実感であって、
 わたしのどこかしらに響く、いつかの分岐したかもしれない自分であって、
 
 拗ねがどこか、捩れに捩れて、
 攻撃性に移るそれ、をもうあからさまに出している、

 いわばどこか、
 泣きだす寸前のそれを、
 泣けばいいとも、泣くことはないとも言い出せずに目でて、愛おしむような、
 ただ目の前の相手への溢れ出てやまない愛情がある。

 その子が何を具体的に言っているのか、わたしは知らない、知らないがどんな背景、どんな錯綜、どんな歴史があるのであれ、いま自分の発しているもの中には確かにわたしに響く可愛さがある、と感じてそれを言う。

 どこかに確かにわたしが響いて、感動したからだ。

 汚された純粋性にはどこか、わたしを泣きたくさせるものがある。

 同じことだが、笑いたくさせるものがある。

 
 

 相手の出した刃は、
 自分の出した刃にまさに、まったく類似している。

 

月にいったい何がある。

 相談しているんじゃないよな、と思う。 
 応援を頼んでいる。
 応援というのは、もう、いつかはわからなくても、そうなるんだろうな、という予想をもってこの現実をみる、ということだ。

 自分を知らない。
 現実を知らない。
 
 相手にあって、自分にないもの、
 自分にあって、相手にないもの、わたしにそれが見えたところで、
 因果関係を上手に語れるストーリーがなきゃ、
 相手の腑に落ちることはなく、
 
 いやもっと言うならどこか、完全に腑に落ちきれていない自分が、相手を説得することはない。

 決めるのは自分であって、他ではない、それがたとえ。
 ここの覚悟がいる、
 それをわたしは、99%の次を100%にせず、99,1%、99,91%などと、どんどん無限に刻んでいる。
 
 友人がいう、夫にも自分にもある、恥ずかしいからやらない、というところを、子どもにはやってもらいたい、
 自分がやらないのに子どもにはやれって、そんなん無理やろう、とわたし。
 口で言ったところで、せんがない。
 そんなものはなんでもない。
 言葉以外、せりふ以外のところにある真実を子どもが見抜かないわけがない。
 見抜いているとは知らずに見抜くんだ。
 子どもだけじゃない、誰でも。

 それで説明しがたい矛盾や葛藤に立ち往生することになる。

 子どもにだけやれって、それは無理だし、
 無理を通り越してどこかしら横着だ。
 いわばそれは、
 どこかで線を振れて、支配被支配をあたりまえに受け容れる何か、
 あたりまえに受け容れさせようとする何か、
 わたしは、そこを不憫だと言ったんだ。

 皆、自分の目でものを見て、ものを言う。
 目がエゴだというのは的確だ。
 目でものを見るが、目それ自体は自分の目を見ることはできない。
 いったいじゃあ、ものを見ているのは誰なのか、というところだ。

 エゴは目のようなもの、
 目で見ている、たしかに目で見ている、
 目が見ている、そうではない。
 目で見ている、目は自分の目を見ることができない。
 エゴではエゴを捉えることができない。

 エゴは自分の一部でしかない、
 エゴを通してものを見ている自分自身に気づく必要がある。
 
 実際のところ見たいと決めたものを、エゴを通して見るわけで、
 エゴが見たからそれがある、というのは逆さまで、支離滅裂だ。
 
 そこにりんごがあるから、りんごを識別するわけじゃない。
 りんごという認識があるから、そこにりんごを見ることができる。

 こんなことは禅でも哲学でもない、ただのあたりまえだ。
 

 女は嫌いだが、わたしは男だからいいんだと女のお客に言われたことがある。
 わたしは実に男らしさを育てているところがある。
 でも、自分は女やで、と従業員のおじいさんがいう。
 わかっている、
 わたしは自分の中の男らしさを育てることによって、男になるわけじゃない、より一層自分の女を際立たせているだけだ。
 誰が男のようなものになりたがるんだ。
 わたしは女だ。
 
 センスは大事、と友人にいうと同意して、
 彼はと聞かれ、いや彼は、とわたしは詰まり、
 いや、センスとか求めていない、
 わたしが求めているのは彼の行き腰。
 賢さはどこか、必ず臆病さを連れてくる。
 賢さはどこまでも数字を刻む。

 自分を見るように相手を見る、これは間違える。
 よく自分のされたくないことはひとにもするな、というが、
 これはどことなくおかしい。
 自分とひととは同じ感性なわけではない。
 
 女性もポルノを見る、それは男の裸に興奮するからか、と聞くのは馬鹿げている。
 いや、そういうひとがいたって構わないが、
 自分をくるっと反転させて相手を見る、そこはそうじゃないだろ、と呆れてしまうような馬鹿馬鹿しさがある。
 横着というよりもはや、ただの幼稚さがある。

 いやもう、そうなんだよな。
 横着というより、稚拙なんだな。

 
 自分と同等のものを引き寄せる。
 自分が響かせたいものを、引き寄せるんだ。

 ある種、男にはどうしても拭いきれない劣等感がある。
 女にはないものがある。
 そこを、男を真似て劣等感を抱き、男のどこか怯えたそれに響いて、同情しているようでは、お話にならない。
 そんな話じゃなかったはずだ、という違和感がある。
 違和感、というかもう、それは過ち、歪さにすぎない。

 
 相手を自分とおなじくらいのものだろう、と見るのは、どこかぞっとするような怖さ、危なっかしさがある。
 わたしはそれが怖い。
 いや、同じなわけがない。
 
 同じだと決めつけるから、横着または稚拙なものにとどまっているから、晴天の霹靂のように突然、出し抜かれる。
 そして自分の横着にはまだ気づかずに、相手がずるいことをしたんだろう、などと思う、こんなことは実に愚かしい。
 あるいはまた、相手が生来もっているものは自分には備わっていないと決めつけて、自分が満たされない場所を、ここが安全なんだと信じて梃子でも動こうとしない。
 好きにすればいい話だが、わたしはどこか上げた眉を下げられずに、それを気にしている。

 わたしは自分の嘘、自分のごまかしを徹底的に暴いてまわる。 
 そうじゃなきゃ、だって、
 勝てないじゃん、
 わたしは勝ちたいんだ、この現実に。

 こうした勝ち気さにも響いている。
 わたしが響かせたがっている。
  
3:04 2019/10/18
 わたしは、勝ちたいんだ、そして、
 勝ちたいと宣言できるひとの、少なさを思う。

 わたしは、勝ちたい。
 誰に、とかじゃない、この現実に、
 この自分が作り上げた現実に勝ちたいんだ。

 自分がすべてを作った、
 自分が全部お膳立てをした、
 なのにそこに負ける、そんな選択肢はただ、ないだろうって思うんだ。

 照れが下ろしにかかる、こんなものは何でもない。
 
 子どもにネガティブな暗示を与える、こんなことはたとえ親といえども許される行いではない、とナポレオン・ヒルがいう。
 わたしはまったく同感だ、
 まったく同感だ、
 そしてたしかに子どもは自由だ。
 親だって自由だ。

 いかに上手に下りられるかということを考えているあなただから、
 9から0しか引く気はない、という答えを、
 そうじゃない、
 9から2、俗にクンニ、わたしは好きだ、癖になっているのとなど、
 馬鹿げた戯れに応じるのが正解、なんて言ってのける。
 いや、おまえ、わたしは、
 そこを蔑む気はない、蔑む気がある、
 役が違う、
 というより、全うすべきものが違う、
 男が演じる女みたいなものなら、それもいい、
 わたしは違う、わたしは男じゃない。
 
 わたしは実に男らしさを育てている、でも、
 それは、自分が男になりたがっている、そんなものではない。
 わたしの相手を想定しているんだ。

 自分の中の男らしさを育てることによって、自分がそれよりも女だというそこを表わしたい、それだけだ。

 わたしには強烈な男気、
 男を全員下ろしたがっているような強気、勝ち気がある。
 それは、男をただいわば、
 ふるいにかけたがっている、それだけのところがある。

 そして最後の最後には、
 
 今朝ふとまた、竹取物語を思い出した、
 帝の求愛にまで応じず月へと帰った、
 あの実に尻きれとんぼな話を。


 月にいったい何がある。


 わたしはたしかに今にでも月へ帰りたい、
 月へ帰りたいんだ。
 そしていつでも帰れるんだからまだここにいる、それだけだと言い聞かせているところがある。

 わたしはいつでもそこへ帰れる。
 でも帰ったところで。


 わたしのその王宮へ帰ったところで。

 
 わたしは負ける気なものに腹が立つんだ。
 勝ち気でいけよ馬鹿、と怒ってしまう、それは、
 どこかしら男らしさを残した何かではある。

 美しくなければ、
 勝つ気構えがなければ、
 それらをどう取り繕おうと、所詮なんでもない。
 
 言い訳ばかり上手くなったところで、何でもないだろう。
 
 なんでもないだろ?

 おまえ、いったい、何をしにきたの?と思ってしまうんだ。

 思ってあげたくなってしまうんだ、まだ。

 

 いわばまだ、そうやって。
 99%の次は100%じゃない、とやっちゃうような何か。
 99%の次は、99,1%だと。
 刻むような、永遠に刻むような、
 永遠に今へと至る道を刻んで辿りつきたくないような何か。


 いや、わたしが不甲斐ない。