すべてはフィクションである。ノンフィクションはフィクションの一部。
http://://www.amazon.co.jp/私はアセンションした惑星からきた―金星人オムネク・オネクのメッセージ-超知ライブラリー-オムネク-オネク/dp/4198625034
リンク貼れたよ!!!
上記の本を読んでいる。
著者は火星からやって来て(転生ではなく)地球人として生きている人。
マジか、何それ???マジ???キtgい???
ってなるような、
幽霊見えるとかもそうだけど、
わたしは見えないからさ、
でも、
〈ある〉ことを証明するのは容易いが、〈ない〉ことを証明するのはほとんど不可能
なので、こういうぶっ飛んだ話についてのわたしのスタンスは、
ありえない・嘘、と決めつけることはしない、だ。
タイトルにも書いたように、
「そんなのフィクションだよ。ファンタジーだよ。非現実的だよ」
というアレルギー(過剰適応)反応は起こさない。
そもそもフィクションでないものなどないのである。
現実的、というのも慣用句くらいに思っている。
わたしも使うよ、そんなのまったく現実的じゃない、とかね。
でもそれは限定的な状況でしか通じないニュアンスというか、価値観というか、世界観というか、物の見方、というか、もういいか、
であって、
たとえば、「冗談」とかも、それが通じる場面とまったく通じない場面、があるじゃないですか。
「場面」というのは、誰か特定の「相手」、と置き換えてもいいけど。
どんどん脱線していっている気がするが、「言葉」って面白いなあと思うのです。
「レトリック」についてちょっと調べていたときに、それを詳しく解説しているページがあって、
なるほど、すごい面白い。
と思った。
もう「レトリック」で検索してくれたらいくらでも面白いことを書いているページに出会えるので省くけど、
たとえば、
わたしはさっき「きtgい」という表現をしたけど、
これはわかる人にはわかるだろうし、もしかするとわからない人がいたらごめんなさい、
ありていに言うと「きちがい」です。
こういうのもある意味レトリックで、
ある程度読み手の理解力に頼る、
という側面があるわけです。
「レトリック」は「修辞学」とも訳されてこれじゃまったく何のこっちゃピンとこないので、
わたしは「比喩」だと捉えているのですが、
この「比喩」というものは、実に滋味深い。
結局すべては比喩によって表されるほかはない
とわたしは思っていて、
なぜかというと、「クオリアは他人とは完全に共有できないが、それに似た代替表現ならば他人に提示しうる」からです。
この場合は言葉を介するコミュニケーション、表現方法としてね。
クオリアとは、要するに目の前の「赤いバラ」を見たとき、その赤さ、その瑞々しさが、他の人と自分とでは、まったく同じように感じられるとは限らない(むしろ不可能だ)ということです、この文脈の流れで、ざっくり言えば。
つまり、わたしが「そんなの”現実的”じゃない」という時には、
わたしの「意図」を相手がある程度、相手の度量とか常識によって理解してくれているだろうという予測、予定調和がある。
共通の基盤に則って話している、という前提がある。
相手の「わかる」が自分にとって、あるいはお互いにとって、折込済みなところがある。
と、そういう注釈を経た上で、(注釈だったのです、長くてごめん)
もっと言えば、そもそも言えば、抽象度を上げて言えば、
「現実」なんてすごく曖昧で不確かな概念だよね、とわたしは思っている。
つまりそれは「クオリア」=「個人的体感」に過ぎない。
金星から来たという、オムネク・オネクの本では、
金星での生活が延々と詳細に語られる章があるのだが、わたしは退屈して飛ばしてしまった。
(誰かにとっての)単なる事実の羅列、が興味を惹くのは、
それが自分にとって関心を持てるときだ。
朝何時何分に起きて、何時何分に顔を洗って、歯を磨いて、とか、
だから何なの?冗長だなー、と興味が削がれていくのは、
相手にとっての「出来事」(現実)そのものに、自分は関心がないからだ。
相手に対して強烈な関心を持っていたら、何時何分に起きて、とかいうどうでもいいような情報でさえ興奮しうるものになる。
恋愛しているときとか、アイドルの私生活を知りたいとか思うときには、そういう感じになるのかな。
こういうの(恋愛とか)って何なんだろうな、と興味深く思うけど明らかに脱線しているので後日にまわそう。
要するに何が言いたいかっていうと、
それがフィクションだから、興味ない、
とか、
ノンフィクションならば、興味ある、
とか、
そういう観点ではわたしは本を読まない。
いきなり私事になって恐縮しかりだけど、
じゃあ何が重要なのかというと、
面白いか面白くないか、なんだよね。
冒頭に出した本の著者が、本当に金星からやって来たのか、そうではないのか、
ということは、わたしにはどっちでもいい、どうでもいいとしか、
言いようがない。
なぜならわたしにはそれを確かめるすべはないからだ。
わたしが関与し得ない点についての正否を問うのは、無駄な試みだとしか思えない。
相手にとっての「現実」は自分にとっての「非現実」なんだよ。
自分にとっての「現実」は相手にとっての「非現実」だ。
ゆえに、フィクションだから、という、
あるいは相手が嘘吐きだ(事実を誤認している)からという、
そういう理由で、
相手の話(主観的体感)を拒絶するスタンスは、
もったいないというより、
何だろう、暴力的とさえ言えるのかもしれないな、と思う。
今日半日かけて(コメント含め)読んだページを勝手に貼り付けて終わる。
わたしはこれ、とても興味深かった。
なんか、好きなんだよね。
もうね、「好き」以外に適切な言葉は思い浮かばない。
これについても後日書く(たぶん)。
それでは皆様、今日も良き日をお過ごしください、ありがとう。