「自由」についての考察①
谷町九丁目の坂道で、わたしが得たのは「気づき」だ。
あ、わたしは自由なんだ、と気づいてすごく楽しくなってしまった。
この話を友人Cにしたら、そんなのいけない、親が悲しむ、と言われてびっくりしたことがある。
鼻の下を伸ばしたどこか滑稽な感じのするおじさんに、当時高校生だったわたしが、要は援助交際しようと持ちかけられたという話で、
いや、しないよって断ったんだけど、
いったいわたしはなぜ、断るんだろうってふと不思議に思った。
知らない人だから?
お金を貰ってそういうことをするのはいけないことだから?
セックスは、しかも「はじめて」は、好きな人とするものだから?
なんとなく怖いから?
なんとなく気が乗らないから?
明確な答えは思い浮かばなかった。
どれもが正解であるような気もするし、どれもが正解とは限らない、とも思う。
強いて言うなら最後のが近い。
相手からの提案が唐突で思いがけないものだったし、そういうことなら是非しよう、とはとても思えなかった。
ただそれだけだ。
そしてただそれだけだ、ということに気づいたとき、
右へ歩を進めるのも、左へ踏み出すのも、前へでも後ろでも、何なら上空に向かってでも、わたしは自由に行きたい方へ行けるのだということを、一遍の曇りもなくはっきりと理解した。
スキップでもしたいような、わくわくとした高揚を感じた。
実際わたしは笑っていたと思う。
そういう、とても素晴らしい経験、というか気づきがあった、という話をしたら、
友人Cからの思わぬ抵抗にあったのだ。
それは当時ではなく何年後かに忘れえぬ体験として、話したんだけど、
いけない、の意味がわからなかった。
親が悲しむ。
親が悲しむ?
なんて頓珍漢なことを言う人だろう、と思った。
いや、悲しまないじゃん、そもそも、してないし。
(それにまた、悲しんだところでそれが何なのだ?と思う。これは重要なことだから後述)
おそらく、いけない、というのも、実際にはしていないからいい、とかじゃない、だってしたかもしれないし、しなかったかもしれないわけでしょ、
そんな理由じゃいけない、というニュアンスだ。
じゃあどんな理由ならOKなのかというと、
「親が悲しむ(のは辛い)からしない」のが正解だというわけだ。
あのね。
本当に思った、わたしがブログを書こうと思った理由はこのことで得た気づきも大いにある。
自由だ、わくわく、の方じゃなくて、
それをいけないと制止された経験が自分の中でずっと不可解だった。
いやそんな制止をきくわたしじゃないんだけど、
これ、何だろう?と思ったのだ。
何の抵抗なんだろう?
何のブロックなんだろう?
こういう話をするとよく、じゃあ人殺しも自由ってこと?
みたいに話を飛躍させる人がいるけど、
誰が人殺しの話をしてるんだよ、馬鹿なの?と思う。
人の話聞く気ある?ないよね。
とはいえ人殺しも自由だよ、究極は。
これは、今日読んでいたオムネク・オネク「私はアセンションした惑星から来た」まだ読みかけ、最初の方、
そこにもカルマについて触れているところがあり、
カルマは不思議だね。と思う。
カルマについては色んな人が色んなことを言っていてどうも錯綜しているという印象だ。
でもなんか、このオムネク・オネクって金星から来た人が言うカルマは何というか、一言でいうと暗い。
わたしはこないだの、「カルマとは過去の痕跡」、みたいな表現の方がドライでいいなと感じる。
人殺しも自由だとわたしが言い切る背景には「カルマ」というか、
要するに「自分で蒔いた種を刈り取るのは自分以外にいない」ということを強く信じる気持ちがある。
そしてもう一つ、
「何事であれ、自分自身が許可したことしか、自分の現実にはならない」ということだ。
人は恐れている。
なんていうか、
自分のことを。
延いては、同じことだが、他人のことを。
パパ(愛称)に谷町九丁目の「気づき」の話をしたら、おそらく、同じようにわかってもらえないだろう。
その非難口調は容易に想像できる。
あるいは哀れむように、悲しそうに、言うかもしれない、
「のんちゃんはそんなことも考えないで今までやってこれたから、そんなふうなんだね。でもそこがのんちゃんの良い所でもあるって思うように努力しているよ」
何なんだよそれ。
全然わかってない。
まったく的外れ。
世の中舐めてんのはわたしじゃなくてあなたの方だよ。
だがもうわたしは苛立つことはやめた、無駄に消耗するから。
もういい、わかった、取り組もう。
論破してやろうとかそういうことじゃない。
違う視点を持ってみよう。
望まないことにではなく、望む現実に焦点を当てようってことだ。
なんか後述するって言ってたな、
悲しんだからそれが何なのだ?か。
いやもう後述と言いつつその後すぐ言及していたけど、すでに。
要するに、
相手の現実は、あなたの現実ではない。
ということだよ。
いや、ちゃんとしよう、取り組もう、といいつつ、すぐに面倒くさがるわたしがいる。
あかんな。
どんどん風呂敷を広げちゃうけど、「罪悪感」というものがありますね。
これはもう、今すぐポアしてくれて構わない。
捨てましょ。
罪悪感という一見まともな、正義に基づいた、情深い、模範的な、
そんな仮面を被って、
自分の行いを、自分を押し殺して他人を優先した結果なのだとかいうのは、いい加減もう、やめよう。
たとえば、
子供の為を思って離婚しない、とかね。
やめなよ。
それは自己中心的な行いだ、と言われることを恐れて、そうじゃないことにしたがる人がいるけど、
人間とは本来的に、自己中心にしか生きられないものだ。
自分に軸を置いて生きることが、もっとも難儀で、もっともやりがいのあることだ。
何の為に生まれてきたか、考えたことがあるだろうか。
あなたは誰かに自分の下駄を預けるために生まれてきたわけではない。
そんなことはただの怠惰だ。
ただ無為だ。
「自己中心的だ」というバッシングには、終わりのない負の連鎖を感じる。
なぜ自己中心的であることがいけないのかね。
補い合うことと、相手任せの責任転嫁に過ぎない依存とを、履き違えているのだ。
あなたはあなた以外の誰かの人生を保障することなど決して出来ない。
あなたはあなた以外の誰かに、あなたの人生を保障してもらうことなど決して出来はしない。
助け合う、と言うのは、
助け、というのは、
それが必要なときに過不足なく、与えられる。
あなたはそれを余分に与えてはならないし、与えられたいと願ってもならない、てことなんだよ。
なんかズレたな。
罪悪感のあたりからズレた。
わたしは最近思うんだけど、
ソクラテス、とか老子、とかOSHO、とかさ、
自分では著述せずに弟子まかせ、みたいな人いるじゃん、
いいなあ。
誰かわたしの風任せな破綻的放縦を、編集してくれないかな、と。
なんていうか編集って、
自分の考えが整理されるというか、体系化されるというか、
他方、瞬間を踊る生が殺がれるというか、
なんかね。
自分はどう考えても編集向きではない、と思う。
じゃあどんな人が編集向きなのかというと、わたしはそうじゃないからわからないんだけどさ。
まあ自分で書いて自分で編集して、
って、自分で曲作って作詞して編曲までしてっていう、
スゴイじゃん宇多田ヒカル!!って(宇多田ヒカル好きだよ)、
そういうものだと思うしかないのかもしれないけど。
なんていうか、わたしは、ずーっと生まれてこの方、といっても物心ついた頃、それから思春期を過ぎた頃、から、不思議だったことがある。
その不思議っていうのは、ちょっとした違和感だったり、
そこはかとなくある位相のズレだったり、
ん?という自分にとって奇異なるものへの好奇心だったり、
なんとも曰く言いがたい妙なるもの、だったりして、
うまく言えない。
明確ではない。
のだが、もうそろそろ、重い腰をあげてみるフリくらいはしてもいいのかもしれないというような、
なんかそんな感じ!(ぱくっ☆)