カルマとか、ダルマとか、個とか、エアコン壊れていて暑いとか。

 今日は今年(2018年)一番の暑さらしいのだが、
 エアコンが壊れている。
 でも意外といける。
 ウィスキーの湯割りを飲んでさえ、いける。
 
 アマーリエの本(注*)の荒唐無稽さについて考えていた。

(*五次元文庫・「生きて意識ある地球はこうして生まれた」及び「ガイア その愛 その光」byアマーリエ)


 わたしは普段、荒唐無稽だなんて、言われることはあっても他人に対して言うことがない。
 だが荒唐無稽だと思う。
 そして確かに面白い物語だと思った。
 これはファンタジーだと思った。
 そして、およそファンタジーでないものなどはない。
 学校で習った歴史だって要するに物語だしファンタジーだ。
 だからこれは事実ですと主張するものはむしろ怪しい。
 怪しいというか違和感がある。
 事実ってそもそも何だよと思う。
 
 超古代には昆虫時代ともいうべき時があって、一、二メートルもあるようなトンボなどが飛び回っていた。
 とかいうのはいいんだけど(アマーリエより)、
 妖怪のくだりもいい(同)、でも、
 なんだろう、やっぱり、
 ブッダの失敗と、そこに絡むルシファー(同)っていうのが、
 ちょっと釈然としない、面白くない。
 闇の勢力とかいうのは、わたしは信じていない。
 集合意識として闇の勢力があるということならばわかる。
 そしてそれが実体を持ち出すというのもありうる話だと思う。
 
 今日読みはじめたのは、「大いなるひとつ」阿部敏郎・著。
 誰だそれ知らんけど、
 こういうのは、興奮しないけど、いいなと感じる。
 禅とか瞑想について。
 自我について。
 目覚めや悟り。
 カルマについてがなるほどと思えた。
 カルマっていうのは、カ、に時間という意味があって、
 要するに過去の痕跡である。
 ダルマというものがあって、これは完璧にいまここで流れている宇宙の法であると。
 人間以外の存在はダルマで生きている。
 わたしはこれを本能で生きていると表現したことがある。
 ところが人間はカルマを生み出せる。
 カルマっていうのは何も悪いことをしたから悪いことが返ってくる的な因果応報のことじゃないんだよとあって、
 そうなんだと思った。
 そうなんだ、と思ってネットで調べると、カルマについて色んな人が色んなことを言っているようである。
 でも、人間だけがそれを生み出せる、というのは、
 なるほどと思う。
 不調和を生み出せる。

 

 時間っていうのも、こう、表現するに難しいものがある。
 というのは、本来過去も未来もない、あるのは現在だけだ、とかいうのも、
 いや、だって、昨日は昨日だし、今日は今日だし、
 てなる。
 なりますね。
 実際わたしたちは、年を取って例外なく死ぬわけですから。
 個、というのも、どうにも表現するに難しいものがあり、それは時間を説明することの困難さに通ずるところがある。
 人間以外はカルマを生み出さない、というのは、
 人間以外明日の予定なんて立てないということでもある。
 カルマが悪いものというわけじゃない。
 明日の予定を立てるのが悪いことというわけじゃない。
 悪いとか良いとかそういうことじゃないんだな。
 
 中学生のときに真実とか正しいとかって何だろうなということを徹底的に考えていてね、という話をパパにすると、
 なんでそれを教えてくれる大人が周りにいなかったんだろうね、と残念そうに言われた。

 (パパってのは、わたしのお父さんじゃなくて、パトロンチックなものでもなくて(多分)、単なる愛称です。そういう人がいる)
 わたしはそれが癇に障ったんだけど、
 どうやら、そういうことについて話し合える人がなぜ身近にいなかったんだろうねという意味合いでもあったようだ。
 ま、それならいいか、と呑み込むこともできる。
 が、それを教えてくれる人が、ということを確かに最初は言った。
 いやだからさ、と思うの。
 そんなこと教えていらないんだっていう話をしているわけなの、
 なんでそこがどうしても伝わらないのか、本当に不思議になる。
 まあ、どう考えてもわたしの伝え方がよくないのだろうけど、
 独自の視点をいかに保つか、それはそもそも成立しうるものなのか、ということを考えたんだと思うの。
 独自の視点、独自の感じ方、というものが有る、ことは果たして〈ある〉のかと、
 そういうようなことを葛藤してたんだと思うわけ、当時。
 クオリアを証明することはできるのか、というか、
 当時クオリアなんて言葉は知らないけど、
 他人と共有し得ないものを存在させることができるのか、
 共有し得ないものは存在していると言えるのかと。
 結論から言えばそれは存在し得る。
 それは、存在するといえば存在し、存在しないといえば存在しない。
 つまり、存在すると思えばそれは存在する。
 だから他人のことは知らない。
 わたしのことしかそれはわからない、というか、こうだとは言えないようなことだ。
〈思う〉のは常に「わたし」であって、「あなた」ではない。
 これはわたしだけじゃなくて誰だってそうだ。
 でも思いもしないことは確かに存在しないんだな。
 発想にないことは決して実現しないということでもある。
 
 戻ると、〈独自の視点〉は、誰とも共有出来ないものであっても存在し得るのだろうか、ということを葛藤しているときに、
 他人に相談する、他人に問いたずねる、まして教えを乞う、ということは、
 もうまったくナンセンスじゃないか。
 いや、ここまで抽象化すると、いやそれは存在し得るよという答えを持って生きている人から、それはあるよ、と言われることはあるかもしれない。
 それで、なんだそうなんだ、と安心したかもしれない。
 でも、結局、自分が何を信じるかなんだよね。
 それでじゃあ、信じるってどういうことか、てことも考えた。
 信じるっていうのは、もう、それ以上でもそれ以下でもない。
 真実っていうのはそれ以上、是か否かを問わないことだ。
 毎回、毎瞬、こうだ、という決断をし続けるしかないようなことだ。
 でも今日読んだ本(「大いなるひとつ」)にもあったが、
 こういうことを確かに人間は無意識にしているので、
 自分が常に何かを取捨選択し、決断しているのだという自覚なしに、それをしているというところがあるので、
 つまりそれを言っても何のことだかわからない、という人がいるのだ。
 わたしにとってはそれが、それこそずっと不思議だったのだ、
 という話なのだった。
 
 わたしは癖として、全部自分でやりたい、というところがあって、
 他人の教えを乞うというのがどうにも苦手というか興味がないというか、
 自分で気づかなきゃ意味ないじゃんというところがある。
 でも、他人に教えてもらうことが出来る人って素晴らしいなとも思うわけ。 たとえば、
 携帯電話とかパソコンとか、いったいどういう仕組みになっているのか、わたしは知らないし大半の人は知らない、まして一からは作れないと思うんだけど、だからってある程度使いこなすことは出来るし、
 仕組みを理解してないくせに使う資格はない、なんてことはないじゃないですか。
 たとえば、これも極端だけど、日本語を発明、
 発明という言葉は実に不適切な気がするけど、
 わたしが日本語を翻案したわけじゃないが、だからってわたしは日本語を習い覚えてそれを使える、それのどこがいったい不都合かといえば、
 不都合なことは何もないとしか言い様がない。
 うん、だから、結局、
 自分で気づく楽しみ、といえばそれはそれで楽しいんだからいいじゃん、
 ということなんだけど、
 聞いた方が早いじゃんってことを、どうしても他人に教えてもらうことが嫌だ、というのは、単に我なんだろうなと思う。
 我、自我っていうのは不思議だなあと思う。
 わたしは、ちょっとたぶん変わった子供だったので、小学生に上がった頃だと思うけど、何々貸して、たとえば消しゴム貸して、とかを言えない子だった。
 そしてなんでこんな簡単なことが言えないのかなあ、と自分で訝しく思っていた。
 なんで皆そんな簡単に貸して、と言えるのかなあと驚嘆していた。
 そこに非難の意味合いはまったくない。
 むしろ、羨ましいくらいだった。
 こういうのは今思うに、自我の芽生え、みたいなことだったのではないか、と思う。
 今は貸して、なんて平気で言える。
 頂戴、はちょっとまだ苦手だ。
 こういうのも、変わっていく過程を楽しめたらいいなあと思ううちのひとつだ。

 

 なんだったかな、もっと戻ると、
 人間だけが不調和、つまりカルマを生み出せる。
 これは、
 すごいことだなあと思う。
 これはまったく今また思いついたことだけど、
 不調和がなければ、
 不調和という不安定要素がなければ、
 宇宙は停滞するんだと思う。
 わたしは、人間以外は、というか人間のカルマ以外は完璧だと思う。
 宇宙は完璧だし、猫だって植物だって完璧だ。
 不調和や、不自然がない。
 人間だってトータルでいえば完璧なんだと思う。
 だいたいそもそも完璧でないものなどあるはずがない。
 でも人間はそこに、果たしてそうなんだろうか、という、疑問というか葛藤というか、なにかを持ち込むよね。
 あるいはもっと良いものがあるんじゃないか、という欲を出す。
 わたしは欲自体は悪いものじゃないと思う、むしろ良いものだという考えだ。
 それは自我が悪いわけじゃない、という思いにも通ずる。
 欲が悪い、エゴは悪いっていうのは、
 行き過ぎが悪いというほどの意味なんだと思う。
 行き過ぎると、純粋な創造が、構築になっちゃうんだな。
 組織化になる。
 組織化を目指すというのは、目的と手段ということがあるが、
 手段が目的になる、という、あまりよろしくないものに執着することになる。
 行き過ぎると要するにインスピレーションが途絶えるんだ。
 前述の例えでいえば、無駄にカルマを増やすことになる。

 まあカルマってものは、なくてはならないもの、というかあるのが当たり前のもの、だけど無駄に増やすものじゃない。

 という、このへんで暑すぎて終わりにします。

 ただいまの室温、34.2度。

 エアコンの交換は四日後だ。

 生きてるかなあ、まあ生きてるだろうなあ。

 そもそも夏は暑いものだしね!

 というわけで皆さん、ご自愛を。