怒っている人が苦手。
「なぜ「怒る」のをやめられないのか」片田珠美・著。
嘘か真か、というようなことは、実際何でもないと思うんだ。
どうでもいい。
すべては主観に基づいているのであって、これは真実だ、とある人が感じていることを、わたしは到底真実とは思えない、ということは、
普通にある話だ。
じゃあ、わたしには到底真実と思えないから、そのある人は嘘を吐いているのかといえば、そういうわけじゃないでしょう。
例が極端かもしれないけど、わたしは幽霊を見たことはないが、
だからって幽霊を見えるという人が嘘を吐いているのだ、とは思わない。
というか、「こうして思考は現実になる」(パム・グラウト著)でも言及されていたように、
わたしが現実だと思っていることは、実際には現実の何パーセントかしか見ずに判断していることだ。
だから、
そんなの現実的じゃないじゃん、と「怒る」人っているが、
わたしはちょっとたじろいでしまう。
いやそもそも〈現実〉って唯一絶対みたいに言われても、あなたにとっての現実なんてわたしは知らないし。
つまり、〈現実〉というものを、個人的なものと捉えていない人がいることが、不思議だ。
さっきの、幽霊が見える、見えないの話なら、
わたしは見えないが、だからって相手を嘘吐きだとは思わないし、
かといって、見えないわたしはおかしいのだろうか、と悩んだりもしない。
人それぞれ、見えているものが違うんだなと思うだけだ。
あなたにとっての真実が、わたしにとっての真実であるとは限らないし、そうである必要もない。逆も然り。
そんなのおかしいでしょ!
そんなの現実的じゃない!
とかいう怒りや反発って、
そもそも何も言っていないに等しい。
なにが「おかしい」か、なにが「現実」かを決めているのは、あなた自身であってそれ以上でもそれ以下でもない。
「思い込み」に関しても似たような体験がある。
そんなの思い込みでしょ、としたり顔で言う人がいるが、
いやそもそも「思い込み」じゃないものなどないでしょうが。
これは喩えれば、
「リンゴは果物だ」と言うと、
「いや果物は梨だ」と返ってくるような、
いやいやそうだけど。
リンゴも梨もどっちも果物じゃん。
みたいなことですよ。
合ってる?
怒るには技術がいる、という話だった。
冒頭に挙げた、今日読んだ本の話に戻ると。
ふーん、まあそうかなあ、そうだなあという感じ。
そもそもなんでそんな本を借りたかというと、
わたしは常々「怒っている人が苦手」だと婉曲に表現してきたからだ。
婉曲に、というのは、まあぶっちゃけ、苦手というより、「相手をしていられない」と感じるという方が近いがちょっと過激な表現を差し控えて。
サブタイトルにもあるが「怒り恐怖症」というフレーズは、
ちょっと以前に読んだ、「人を嫌うということ」という本を思い出す。
ようは、怒るのも嫌うのも人にとって当たり前のことなんだから、
封じ込め(抑圧し)て、見ないフリをしても決してなくなったりしないんだから、
それとちゃんと付き合う方法を学ぶべきである、
というようなこと。
いや、それはそうだ。
わたしも怒るし嫌う。
それは何でもないことだ。
でも、それが何でもあることだ、というか、圧殺している人というのは確かに、いるんだろうなあと感じる。
回りくどく怒りを伝える人、とか。
なぜ回りくどく伝える必要があるのかといえば、自分は怒っていませんよというスタンスを保ちたいからだ、という。
なぜそうしたスタンスを保ちたいかといえば、主に幼児期に「怒っちゃダメ」というプレッシャーを与え続けられた結果なのだという。
なるほどわからん。
いや、そういうとこだってば、わたし、だめだめ。
まあ、こういうことを言及しはじめるとどうしても批判的になる。
わたしは自分に正直に生きる、ということを信条としてきた。
それはそれが美徳だからでも、正しいことだからでもなく、
単に回りくどいことは無駄だと感じるからだ。
AはBである、というときに、CでもないしDでもないし、かといってEでもないし、これでもない、あれでもない、なんて延々とZまで、やっていられない。
そういう人に限ってじゃあBだとは決して言わない。
そこは口を噤む。
こういうのは何だろうなあ。あるよなあ。
楽しんでやっているんならいいけど、しまいには怒り出してしまう。
Hじゃない、Iじゃないって言ってるだろう、いい加減にしろ、なんて。
いやいい加減にしてほしいのはこっちだ、〈答え〉はあなたしか知らないのだから。
じゃあもう、Bって言ってしまえばいいじゃん。
でもそこは頑なに言わない。言えない。
何だろうなあ。
恐怖症、なのかなあ。
パパ(愛称ね。実父じゃないよ)が不思議だ。
いやごめん不思議っていうか推測はある。
仮定がある。
あの人は「怒り」を封じ込めている、あるいは、「怒り」を排泄できずに溜め込んでいるのではないか、と。
こういうことをさ、たとえば友人Cちゃんとか、Tちゃんとかに聞いてもらうわね。
そんで話しながら、あれっと思って次第にそわそわしはじめるわたし、が想像に難くない。
いや、あなたのことを言っているわけじゃなくて、という感じになるであろうことが。
実際には、あなたのことを言っている、わけでもあるのだが。
これは、
人と話をする、しかもそうしたちょっと深い話をするとき、
〈誰々〉を例えにあげて話すんだけど、
その〈誰々〉は何も特別な個人、特殊な状況、というわけじゃなくて、
実は普遍的なあなたでありわたしの事情でもある。
というような局面に差し掛かることが、ままある、ということ。
そして事実わたしは、その為にこんな話題を持ち出してきている。
誰々の話、というのは所詮例え話なのであって、架空の、とまで言わないが仮定でありフィクションである話にすぎない。
それがたとえ実在の人物なのであってもね。
重要なのは、相手との会話のうちに、「今」導き出されるもの、だ。
噂話や愚痴が、どこかの誰かの自分には無関係な話、で終わるのであれば、甲斐がないと思っている。
それはBという真実を避けて、CでもなくDでもなくと言い続けるようなものだ。
対岸の火事から学べるものはない。