女性に生まれてよかったこと①

 わたしが女性に生まれてよかったなあと思うことの一つは、
 女性が〈客体〉であることだ。
 男性が考察し、表現した物が多数を占める中では、概ね女性は「表現される対象」として扱われる。
 作家、を分けて女流作家、
 ManとWomanとか、
 Man is...を「人間は…」と訳すのが自然だったりとか、
 そういう女性からすればある「違和感」を持てたのは、つまり「客体」としての自分、という視点を持てたのは、よかったなあと思う。 
 人間と女、という構図。
「二次元の世界」という十九世紀末に書かれた小説にも、
「われわれは」、という地の文の主格が、わざわざ注釈を加えるまでもなく男性を指しているくだりがある。
 われわれ、と言われて全体を指しているものと読んでいると語尾へ至って、ああ女性は含まれていないのか、というような、
 女性としてはすっと入りにくい表現、
 いや、入っていたのに放り出される感というか。
 こういう現象に対して男性は無自覚であるということを男性の方が言っておられて、
 なるほど、男性というのは「男性社会」であるということに、無自覚にもなれるよなと思う。
 そもそも言語自体、男性が主体となって生まれたものだなと感じたこともあるが、そういうことにおそらく「無自覚」である。
 上にあげた小説だって、そもそも女性の読者を想定していない。
 と感じるほどの読みづらさはところどころにある。
 でもその読みづらさが、世界を認識するときの「気づき」として多くの材料を提供してくれているとも言える。
 
「サル学の現在」でも、研究者はメスザルについては顔も似ていて判別もしづいらいし、よくわかっていない、という見解を出していたのだが、既存の研究者とはすべて男性なのであって、
 女性の研究者がフィールドに乗り出していくと、彼女はメスザルの顔の方が判別がつきやすいし、メスザルの行動に対する推測も立てやすい、ということがあった。
「そうだったのか!と頭をがつんとやられた気がした」のは男性研究者の一人である。
 あらゆる目線のデフォっていうのは男性に設定されていて、
 女性からすればプロパティを開いてチェックを外すという手間隙をかけないと違和感なくそれを使えない、というようなことがある。
 
 でもだから、不便なことってあるけど、「それがいい」。
 不便は便利の母であると言ったのは誰だっただろう。