誰だって、いつかは子供だったんだよー!ということについて。

 今日友人Tと会って話していて、自分の考えが整理されるところがあった。
 こないだ読んでいたのが、ブログなんだけど、コメントが180件もついているもので、
 

d.hatena.ne.jp


 この扇情的なタイトルのせいもあるし、実際とても自己分析、他者に対する 分析が優れていて、それでコメントが伸びるんだろうな、と思う。
 わたしはああいったものが、
 DVとか親子のねじれとか虐待とか、あるいは、性の被害とか、
 そういうものが、
 もう、誤解を恐れずに言うならたいへん「好き」で、惹きつけられる。
  
 わたしは過去に「レイプ」をひどく恐れていて、だからそういうものへの恐れをなくすために読んでいたと思う。
 わあ残酷、怖い、逃げよう、それもありなんだけど、
 それは、なんだか、
「豊かになりたいときに貧困について考えてはならない」byワトルズ

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を思い出すようにおそらく紛うかたなき真理なのであるが、
 じゃあわたしは、豊かになりたいというより、なぜ貧困が起こるのかを考えたい余地を残している人なのだと思う。
 後ろめたいとも違うが、
 どうせなら、自分だけじゃなくて世界中の人が豊かになればいい、という思いから逃れられない。
 逃れたいわけでもない。
 まだ後ろ髪を引かれているんだね。
 それは本当に思う。
 がむしゃらに、急速に自分を変えたいとは思わない。
 変わっていく景色を楽しめる程度でいい。
 
 冒頭の友人Tに言ったのは、
 つまり、誰だって子供だったときがある。
 いきなり親、いきなり大人として生まれる人はいない、だから、
 誰しもが等しく通った道だから、子供が成長する過程に、わたしは興味があるんだと思う、ということだ。
 その過程に何が起きるのか、
 子供がどうやって世界を認知していくのか、
 
 いったいなぜ子供を虐待してしまう親がいるのか、
 そもそも虐待とは何なのか、
 何のメリットがあるっていうのか、
 
 わたしは自分が被害者だという意識が稀薄だから、
 障壁を乗り越えるようにはそれを理解できない。
 わたしだって傷ついたことくらいはあるが、
 大いに傷ついたというか考えさせられたのは人生において二つだ、中学生のときの挨拶にまつわるもの(簡単に言うと、中学生になって部活に所属したときに先輩には挨拶して、と言われて内心ものすごく葛藤したが要するに挨拶しないことにした)と、サウスナインで捕まった(違法賭博なんだけど世間知らずなわたしはそれが違法だと知らなかった)ときがそうだが、
 あ、でもそうだなー、そう考えるとわたしにも所謂トラウマがある。
 
 もしかすると、とふと連想してしまった。
 友人Cとその母親との関係の異常さ、わたしにはそう見えた、
 こんな悲惨なことを放置しておいていいものだろうか、と衝撃を受けた。
 わたしはこれを確かに「自分の身に起きたことのように理解したい」と望んだ。
 まあ目の当たりにした友人Cだけじゃない。
「子どものねだん」だって恐ろしいほどの衝撃だった。

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 その後サウスナインだ。
 しかもその仕事へと誘ったのは友人Cだ。
 うワァォ。
 確かにわたしはあの事件で大いに傷ついた。
 あまりに傷ついたので、当時同棲していた彼が、ごめんと謝ってくれるのが癒しになったほどだ。

 彼には何の咎もないのにね。

 何の咎もないにも拘らず、ごめんという言葉が癒しになった。


 そうなんだ。
 うん、そうなんだな。
 わたしは確かに何もわかっていない。
 あんな体験をさせてもらえたことも、次第にその詳細を忘れていくのだ。
 
 わたしは悲惨なもの、理不尽なものを目にするたびに、
「なぜ世界が愛に満ち溢れていないのか」
 ということがずっと謎だった。
 
 自覚なしに(ないだけで深層心理にはあって)傷つける人も困るけど、まして傷つけてやろうという明確な意図を持ってなど、考えられない。
 わたしはだが。

 明確な悪意を持って誰かを傷つける?何のために?
 くだらない、と思っていた。
 何のメリットもない、とあきれていた。
 でもそれじゃダメなんだ。

 いじめを、低俗なものと、馬鹿にしていたと思う。
 低劣さと醜さしか感じなかった。
 それはまるでネガティブを恐れるアトランティスのアルさん。

www.oumaga-times.com
 恐れというよりわたしは、近寄りたくもないという感じだった、
 誰だって道端のゲロをわざわざ踏みに行ったりはしないだろう、という感じ。
 
 わたしは「強かった」のではなくて、
 無関心だった。
 無頓着だった。
 恐れがなかった。
 犬は怖かったけどさ。
 つまり恐れはゼロではないが、
 おそらく比較的恐れの少ない子どもだった。
 人間の悪意に対する恐れがなかった。
 犬の攻撃性への恐れはあったけど。
 悪意を感じることがあまりなかった。
 それは恵まれていた、といえばそうだ。
 単に鈍感だったのかもしれないが。
 仮に悪意を向けられたらわたしはすぐさま反撃するような子どもだった、
 だって腹が立つじゃん。
 自分は他人に悪意をぶつけたりはしないが、かといってぶつけられたら、ただちに叩き返すような。
 でもそういうときに、もしかして自分が悪いからだろうか、と考える人もいるんだな、本当に。
 
 地球はネガティブなエネルギーの充満するブラックホールのようなものだ、
 と言われると、(なんかで読んだ。ソースは不明、ソースとかどうでもいい、思い出せないから)
 考え込んでしまうんだ。
 思い当たってしまう。
 じゃあわたしは何をしにわざわざ、もし選べるのだとすれば、

 何のためにわざわざ選んでまで地球へ生まれてきたのかな、と思うと。
 
 そういうときだな、
 金星からやってきたっていうオムネク・オネクの語る境遇が他人事とは思えないのは。
 わたしは金星からやってきてはいませんがね。知らんけど。

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 わたしは自分を救済するために作品を生み出すのは違う、と感じていた。
 でももしかすると、それだっていい。
 と思えるのは、
 米津玄師(歌作って歌う人)が、自分は引きこもりだし、自分なんて生きていていいのかという思いを抱えて生きていた、というようなことを言っていて(意訳)、
 静かな衝撃があったのだ。
 ここに、何かがある、という感じがした。

 Superfryも歌うたい、彼女はとても明るいしとても幸福感を発散しているし、歌詞にもわたしは、共感できる。
 でもパパが「陰がある」と言った宇多田ヒカルの方が確かに、需要がある。共感指数が高い。
 癒されました。
 泣きました。
 というコメントが多い。

 ああ。そうか、と思った。
 親子関係で苦しんだ人、あるいはレイプなんかもそうだけど、
「被害者」の立場に陥ってしまった人、
 理不尽な暴力(精神的なものはなおさら闇が深い)に遭ってしまった人、
 が求めるのは助言じゃない。
 まずは兎にも角にも共感だ。
 同じような苦しみを詠う歌に、同胞がいる、というような感覚を持つ。それだけで癒されることがある。
 苦しいのは自分だけじゃない、と他人の苦悩に触れて気づくことそれ自体が癒しになる。

 自分を救おうとすることが、他人を救うことにもなる。

 
 確かにこれは真理だ。
 


 そう、ところが、救われたくない人がいてこれが厄介なんだなあ。
 苦悩を訴えた歌に癒される、という需要が確かにあるんだ、と気づいて終わればいいのにわたし、
 でもさと言いたくなってしまう。
 
 自分を救うことが他人を救うことになるんだよ。
 だから皆自分を真っ先に救おうとすればいいんだよ。
 でもそこに「嘘」があってはならないんだよ。
 真摯に自分を救うこと、を手抜きしちゃならない。

 なんかだから、要するにわちゃわちゃ、やってるんだなあと思う。
 それぞれが、それぞれのペースで。
 うん、いいじゃんね。
 でもその、わたしが個人的によかったなと思えたのは、
 人よりも先に弱音を吐くことが、必ずしもネガティブな行いではないと、気づけたことだ。

 

 しんどさを我慢することが立派さや美徳、当たり前とされるような環境において、

 皆(とは言わないが)内心はしんどいなあと思っている中、

 真っ先に「しんどい」と声をあげることはとても勇気ある行動なのかもしれない、と思う。

 

 今日もありがとう、良い夢を見たいな。