〈癒し〉を行うには、相手の許可がいる。
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読んでよかったと思える本です。
彼女が金星からやって来たのだろうが、そうではないのだろうが、そこはどっちでもいい。
いずれであれ確かめようがない。
訳者もあとがきで言っていたが、彼女が金星からやって来たということをあなたは信じているのですか?と聞かれるが、わたしには「信じる」ということがどういうことなのか、わからないと。
わたしにも、その文脈での「信じる」は実に頼りないものとして映る。
訳者はそれを、「信じるというよりも、〈知っている〉という感覚だ」と表現した。
わたしは、金星からやって来たかどうか、はどっちでもいい。
そんなの知るわけがない。
ただ、面白ければいい、興味深ければいい、読むに値するかどうかは、それが真実かどうかにはよらない。
真実とは、外側にあるのではなく常に内側にある。
「読書とは、体験である」と今日立ち読みした本の著者も言っていた。
読書とは単に知識を得るために読むというような生易しいものではないのだと、いうようなことを言っていた(気がする)。
立ち読みだから引用しようがない、すいません。
ともかく、オムネク・オネクの本を読んでよかったのは、
癒しには癒される者の許可がいる。
というフレーズが実に心に響いたからだ。
それだけでも、わたしにとっては価値のある本になった。
たとえばあなたが、誰かを癒してあげたい、と思ったとする。
その人はとても傷ついているように見える。
とても傍観していられない、こっちまで心に傷を負うようなやりきれなさを感じる。
もちろんその人は自分自身のことだからもっと辛いだろうなと察する。
出来るものなら、癒してあげたい、と思う。
でも、それを実現するためには、〈その人自身の許可〉がいるのだ。
これは、エレノア・ルーズヴェルトが言ったという、
誰しも己の許可なしに傷つけられることはない。
という言葉に通ずるものがある。
ずっと考えていた。
ずっと不思議だった。
わたしにとっては上記二つの言葉は、実に救いのあるもの、
希望に満ちたものとして感じられる。
それは自分自身のことは自分自身で引き受けることが出来る、という力強い宣言なのだ。
でもこれを、まるで重圧のように、あるいは罪深い考えのように、捉える人もいる。
それを責任逃れをしたいだけなのだと謗るのは、簡単だが無意味なことだ。
そもそも誰かを謗り、罵り、否定し、批判する、ということから生まれて得たものは、わたしをとても落胆させる。
ああ。そうじゃないのに。
わたしが望んだのは、そんなものじゃなかったはずなのに。
と感じる。
他人を癒してあげたい、と思うのは何ら悪いことじゃない。
でも、癒されるかどうかのタイミングや決定権は自分ではなく、相手が握っている。
それを忘れないことだ。
〈人を癒す〉のは、それが意図的であればあるほど、
強く願えば願うほどに、自分のエゴとの均衡を保つことが難しい。
とはいえ、わたしは、「癒しを行うには相手の許可がいる」という一文を読んで、
なんだかほっと安堵した。
癒された。
どこかで、これは自分の抱える問題だ、クリアしなければならない課題だというように、気負っていたのだな、
でもそんな必要はないんだな、と肩の力が抜けたような感覚だ。
なんだかしみじみと、そうか、とほっとして涙が流れるような感じだった。
ほっとする、ってすごく大事なんだなと思う。
ゆるめる、という感じ。
ゆるめた箇所には自然とエネルギーが通うのだと思う。