ところで恋愛って何だろう。
からくり、がわかっても、実践し続けるほかはない、
これが人生だ、生きるということだ。
何度だってそれこそ数え切れないほど「わかった」という経験はある。
その瞬間はとても神妙な感覚に満たされている。
喜び弾けるような「わかった」、ではなく、
もっと深遠な感覚だ。
ちなみに喜び弾けるような「わかった」は、パズルが解けたときの感じ。
最近ガチャガチャで手に入れた立体パズル(1ガチャ二百円)※1を仕事場に持って行ったのだが、なかなか皆楽しんでくれたようで、よかった。
そのパズルは全五種類なのだが、コンプリートする前にガチャの中身が尽きて、未練があって、ついにコンプリートしたものを必殺・インターネット販売にて購入してしまった。
こういうとき、わたしってオタクっぽい、と思うなあ。
家に物はない方だと思っているが、ふと頭をもたげる収集癖、を実感する。
「わかっちゃった人たち」だったか、
「気づいちゃった人たち」だったか忘れたけど、なんかそういう本(※2)だ、
悟った経験についての本。
読もうかな、と伸びかけた触手がそのままだ。
読まなくても予想がつくような気がするんだ、だいたい何が書いてあるのかが。
「無知は罪」とは、いったい何が言いたいのか、を考えたい。
まずその「無知」とは何を指しているのだろうか。
知識がないことか、経験がないことか。
そもそもなぜ、こんなことが気になるのかというと、その発言をした人が、
「発達障害」認定を最近受けていて、
彼女はおそらくだが、前者の意味、知識がないことは罪なりという意味での発言だったのだろうと思う。
彼女は自分の無知が、自分や他人を苦しめる、不自由にする、という局面を知るに至って、それは知識だけじゃなくて他人の心情を〈理解する〉という、
そう、〈理解〉する。
なんだなあ。
共感する、臨場感を持ってそれを再創造する、という感じではなくて、
同じように痛む感覚を味わう、ではなくて。
理解する。
それさえも出来なくて、出来ない自分によくわからないながらも罪悪感のようなものを覚えてそれで、知らなくっちゃ、という使命感というか、
なんというか、を覚えた。
のだ、というように見える。
うん、まあでも何だろう、他人の心情を理解できないこと、寄り添えないことは罪じゃないよね。
それに尽きる。
だってそんなことを言い出せばわれわれ皆、罪人だというほかはない。
知らないことは悪いことだ?
いや、そんなことはないでしょう。
わたしはここに、ほとんど強迫観念的なものを感じてちょっと、眉唾チックな嘘臭さを、無視できずにいる。
気になるんだよ。
「悪い」なんてことはそもそもないじゃん。
つまり、過剰を感じるんだ。
それは行き過ぎだ、と感じる。
あなたは自分を責める余りに、溢れて、他人をも責めようとしている。
というような過剰さを感じる。
自分の話をしよう。ずっと引っ掛かっていて、したかった。
わたしは、人と付き合うってことが、出来なかった、というか、
一応出来ていたけど、
常々心苦しい思いをしていた。
そんなのは気のせいだ、気にしすぎだ、と敢えて、少なくとも相手に自分の思いをぶつけるようなことはせずに来たが、
最近またふと、やっぱり、無理だよなあと感じる。
付き合うっていうのは、男女の付き合いだ、男女交際(古っ)。
いやべつに男男交際でも、女女交際でも、なんでもいいけど、
要するに、
一対一の関係というか、
ああ、そうか、いわゆる恋人関係のことだ。
そう、恋愛が不思議だって以前書いたことがある。あの続きだ、唐突だけど。
わたしは恋愛したことがない、誰かに恋心を抱いたことがない、とは言わないが、
そしてそれの「成就」についても、経験がないわけではない、と(おそらく)思っているが、
うーん、でもやっぱり、恋愛って何なんだろうって、
違和感がある。
世間で流通している「恋愛」それは果たして、恋愛なのだろうか。
親子関係において消化しきれなかったものの延長なのではないだろうか、という気がしている。
すべてがそうとは言わないよ、だいたいすべてなんて知りようがないし、
でもわたしの目に映るものは、およそそんな感じだ。
親子関係に限るものではないが、何らかの代替行為のような気がしてならないんだ。
でもまあここでは親子関係に限っていうと、
パパ(彼)が、
わたしに求めてくることに、わたしは応えたいと思えない。
なんて心が狭いんだろう、という気もするが、
ともかく、出来ない、と感じる。
それが出来ちゃったら、対等でフラットな関係じゃないじゃん、わたしはそれは嫌だな、と思ってしまうんだ。
なんでなんだろうなと不思議なんだけど。自分でも。
フラットってすぐのんちゃんは言うけど、それが俺にはわからない、とパパも言う。
何で読んだのだったか、「母と子という病」、だったかな、
そこに「上下関係」があるのだが、それを引き受けられない母親が一定数いて、というような記述があった、子どもを持ちながら母親役を出来ない母親がいると。
わたしはそこに違和感を持った。
持ったが、まあ、母と子、ならばそれはそうとも言えるだろうな、
生まれてきたばかりの子どもは確かに実際、無力な存在に見える。
放置されては生き延びることは出来ないだろう。この世では。
でもわたしはパパの母親じゃない。
これは、わたしには二歳半年下の弟がいるけど、弟の面倒を看てやってね、と小学生のときに親に言われたことがあって、ものすごく反発を覚えた。
弟とわたしは、少なくともわたしの中では、フラットな関係だという認識だった。
わたしは弟に限らず誰に対しても不遜というか、尊大というか、媚びないというか、単に素っ気無いというか、人によっては高圧的と取られかねない態度を取るところがあって、
そういう意味では弟に対して「上から」なところもあったかもしれないが、
それでもわたしとしてはフラットな関係という認識なのだった。
というのは、どこまでいっても個と個の関係であると思っていた。
遠慮会釈なしに、「アホ」とか「むかつく」、「あっちいって」と言うかもしれないが、そこに上下関係というか、DV関係というか、
ハラスメント的なものはないのであって、
単なる宣言にすぎないのであり、
単なる自分の発言、と相手がそれをどう消化するか、ということに、
必然的な因果関係はない。
脱線するけど、ハラスメント的なものって何なんだろうな。
わたしは女だから、それについてはよくわかっている、つもりだけど、それでも不思議になる。
中学生のときに、「中学生の主張」的な作文コンクールが校内で催されたことがあり、そこで男女差別を訴えた女子がいたのだが、
その内容が、いやそうだけど、なんか洗練されていないというか、重箱の隅を突きすぎる、というか、
被害者意識が過剰すぎる、というか、
攻撃は最大の防御なり、なんて嘘っ八だぜ、というかなんか、
そういうものすごい居心地の悪い思いをしたことがある。
ありていに言って、これは未熟すぎて恥ずかしい、という感想を持った。
人間、なにかしらの思いは持つし、持つことは当たり前だけど、それを他者に伝えるときに、ついうっかりと、
自分の持っている価値観や受け止め方や、何もかもを実に赤裸々に暴露してしまうんだなという、
このことが衝撃的なまでに、わかってしまい、
なんだろう。ためになりました、というか。
脱線終わり。
ともかく、
弟の面倒なんて看ないよ、と思ったんだ。
わたしたちは保護し保護される関係じゃないんだから。
わたしたちは共に子供だし(八歳と六歳とかたぶん、そんなの)、普段個と個として接している弟に対して、親に言い含められて大人として接するなんて不自然だ、という反発があった。
だいたいそんなの、照れるし。
パパに関しては、そのときに強く感じたことを思い出すような気持ちだ。
受け止めてあげたいし、返せばそれは、受け止めてもらいたい、という思いを彼はほとんど信条のように、持っているんだな、と感じた。
だから自分も駄々をこねるし、わたしが駄々をこねたら嬉しい(こねた覚えはないけど)、というような、
なんだろうなあ、お互い不足を抱えたままの、親の役割を交代で果たそうよ的な。(わたしはおおむね何も親に対して不足はなかったと思っているが)
それで思い出すことがある。
もうかれこれ二十年も前のことだけど、そのへんで知り合ったおじさんと何度か会った。
そこで、そのおじさんに、カップラーメンをわたしがこぼしたときに、わたしが片付けようとしたら、やらなくていい、と制止された挙句、
「もう、何でもやってもらって」
と言われたことがあり、
なんじゃこりゃ??
と奇妙な思いをしたことがある。
何ですかこれは??
わたしは特に逆らわず彼のしたいままにさせておきながら、
要するに、
彼はわたしに対して(も)、そんなふうに振る舞いたいのだ、と結論づけるしかなかった。
わたしがそう(何でもやってもらって当たり前)ではないことは、わたし自身がよくわかっている。
わたしがわたしらしく在ることを見るより、彼は彼の望むようにわたしとの関係を見たいのだろう。
わたしには想像もつかないことだが、彼の理想というか観念というか何か人生を通して形成されたもの、があるってことなんだろうな、
と気づいた経験だった。
まあそんな感じだよね。
パパに関して思うのもそれに似ている。
でもあまりにも要求が切迫しているので、わたしは困惑して泣いてしまうことがある。
それに応えることは出来ない、ということをどうすればわかってもらえるか、ということが自分でも混乱してしまって、
もうわかってもらおうなんて今は無理だ、と思って、
それ以上の衝突は避けようと目の前から立ち去ると、「逃げるの」と責められる。
なんだそりゃ。
言葉のアヤにしても、ほどがある。
喧嘩は消耗する、
これだけは言える。
逃げるの、ってのは不思議だ。
わたしは他人に向かってそんな言葉を発したことがない。
逃げるも逃げないもないだろう。
あなた(わたし)を中心に世界が回っているわけではない。
と他人からは、そう言うほかはない。
「現実とは認識である」とオムちゃんが言っていて、わたしもそうだと思う。
哲学の本で、飲茶って人のサイトから知ったが、
西洋バージョンの最後に紹介されていたソシュールの項のくだり(※3)、
リンゴがあるから、リンゴを認識するわけじゃない、
リンゴがあると思うからそこにリンゴがあるだけだ、
っていうの、よくわかります。
要するにあなた(わたし)が認識したものが、現実のすべてである。
順序が逆だってこと。
それを〈知る〉からそれが〈ある〉。
それが〈ある〉からそれを〈知る〉わけじゃない。
タゴールとアインシュタインの対話を思い出すようだ。(※4)
あ、恋愛についてだった、
恋愛。
不可解だよね。
ひとつ言えるのは、恋愛とは決して親を求める気持ちとは違うであろう、
ということだ。
果たされなかった、未消化なままの、
満たされない親子関係をそのまま恋愛関係に落とし込もうとする行いは、
わたしには違和感しかない。
【※1】
【※2】
[http://:title]
【※3】
[http://:title]