「いじめ」が悪いって誰が決めたの?それは本来、中立でしかない。決めるのはあなた。

 寝起きの頭の冴えは最高。
 わたしはパパ(実父じゃなくて愛称)が、わたしについて頓珍漢なことを言う、と思っていた。
 あるいは求めてもいないアドバイスをしてくる。
 それはいらない、という強い不満を覚えていた。
 なぜそんなことをするのかな、パパにとって何のメリットがあるんだろう、口で言う「のんちゃんの為」より深いところにおいて?という謎があった。

 ところで、「他人は鏡」だという、よく言われる例えがあるが、
 これは、
「自分の思考、信念などが他人に投影される」
 ということ。

「人を〈嫌う〉ということ」では、
 嫌いっていう感情は人間にとってあたりまえのものだし、別に嫌ったっていいじゃないか、
 嫌ってはならないと自分を雁字搦めにして問題を複雑化させて、自分も苦しみ、他人をも苦しめるよりも、過剰にならない程度に「嫌い」をやり過ごす術を身に着けるべきである、というような論旨だった。
 そうだね。
 と全面的に賛成すると同時に、
 そもそもなぜ「嫌い」という感情があるのか、
「嫌い」とは何か、というと、
 自分が「恐れていること」を他人に投影した結果である。
 
 たとえば、自分がケチなことを恐れているとすると、「ケチな人」判定を下した他人を見ると、嫌悪を覚える。
 つまり、その他人が「ケチだから嫌い」だと自分は思っているが、
 本当のところは、最初にまず「ケチを恐れている自分」がいる。
 次に「ケチそうな他人」を必然的に見つけ、自分の恐れを思い出して不快になる、という順序がある。
 なんとも上手く説明できている自信がないが、
 
 ようは、自分の恐れを他人になすりつけた結果が「嫌い」という感情を引き起こす。
 この場合の「恐れ」は自覚がないのがほとんどだと思う。
 なぜなら、「恐れ」とは自覚すると、もはや実体をなくすからだ、平たくいうと恐れが消滅するのだ。
 いや違うな。
 恐れているのは自分である、と気づくと、決して相手を責めるような「嫌い」という表現にはならないだろうということだ。
 高いところが怖い、なぜか知らないがともかく怖い、
 そういうときは「怖い」と自覚があっても怖いものは怖い。
 でも、
「あいつはケチだから嫌い」
 というときに、
「あいつは自分の恐れているケチを体現しているから怖いから嫌い」
 というほどの覚めた見解には至っていないし、
 そもそもそういう自覚があれば、
 なぜ自分はそれを恐れるのだろう、という方へ興味が向くのではないだろうか。
 
 要するに、他人が他人であるがために人は他人を嫌うわけじゃないってことが言いたい。
 他人のどこそこが嫌い、というときは、必ずや「自分が嫌い」なところを自分自身が有している結果であるにも拘らず、そこのところにはまったく無自覚で、他人に責任を押し付けてしまっている。
 自分の持ち物が嫌いなのに、
 嫌いならば捨てればいいのに、自分が所有しているという自覚がないものだから、
 相手の持ち物が嫌い、と、こう言ってお茶を濁している。
 
 うん、どうも上手くない。
 良い喩えが思いつかなくて袋小路へ陥っている感が否めない。

 自分の話をすると、パパのここが不満で受け容れられない、納得できない、と思っている事柄というのは、自分自身が自分で嫌っている性質であるということだ。
 パパが「求めていないアドバイスをする」ことがわたしは不満だったが、
 それは即ち「わたしは相手に求められていないアドバイスをしたくない」という気持ちの現れなのである、と。
 なんだ、「恐れ」とかを無理に割り込ませるから下手な説明になっていただけ、いらぬ寄り道をしていただけか。
 普遍化、抽象化を焦って、脱線するものではない。
 言語化下手かよ。

 そしてまた、パパがわたしに「世界を広げたらいいと思う」とアドバイスをするのは、要は、パパ自身が「世界を広げたい」と思っていることの現れに他ならない、ということだ。

 そう気づいたら、なあんだ、という感じで、それが今朝の気分だった。

 昨夜は気分悪いまま電話を切った。
 もう具体的に何だったか思い出せないが、
「また、いつもの嫌なやつだ」という感じがあった。
 どんなアドバイスだったか覚えていないが、求めていないアドバイスをしてきたのだ。
 普通に平常心をもって考えれば、誰かが自分にアドバイスをする、ということがここまで不愉快さを感じる事態にはならないはずだ。
 単に聞き流すことだって、頓珍漢なことを言っているなと怪訝に思う程度に済ますことだって、出来るはずなのだ。
 
 パパに関しては非常に複雑だ。
 わたしにはそもそもの抵抗があると思う。
 単純によかれと思ってしているであろう相手のアドバイスがこうも耳障りに感じられる、というのは、
 ついつい反論したくなる、というのは、
 これは、なんだろうなあと思う。
 うーん、何なんだろう?
 甘え、なのかな?

 わかるよ、と言われるのが嫌なんだろうな。
 だって、わかっていないから。
 わたしが真にわかって欲しいことを、相手はわかっていないから。
 そんな明後日の方向でわかることにされたらたまらない、という気持ちがある。
 つまり、他はどうあれあなたにはわかって欲しい、という気持ちがある。
 あるのか?
 いや、あるのかなあ、本当に。
 
 抵抗もあるし、そこはかとない恐れ、もある。

     *
 寝てた。がヒラメキはない。
 恐れ、というのは、
 うーん、やっぱり、前の彼女が風呂場で手首を切ったのは自分のせい、みたいなエピソードからくるかな。
 え、なにそれ怖い。
 という感じ。
 誤解や誤謬や反感を恐れずブルドーザーのようにガシガシいくなら、
 メンヘラに共感するあなたもメンヘラですか?
 
 あ、でもこういうところだろうなあ。
 まあいいや。

 いじめについて、じゃあのんちゃんはいじめられる側も悪いってこと?と言われたこともあるが、
 それについては、
 もう飽きたっていうか、
 あっまたそういうことを言うからわたしときたら。
 いじめについては、いじめの構造というか価値観というかそれこそ「恐れ」みたいなものを、いじめる側もいじめられる側も共有しているってことだ。
 響かないものはいじめようがない。
 わたしは響かない。
 いじめたいともいじめられたいとも、いや、いじめられたらどうしよう、とかも思わない。
 いじめって平仮名で書くと文章がどこまでも平仮名で埋め尽くされるな。
 

 ともかく、「なるようになる」「おさまるべきところにおさまる」この宇宙の法を「ダルマ」という。
 対して「カルマ」がある。
 あ、これ、前も言ったな。
 だから、
 もしかするとあるいは「カルマ」こそ物事を推進させる力がある。
 すべては完璧に、パーフェクトに一糸乱れず整然としている宇宙、というか宇宙以前がある。
 ここを、ふっと「気紛れ」に動かす。
 乱れる。
 元に戻ろうとする。
「カルマ」が動きとなり、「ダルマ」が静となる。
「ダルマ」は静だ。
 一糸乱れず、あるべきものがあるべきところに収まり、何の動揺も混乱もない。
 でもそれでは、厳かでありすぎてほとんど「死」のようだ。
 
 いじめに関して最近思ったことがある。
 ああ、そう、いじめられる側が悪い、とかいうのがもうナンセンスっていうか、
 そもそも「いじめ」自体が悪いことだって誰が決めたの、と思った。
 
 世界は自分が見たいと思ったように映る、そうじゃない、生温い、
「見たい」って何だよって感じだ。
 誰が「見たい」んだ?
 あなた?それともあなた以外の誰かが?
「見」「たい」って何?
 そうじゃないよ。
「見る」と「決めた」ことがただ、感じられる。
 受信すると決めた情報だけを受け取ることが出来る。
 
 だから逆なんだよって思うことが多々あった。
 そうじゃない、逆だって。
 世の中、宇宙ってものはそもそもダルマ、静、秩序であった。
 そこに生き生きとした混沌を持ち込むんだ。
 まず混沌があって、そこから秩序を生み出す、てのは違うんだよ。
 まずは秩序があった。
 静かで厳かですべては満たされている、何の不足もない、パーフェクトな秩序、
 久遠に整然とした沈黙がある。
 そして、ふと飽きた。
 つまらない、と思った。
 そこから世界は始まった。
 あなたの感知する世界が始まったの。

 

[http://:title]

 

[http://]