「インナーチャイルド」が気になる。
2ちゃん記事、今は5ちゃんなのか?の記事を読み、
日下由紀恵という人の本を読み、
〈インナーチャイルド〉なあ、と心許なげに呟くわたし。
記事の方は、
30歳までに子供を産みたい、過ぎたら自分としてはタイムアウト、とずっと思っていた女の人の相談みたいな感じ。
32歳になってから今まで煮え切らなかった、同棲している彼氏からプロポーズされて子供も二人ほしいって言われて今さら何それ嫌、と別れちゃうお話。
30歳って何の区切りなんだろう、誰か突っ込めや、と思っていたが、
なぜ29歳でもなく31歳でもなくただキリが良いというだけで30歳なのか、要するにもう、こういうこだわりというか理由っていうのは、
こうだから、ああだから、とか色々あるのかもしれないけど一言で言えば、「なぜでも」ということに尽きるんだろうなあ。
ソコにこだわっているようだけどソコじゃないんだろうな、という気がして、実にもどかしいような、気になるような感じで読み進めていたら、
結局30歳までに産みたいという自分の気持ちを、相手の男が尊重してくれなかったのを根に持っている。
子供を持ちたくない女もいるんだとか、そうしたことが理由で別れたいと言って彼氏は納得してくれるだろうかとか、道中本人が気に病んでいるのを、
誰かが「彼氏が納得するかどうかなんて関係あるの?」
と突っ込んでいて、
ああいうのだなあ、2ちゃんの面白さって。
独り言じゃなくて、レスポンスがあって、
そのレスポンスに「そうそうそれよ」と膝を打ったり、笑ったりしちゃうというこのちょっとしたライブ感。
わたしはそれをリアルタイムじゃなく何年後かに読んでいるわけだけど。
親子関係だけじゃなくて、友達とか近所の人とか先生とか、に何か言われて傷ついた子供、というのが、およそ誰の中にも潜んでいる可能性があって、
これがよく言われる「インナーチャイルド」。
子供のころだけじゃなくて大人になってもそれは蓄積されます。
上司に言われた嫌な一言とか、名も知らないような行きずりの人に不愉快な思いをしたとか。
傷ついたそのとき、わたしは傷ついた、と、
別に相手を責める必要はないんだけど、「わたしは傷ついた」と自分で認めて十分にそれを味わってあげられないと、その傷跡は癒されないまま残る。
「カルマとは過去の痕跡である」と、阿部敏郎という人が言っていたが、
まさにカルマが解消されないまま残る。
昨今親しい、癌で余命宣告されている人から、わたしに悪気がなくてもわたしの言動に傷つく人はいる、と言われるたびに、
わたしは正論を持ち出してしまうんだけど、
何かっていうと、
それは「傷つくか傷つかないかは自分だけが決められる」ってこと。
でも、ちょっと最近考えて、
わたしが言いたいのは、あなたは傷ついていないはずだ、ということではなかったが、
あなたは「傷つく」ことも「傷つかない」ことも自由である、
とかいうのも実は若干相手への言葉がけとして、ズレていたんだなと気づかされた。
むしろ、傷ついたのなら自分は傷ついたんだ、といったん認めることがカルマを無駄に増やさないためには必要なことなんだ。
そして、それを認めるために相手の承認が必要な人っているんだな。
自分が傷ついた、と認めるために、受け容れるために、
相手からの「傷つけてしまってごめんなさい」が必要な人がいる。
いらないけどな。
だから、なんていうか、「子供」というのもちょっと躊躇うけど、
でもなんか要は子供っぽい。
愛情不足で育った子供、とかいう、いや、わかりますよ、
わかるけど、
なんか抵抗あるんだなあ。なぜかなあ。
それがわかりやすいならもうそれでいいのかな、と思いつつ、
「それを言っちゃあ、おしまいだよ、のび太くん」的な、
なんだかなあ。
結局、刷り込まれた知識、教え込まれた常識、受け容れることにした足枷、があなたを縛っているのであって、
でもあなたにはそれを自分の決定の下でしたのだ、という自覚がまるでない。
というとき、実に困ったことになる。
わたしは子供みたいな繊細なもの怖いわ、とずっと思っていて、まあわりと、二十代中頃くらいまでだろうか、
子供に怯んでいたから、子供はちょっと、と思っていた。
でもそれはまあこの流れから言うと、わたしのインナーチャイルドが怯えていた、というか、
解消されないカルマがあったというか。
子供は確かに繊細だけど、でも待てよとあるとき思った。
子供だっていつまでも子供なわけじゃない。
確かに親がすべて、というときはある。
でもずっとそうなわけじゃない。
ずっとそうなわけじゃない、という気づきは、まさに自分だってそうじゃない、と思える瞬間に、肩の力が抜けるようにふと訪れる。
これは不思議だなと思うけど、たとえば金銭的には自立しているように見えても、
心はしっかり親に繋がれている、ということがある。
逆に金銭的には親の財産の恩恵を受けているとか、金銭的な補助を受けているとしても、心はそうじゃない、という場合だってあるのだろう。
これは別の記事で、遠距離の彼氏がいるのに妻子持ちの男と関係しちゃって、その男に執着され支配されてしまう女性、というのも読んだ。
皆がそれこそ気炎あげて「何やってんだよ!馬鹿にもほどがある」と息巻くのが面白かったが、
これなんか、「罪悪感を利用される」というケースで、
いやこれは、実際よくある話だよなあ、と笑い事ではない。
ここで個人的なことを言うとわたしは「脅される」のってほとんど一番嫌いだな、いや好きな人はいないだろうけど、
本当に怒りを覚える。
そして怒りを覚えない人が不思議でならない。
脅されて、恐怖を覚えて、屈服してしまう、という人が、
歯がゆくてならない。
そういえば、怒りについて、
わたしは怒る人が嫌いだ苦手だとずっと言ってきたのだが、
わたしだってもちろん怒りの感情はありますが、
それを相手にぶつけるという行為が苦手なのであって、怒りという感情自体が苦手というわけじゃない。
感情自体に苦手も糞もない。
怒りをぶつける、というのもどこか、ある意味、恐喝的だし、見方を変えれば相手からのSOSだとも思えるけど、
まあ要するにどっちであれわたしは苦手ですねん。
SOSも苦手。
いやそれだってこれだってコミュニケーションじゃん、といえばそうなんだけど、
いやなんか、なんだろうな、洗練されてなさが。
これはほとんど自分の弱点じゃないだろうか、という気がするほどだけど、
洗練されていないものが苦手だ。
もちろん自分の基準に照らしてなので、もっともっと洗練されていると言えるかもしれない人からすれば「いかにも泥臭いわたし」である可能性はあるのだが。
まあともかく、ただならぬ恐怖を覚えているときに、洗練も糞もない、怒りもない、という状態に陥ることは、わからないでもない。
そういえばそういう極限状態を体験した人の話って気になってよく読む。
ルワンダ関連とか、
ナチス支配下のユダヤ人のとか。
なんで逃げないのかな、と実にもどかしい。
いやだって、こうだからああだからという「逃げられない」事情、理由、あるいはそんな大事じゃない、「逃げるほどじゃない。大丈夫」だと思ったとか、
今あげた中で最後の、「大丈夫だと思った」というのは、一番厄介かもしれない。
いやもちろん大丈夫なら大丈夫でいいんだけれども。
夫婦とか彼氏彼女とかでも、別れられない理由を理由に別れられない、
というのは面白いなあと思う。
上から読んでも下から読んでも「新聞紙」みたいな表現になったが、
いや理由とか何でもいいじゃんねと思うんだよ。
理由は大事だ、わかる。
理由がなきゃ人間何も行動出来はしない。
〈バカラ〉に興ずるにしたって、罫線も見ずに張ることのいったい何が面白いだろうか。
理由は必要だが、理由の中身はどうでもいいってことなんだよ、わたしが言いたいのは。
これは経験上だけど、付き合っている人と別れようかなと思っていると、無意識に別れるに足る理由を探している。
でもふと馬鹿げていると思った。
こんなことに終点はない。
正しいはない。
「別れたほうがいい理由」と同じだけ「別れない方がいい理由」だって思いつくことが出来る。
あ、理由はどうでもいいことだ、要は、
「別れる」と決めるか決めないか、「別れない」と決めるか決めないか、
いったい「自分はどうしたいのか」、
ただそれだけのことだ、とつくづく思った。
いやもちろん、理由は大事だけどね。
この際大事っていうのは、
なんていうか、それが自分を行動へと刈り立てる原動力としてはね。
「自分がどうしたいのか」がわからないって、深刻だと思う。
そういえば、かれこれ二十年くらい前に、
「自分が望んだように現実はなる」のだが、
「自分が望みたいように望む、ことの困難さに唖然とする」
という経験があった。
わたしは今もこの驚愕を引きずっている、と思う。
その後「引き寄せの法則」の一連に出会って、
やっぱそうじゃんねと思いつつ、この不思議さに今も打たれている。
その不思議さとは、
人は無自覚であるというだけで何という不自由を託つことが出来るのだろうか、
ということでもあるし、
無自覚を自覚へと引き戻すためには、どうすればいいんだろうな、というずっと解けずにいる謎解きへの挑戦でもある。
無自覚って数字で言えばゼロみたいなものだと思う。
人間は見たいと思うもの、見ると決めたものだけを見る。
とすれば、
無自覚な状態からすれば、事象はゼロだ。
でも実際はゼロじゃない。
ゼロなんて自然界には存在しない。
ゼロを〈見る〉ことが出来るのは人間だけだ。
ゼロからふと立ち上がってくるもの、その違和感、その輪廻、その喜び、その興味、
その生命。
その謳い。