発言小町「実は私が悪者だったようです」を読んで。

「傷つく」というのは実に不思議な感情、あるいは認識、あるいは現象だなと思う。
 
 無知の知、未知の領域に気づかなければ、わからないことがある。
「わかる」というのも実におかしな感じだ。
 わかる、ってなんだろうなと思うんだ、
「わかる」、は「知る」と似ているけど、違う。
 
 たとえば「1+1=2」これはわからなければ知りようもない、というようなことだ、と思う、勿論わからなくても暗記は出来るが。
 でもこの地球が回っている、という感覚は、「知って」はいても、「わかる」「実感する」ということは、なかなか相当難しい。
 いやもうほとんど不可能じゃないかなと思える。
 だってわたしもあなたも今確かに静止した地面の上にいますよね。
 
 つまり「わかる」が〈実感〉であるとすれば、
「知る」は、〈実感〉ではなく、〈共感〉でもなく、〈臨場感〉に満ちたものでもない。

 リリカルに表現するなら、「知る」はどこか余所余所しい。
「わかる」は対象に寄り添ってほとんど重なっている、という感じだ。
 
 傷つく、というのが不思議なのは、
 今日「読売」が運営している「発言小町」のトピックを読んでいて、
 最近課金したんだよ、月額百円だけどね、仕事中手元に一冊も本がなかった日、これも機会だと思って、発言小町でも読もうと思ったら、課金制になっていた。
 まさに「読み売り」という感じだ。
 まあそれで読んだトピックで、
「わたしの元夫はわたしの実妹と不倫の関係になり、わたしとは離婚、実妹と再婚、さらには実妹の妊娠へと至った経緯がある。わたしは実親に〈四年も経ったのだからもう妹のことは許してやって、妹が身を寄せている実家に戻って妹の身の回りの世話をしてあげなさい〉と言われた。
 いやそれはちょっと荷が重過ぎる、と言うと、あなたが家族の和を乱しているのだと言われて、そうなんだ、わたしが悪者だったんだ、と思って実にショックを受けているんだけど、混乱もあり、果たしてどうなんだろう、どう思われますか」
 というような内容だった。
 おおむね、あなたは悪者なんかじゃないよ、という意見が集まっていた。

 (記事の詳細は一番下のリンクを参照して下さい。続きの投稿もあります)
 
 わたしがほとんど滑稽だな、難しいものなのだな、と感じたのは、
 力づけるつもりで、応援しているつもりで、まるで足を引っ張っているようだ、と感じられる意見もちらほら散見された点だ。
 真摯に助言をしているつもりで、自分のこだわりを託している。


 傷つける気がなくても、相手の傷を抉りかねないことはある。
 わたしはそれを罪だとは思わない。
 彼らはただ「知らない」だけなのだ。

 本当は、他人の傷を癒すより、自分自身の傷を癒す方がずっとよいのです、という言葉は真実である。

 わたしはそれを「知って」いる。
 
 被害者になるのは、本当に辛いことだ。
 許さないことは、いつまでも傷を癒さないという「決意」に他ならない。
 あなたがそれを〈癒す〉ことを許可しない限り、それは決して癒えない傷としてあなたを苛み続ける。
 お辛いだろうと思う。
「あなたは悪くない」「悪いのは彼らだ」
 そうだなあ。

 誰も悪くないんじゃない。たぶん。

 それを言い出せばキリがない。延々エンドロールだ。


 彼女の両親も「あなたが和を乱しているのだ」(いまやあなたが加害者なのだ)とは、よくよく思い切った発言をしたものだなあ。
 おそらくそうした自覚はないし保身から来た発言だとは思うが。
 でも発言した相手の意図っていうのは、最終的にはどうでもいいことだと思う。
 本当は自分がそれをいかに受け止めるか、であって。
 だから、これは救いになりうるかもしれない。
 被害者でいるより加害者でいる方が、一歩前へ進んだ立場であるかもしれない。
 でも実に辛いね。
 なんと業の深いことだろう、という気がしてならない。

 いったい何が人のためになり、人を救うか、そんなことはわからない。
 他人には窺い知ることの出来ないことはあり、
「この広大無辺な天と地の間にはお前の哲学などでは計り知れないことがある※」のであり、
 無知の知の状態をたゆたうことは、意外と悪い気分じゃないものだと思う。 


 それにしても猫ってなんでトイレについてくるんだろうな、不思議。

 

実は私が悪者だったようです : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

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