他人の軸で生きていても、他人どころか、自分を真に満たすことも出来ません。

 結局わたしが中学生のときに悩んだのって、
 誰も答えを持っていないような問いだった。
 と、「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(飲茶・著)を読んで、思うのだ。
 誰もというのは、本には答えらしきものを見出せても、周囲の人からすれば答えようのない問いを発していたのであろうということだ。
 しかも、問いの方も雲をつかむようにまだ曖昧で明確ではなかった。
 わたしはそれを誰かにわかってもらえるようには表現出来なかった。
〈なぜ目上の人に目上だからというだけで挨拶をしなければならないのか?〉

 先生も先輩も同級生も「あたりまえ」だって言うけど、「あたりまえ」って何?何の価値があるっていうの?ただの思考停止じゃん!すっごい反発しちゃうんだけど!!

 でも誰もわかってくれなくて、悲しいんだけど!

 と寝ても覚めても、悶々とする日々を送っていた。

 誰にも理解されないのだとしても、自分の考えを自分だけで守ることは可能か、可能だとしてもそれは果たして「正しい」のだろうかと。


 自分で問いを立て、自分で解決する、という経験がわたしには、いつかどこかでぶち当たらざるを得ない必要な自立のステップだった、今となってはそう捉えている。
 だから孤独で苦しい葛藤を経験したが、悔いや恨みはない。
 あれで良かった。
 中学生の当時、それにしてもこんなことをこれから五年も十年も悩んでいようとはとても思えない、と感じていた。
 だとすれば、十年後のわたしが過去のわたしに会いに来て、間違っていない、その悩みは無駄ではないと言ってくれたら、どんなに心が軽くなるだろうかと想像したことがある。
 でも十年後のわたしは会いに来てくれなかった。
 そしてあれから二十六年も経つが、未だにわたしはそういえば会いに行かなくっちゃとは思わない。
 あの経験をくぐり抜けてきたわたしは、過去の自分が大丈夫だということを知っているからだ。
 それにだいたい、それがたとえ自分であったとしても、他人(というとおかしいが)の言うことを鵜呑みにするようなわたしではないことは、わたし自身が一番よくわかっている。
 だから行きません。
 でも、過去に向かって祈ること、微笑むことは出来る。
 こうして過去を振り返ることが、「こんなことで五年も十年も悩んでいるとは思えない」という直感として、当時のわたしに届いたのかもしれない、と思う。
 そう考えるとちょっと素敵じゃないですか?

 

 あのときは挨拶に悩んだけど、要するにそれは「考える」きっかけに過ぎなかった。
 だって今となれば挨拶に躊躇わない。
 何でもない、屁でもない。
 今でも決して愛想の良い方ではないが。
 したければするし、したくなきゃしない、それだけだ。
 自分の判断と責任において、したいようにするだけのことだ。
 今、誰かに、大人だったらちょっとイヤだが、子供になんで挨拶しなきゃならないの?と真剣に聞かれたら、
「四の五の言わずに挨拶しとけばいいんだよ」
 とは、わたしは返さないだろう。
 池上彰ばりに「それは良い質問ですね」と目をキラキラさせて言うかもしれない。
 いや、言うか、わたし?
 まあ聞かれたことないけど。

 挨拶はわたしにとっては単にきっかけだった。
 大人でもいるよね、
「なぜ○○しなければならないんですか」って怒ったり悩んだりして、他人に訴えかける人。
 なぜってそれは、他人を掻き口説いたって答えなんか出ないよ、としか言い様がない。
 自分にしかわからないよ。
 自分が損得勘定をして、選択し、どんな行動を起こすのであれ、結果を引き受けるのは他の誰でもなく自分自身だという覚悟を決めるしかない。
 でもこのことが「わからない」人って、いるんだな。
 いや、そんなことは重々わかっているけど、選択によって結果が変わるのだとすれば、選択自体に悩むということだってあるんだろう。
 
 うーん、でもそれはね(以下果てしなく脱線します)、
 たぶん逆だね。
 結果をまず決めるのよ。
 決めたことに対して疑いが起こることもある、果たしてどうなるかと将来について不安になることもあるだろう、でも、
 あなたは望む結果についてだけ焦点を合わさなければならない。
 不安っていうのは、
 なんだろうな、絶えず気が散っているような状態だ、
 過剰な欲深さのようなものだ、と考えてみたらどうだろうか。
 あれを失ったら、これを失ったらどうしよう、とまだ何一つ手に入れていないのに心配しているような状態だ。
 あなたにとってそれらすべてが必要なわけでも、現実問題すべてを持ち得るわけでもないのに。
 例えるなら、ピアノとドラムは一人で同時には弾けないし、ベッドと床に敷いた布団に同時に寝ることは出来ないし、沖縄と北海道を同時に目指せるわけがない。
 あるいは自分が本当は何を望んでいるのか実はよくわかっていない、のだとも言える。

 選択によって結果が変わる、わけじゃない。
 結果をコロコロ変えることによって、選択がコロコロ変わるだけだ。
 
 ちょっと飛躍しちゃった感があるので、戻ると、
「自分が決めるしかない」ということが、「わからない」人っていうのは一定数いる。
 いやもっと混乱したケースでは、「自分にしかわからないことがある」ということさえ「わからない」人がいる。
 平たく言うと、自分がない。埋没してしまっている。
 がらっと例を変えると、
「しなければならないこと」を「他者(社会)に強制(誘導)されている」と感じる人がいて、そういう人は、
 自分が決めた、のではなく「決めさせられた」と感じる。

 いずれにせよ、他人任せ、他人軸で生きている。
       
 なんでそんなことになるかと言うと、
 なんでなるんだろう、わたしが教えてほしいくらいだが、
 中学生のときの葛藤を思い出すなら、
「正しい」ことがしたいんだろうな。
 とはいえ「正しい」が何なのかわからない。
 非難されたくない。
 排除されたくない。
 否定されたくない。
 そうした動機に基づいて行動を決めようとするから、
 仮に誰かに否定されたときに、自分の行動の結果を受け容れることが出来ない。
 開き直ることが出来ない。
 そりゃ他人の考えることや価値観なんてそれぞれなんだから、否定されることもあるさ、仕方ない、と柔軟に受け流すことが出来ない。
 なぜ出来ないか、というと、自分の価値観が「正しい」(というより「否定されたくない」)に基づいているからだ。
 自分を否定してくる彼が「正しい」のだとすれば、自分は「正し」くないことになる。
 それは困る。
 じゃあいっそ、彼が正しいのだとするなら、自分を変えよう(彼の「正しさ」に乗り換えよう)、という選択もあるだろうけど、
 いったいそのゲームはいつ終わるんだ?
「正しさ」を追い続けるだけの、それはいつ終わる?
 
 正しさって何だろう?
 わたしがこんなことで五年も十年も悩んでいるとは思えない、と考えた挙句の一つの結論は、
 正しいは人の数だけある、ということだ。
 むしろ正しくない人などいない。
 要するに「正しい」なんて何でもない、正体がない。
 すべての人が正しいのだから、正しさは実のところ何も保証しない。

 あるいはこうだ、
「真実」とはそれ以上問うのをやめること。
 こっちの方が当時考えたことに近い。
 真実というのは、今つかまえたと思っても次の瞬間には、次の朝には、掌から零れ落ちてしまうものなのだ。
 そしてそれでいいのである。
 だって、考えてもみてください、
「究極の真実」、もうこれ以上問うのをやめ、動かざる絶対の真実というものを自分が手にしたのだとすれば、果たして、これ以上生きていて何になるだろうか。
 いや、これはわたしの価値観だけどね。
 っていうか、これもまたちょっと急ぎすぎた展開だけどね。
 つまりこの際の「真実」とは、
 自分だけの法則を、わたしにも彼にも誰にでも当て嵌めることが出来る、
 出来ないとすればわたしの法則が間違っているのではなく、彼や誰かが間違っているのである、というような、
 暴論を展開するのは無為の極み(としての真実)だということだ。
 
 わたしが正しさによって自分を保証したい、と考えていたときには、まったく出口がなかったと言わざるを得ない。
 自分の考えを誰か(出来るだけ権威ある人がいいな。神様とか最高)に、それで合っている、と保証してもらいたい、と考える限り、 
 わたしは地の果てまでそれを探し求めたとしても、ついに安住の地を見出すことはない。
 エマーソンの言う、賢者は自分の家にいて出かけない、というやつだ。
 
 普通日常によくあるのは、何も権威ある人とか神様とかじゃなくて、
 最も身近な人に認めてもらいたい、という欲求だろうな。
 うん、いやそういうことだ。
 そういうことだった。
 親とか、配偶者とかに認めてもらいたい。
 そして、相手の期待に応えることを、自己実現(あるいは自分の果たすべき役割)と勘違いする人がいるが、決してそうじゃない。
「相手が求めること」いわば他人が決めた結果を、あなたのゴールにしている限り、あなたに心の平安はない。
 いつまでたっても、何か不測の事態が起こるたび、応えきれないジレンマを感じるたびに、「じゃあどうすればよかったんですか」と嘆き続けることになる。
 どうすればよかったって?
 あなたはあなた自身のゴールを目指すしかない。
 他人のゴールを目指すことが自己実現ではないことは明らかだ。
 他人を軸にしている限り、自分の人生を生きているとは言えない。
 
 その他人が親である場合、でも親は先に死ぬよね、どうするの。(たぶん親の亡霊が生き続けるのだろうけれど)
 だいたい親を軸に生きてきた人は、次に配偶者(交際相手)に軸を求める。

 

 自分の軸から目を背け続けてきた人、背けることが正しいことだと信じてきた人、

 あるいは、自分は決して正しくない(自分の判断は信用できない)のだと信じ続けてきた人、に聞いてみたいのだが、
 逆に交際相手から親代わりとか、本人に代わる軸とかを求められたとしてみてみ?
 重荷じゃない?
 わたしはあなたの親と違うし、あなたの軸とか知らんし、わたしはあなたじゃないし、ってなりません?
 ならないかなあ。
 

 あ、逆に相手の軸にならなきゃって思う人もいるね。

 まあ根は同じことだけどね。

 お互い、軸は自分にはない、という状態を望む。

 あなたの軸はわたしだし、わたしの軸はあなただし、というわけだ。

 どこまで行っても、自分の軸を自分で引き受ける事態を避ける。

 

 あれっそもそも「悟り」について書こうと思っていたのに今日もまた辿り着けませんでしたとさ。

 ゴールどこだよ。

 

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