神は裁かないよ。
つまりさ、神は裁かない。
裁くのは常に人であって、その裁きは常に欺瞞と不公平さに満ちている。
神は人が考えうるより究極に公平だ。
神は裁かない。
でも宇宙の法はある。
誰にでも等しく働く法則があり、そしてそれしかない、それが究極の公平さだと思う。
何かを許せても何かは許せない、
何かは好きでも何かは嫌い、
何かに感動を覚えても何かには無反応、
何かは尊敬しても何かは軽蔑する、
こうした態度は、良い悪いとかいうことじゃなくてただ狭量なのであり、
人間にとって程度の差はあれど、所詮神よりも狭量である、ということは当たり前であって、嘆き悲しむものでも恥ずべきものでもない。
思う存分好きを謳歌し、尊敬を感ずる心に打ち震え、許せることのリラックスに休息するのがいいと思う。
だが、神もまたこうした狭量さを幾ばくかは持っているかもしれない、と考えることは、わたしには耐え難い。
そんなわけない。と思う。
まだ思春期の頃、神様が殺人を禁じた、と聞いて、そんな馬鹿なと思った。
全知全能たる創造の源である神が、もし本気で殺人をタブーにしたいと願ったなら、そもそも人は人を殺す手を持たないだろう、人を殺すという発想を持たないだろう。
タブーっていうのは何でもそうだが、破られる時を待っている。
これは言うまでもないが、殺人を推奨しているわけではない。
わたしだって自分が殺されるのは嫌だし、親兄弟が殺されるのは途轍もなく悲しいし腹立たしい、まして誰を殺したいなどと思うだろうか。
でも、神様が禁じたってのは嘘だと思った。
神は裁かないよ。
そんな暇があるなら創造しているよ。
神様って究極にアグレッシブだと思う。
くよくよしたり、こうすればよかった、ああすればよかった、と振り返っている暇なんてないくらい忙しく、朗らかに笑いながら、新たな創造をしていると思う。
悲しむのも過去を振り返るのも広義には創造に違いないけど、
それはどこか、わたしの考える「カルマ」ってこういうことかな、という気がする感じの創造。
もちろん、神のようではないから自分はダメだってことじゃない。
だいたいそういう発想はそもそもおこがましい。
わたしたちは神の一部であって全体ではない。
神の一部という立場をフルに生かすには、大いに嘆き悲しみ、大いに笑い、大いに苦しみ、大いに歓ぶ。
過剰にならなくていい、大いに、とついつい語感良く言っちゃうけど、そこそこ、でも構わないんだよ。
カルマだって神が創ったものだと思うしね。
ただ、神はそれを体現出来ないの。
だからわたしたちがそれをする。
それだけ。