「あずみ」第一部読了。聖女来たれり。ところで売春をして傷つくのは魂じゃなくて自我だよ。
そう、批判は何も生まない。
そして思考だけが、それに基づく想念だけが、
あるいは信仰のみが。
自分自身の現実を創る。
善も悪もない。
聖書ではその昔、神がアダムとイブに善と悪を判断する実、知恵の実だけは食べることを勧めないと警告した。
それは甘くない。
それは苦いと。
善も悪も本来はない。
良いも悪いもない。
それは判断にすぎない。
それはあなたの信念を反映したものにすぎない。
そして実際のところ、それは世界の実相とは、ほど遠い。
それはまったく実体を持たない。
それらはいかにも実体をもって迫ってくるように思えよう、だがほんとうは他の誰でもなく、ただあなたが実体を与えているだけだ。
嘘だ、という。
信じられない。
そんなわけがない。
実際のところ、それら疑いに対する何ら適当な答えをわたしは持ち合わせていない。
実に残念なことに。
*
「あずみ」を読み終わった。
最後の最後に、第一部・完とある。
頼むぜ、ほんとに。
これをもって、中途半端な、まだ続きがあるような終わり方なんですよねと言いつつ貸してくれた、整骨院の先生を誹るわけにはいかないが、
それにしてもやな。
どこかで、ユーチューブのまったくあずみとは関係のないコメント欄で、あずみが処女で終わっているのは残念だとあった。
それは、ニュアンスは違うのかもしれないが、わかる気がする。
途中で、あずみの作者は男かな、女かなとふと思った。
まあどっちだっていいんだけど、
男だったな。
それで、とつおいつ思い出すに、「がんばれ元気」とか、「おーい竜馬」とかもこの作者だったな。
苦手だったなあ、なんか。
うまく言えないが、この世界観というか、この骨肉迫り、迸る血と涙と汗の感じが。
たぶん、たぶんですよ、
この人の漫画においては、スーパーヒーロー(ヒロイン)を除いては実に無力に散っていく。
それらの人たちへの哀れみは描かれているが、それが哀れみであるからこそ、どこかわたしには物足りない。
苦手だなあ、と思っていたものを意外と面白い、と思って読んでみたら結論やっぱり苦手だったという。
あずみが処女でなくなる、というか、女にとってのセックスを描くにはおそらく、あの人は力量が足りない。
じゃあわたしなら足りるかっていうと、これは実に難しいだろうな、
特に「あずみ」のような設定では。
平凡にまとめてしまうと、聖女か娼婦(か老婆・幼女・醜女)なんだよな。
最後(第一部の)に出てきたお万は(おまん、)、やることはやっても他の男からは操を貫き亭主が亭主たりうる前に死なれる意味では、聖女の類だね。
実に色気むんむんだが。
あずみだってそうだ。
無味乾燥な女じゃない。
情に篤く、情に脆く、素直で、純粋で、どこまでいっても男とは交わらぬ「女」。
あずみは、最初に作中で言及されているように、「菩薩」的存在だ。
あずみが男と経験したら、あの話は根本から覆るだろう。
平たく言えばあの神性、あの聖性は台無しになるだろう。
でも、なんなんですかね。
と思うな。
一、市井の女とすれば。
やればいい、とは思わない。
やれば台無しになる。
それは確かだ。
あの作品においてはね。
なんなんだろうなあ。
女を極端に扱いすぎる。
ここでわたしの「セックス」観について言うなら、
それは要するに何でもない。
「食」についても「住」についても同じように。
あるいは権威についても同じように。
あるいは常識。
処女であることが財産ならば、非処女であることも等しく財産であり、
お金持ちであることが財産ならば、貧乏であることも財産であり、
男であることが財産ならば、女であることも財産である。
セックスをしようがしまいが、「魂」からすれば何でもない。
そういえば「売る・売らないはワタシが決める」で言及した、河合隼雄が、売春をすれば魂が傷つくと言ったことを以前取り上げたが、
結論から言えば、そんなことはありえないというのが、
わたしの見解だ。
売春をすれば傷つくのは魂ではなく自我なのだ。
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