親より子供の方が「強く」て「優しい」から、子供は親に寄り添える。

 自分が変われば、相手が、世界が、つまり自分を取り巻く環境が変わるというのは、紛れもない事実だと思うんだ。
 色んな喩え話、色んな原因と結果、色んな経験談を聞いても、実に納得できるし、それらは一々ここで取り上げられないほどの数にのぼる。
 
 たとえば波長ってある。
 波長っていうのは振動数(植物にも鉱物にも火星にもあなたにも、固有の振動数がある。ただし人間は振動数を、信じるが侭に、容易く変えることが出来る)と同じか類友みたいなものだと思っているけど、
 これは明らかにわたしの波長が「それ」に向かって開かれている、というか、「それ」に合わせるようにチューニングした結果なんだろうな、と考えるのが自然だ、という、
 似たような経験を次々とすることが、わたしにも実際に経験がある。
 
 自分が変われば、状況が変わる。
 自分の視点が変われば、世界はそれこそ一変する。
 それは、自分をコントロールするのは自分であって、世界(他者)ではないということだ。
 
 自分が変われば相手が変わる、それって自分が我慢すればいいってこと?と訴える人と話したことがあるけど、違う違う、それはカウンセリングへ行って下さい。
 あなたの感情に蓋をしてきたのはわたしじゃない、あなた自身だということにまず向き合わなくてはならない。
 理解する楽しみのある算数さえもすっ飛ばして、公式を暗記するだけのような数学に親しむのは、おそらく誰にとっても至難の技だから。
 
 あなたの感情に蓋をしてきたのはわたしじゃない、あなたでもない、あなたの親である、というところからはじめなくてはならないんだろうね。
 親って不思議だね。
 それは、わたし自身が個別に親というものを感じているだけでは、不思議でも何でもなかっただろうな。
 他人の、親に対する観念というか信念を知ってはじめて、不思議に思えたことだ。
 子供のとき、母親がもし自分のクラスメイトだったら、と考えたことがある。
 そうだとしたら、果たしてわたしは彼女を好きだったろうかと。

 単にクラスメイトの一員だとすれば、彼女に対して、どういう位置付けを自分はしただろうかと。
 その話を大人になってから、何人かの友達にしたが、「わかるわー」という反応を貰えたことはない。


 おそらく、わたしは自分の母親のことを、母親というフィルター、

 というか母親という配役を通してはあまり、そこまで、全面的には、好きになれなかったんだと思うな。
 母親が不要だとか嫌いだとか思ったことはないが、どうしたって必要だと思っているけど、これって「好き」と言えるのかな?と素朴にふと、疑問になったことがあるんだ。

 

 あなたの感情に蓋をしてきたのはわたしじゃない、あなたじゃない、あなたの親だ。
 というところから成育史を振り返らなければ自分の気持ちを確りと持てない、持つことに躊躇う人って、生来優しいんだと思う。
 本当に、優しいんだよ。
 だって、親だって実は子供みたいなもの、子供の延長が大人だからね。
 大人の方が複雑で余計なものを、生きてきた分だけいっぱい背負っている。
 そんな大人である親の事情を、子供が理解しようというのは、難題だ。
 でも、にも拘らず、子供は親に寄り添う。
 この際、無力な子供は親に頼るしかないからだ、という解釈はわたしはあまり好きじゃないな。
 子供の方が、実際には、余計で複雑なものを背負っていない分、
 とてもシンプルで純粋で、力強いからだと思うんだ。

 親より子供の方が強いから、子供は親に寄り添える。

 実際にはがらくたみたいな、抜け殻みたいな、荷物を一生懸命に背負って生きている大人である親の方が、とても弱いんだよ。


 わたしはそう思う。
 あなたはどう思う?