ひとは一人になりようがない。一人なんてもう人とは呼べない。鏡のないところでどうやって自己を認知できるだろう、という比喩。

 言語バーが消えたり、動作が遅かったり不便でもうだめかなと、このPCが、そう思って二万円くらいであるというPCを探していたらあるにはあった、
 しかも小っちゃ!というコンパクトさで。
 レビュー見ているとOSが入ってないとかOSはインストールできるとか、
 本当にこれ使えるのかなあ、設定とかわたし一人で大丈夫かなあ、
 と思うとついパパを頼りたくなるが、だめだろうな。と思う。

 人は一人では生きられない、というが、
 前にも何度か思ったことがあるが、
 そもそも人がいったいどうやって一人になれるというのかね、と思うのだ。
 人はデフォルトで一人ではないし、オプションによって一人になれるわけでもない。
 一人で生きられるわけがないんだからさ、とわざわざ言うまでもないし、
 一人になったらどうしよう、というのもまさに実体のない恐れとしか言いようがない。 
 一人でいいよ、とたまに口にするけど、実のところわたしは一人がどういう状態か想像もつかないと思っている。
 一人なんて寂しいじゃない、なんていうのも、何をいわんとしているのかわからないしあまり興味もない。
 一人、という状態を信じていない。
 誰かしら人がいるじゃん。
 家族じゃなくても今のところ友達じゃなくても。
 だから伴侶もいらない。

 子供もいらない。
 子供を恐れていた理由の一つに、自分の子供をえこひいきしてしまったらどうしよう、というのがある。
 これはよく喩えて言うんだけど、自分のとこにいた猫が帰ってこない、事故に遭って死んでしまったなら悲しいけどもう仕方がない、でも、
 もし保健所なんかに収容されていてわたしの迎えを待っていたらどうしようって心が千々に乱れたことがある。
 でも、じゃあもし迎えにいったとして、そこには自分とこにいた猫だけではなく大勢の猫たちがいる。
 そこでわたしのとこにいた猫、だけを選りだして連れて帰る、と考えるともうこれは幾億とも知れない苦悩がある。
 わたしはそういうのが耐えられないんだよ。
 
 子供のときに考えたことがある。
 お母さん、お父さん、弟、(妹はまだいなかったと思われる)いずれかだけしか助けられないとしたらいったいわたしは、
 と思うともうだめだね。
 まあでもだめ、なんだけどそのときは、親だなと思ったな。
 兄弟っていうのはわたしのなかでは同列なんだけど親はそうじゃない。
 兄弟っていうのはわたしにとってわたしに連なる者というか、同列っていうか、わたしに類する者、わたしと同然、みたいな、
 つまりだから心配はない、というか。
 でも親っていうのは、なんていうか、他人なんだよな。
 ちょっと心配だ。
 
 子供をえこひいきしてしまったら、と思うと子供なんて持つだけ苦悩の種になるというか、
 恐れの種を蒔くことになるというか、
 そういう感じってたぶん、友達とかはわからないだろうなあと思う。
 自分の子だけは可愛いっていう感覚が、わたしにはわからないというより、奇異に思える。
 その確信はどこから来たのかと本当に不思議に思う。
 まあ自分の子はいたことないので、いたらわかる、と言われたらそれまでだけど、たぶん、いや。
 自分の子だって他人なんだけど、
 果たして自分は他人と思えるだろうか、どうだろうか、心配だ、というような恐れがあった。
 果たしてわたしはそこをクリアできるだろうかというような。
 そしてクリアできない限りにおいては、わたしが子供を持つことはないだろうと思った。
 つまりまだクリアしていないし、クリアしていないままに子供を持てば、やっぱりわたしは自分の子だけは特別可愛い、と思うんだろうなあと、
 思うとすれば何も奇異ではないじゃないか、
 奇異なのはわたしがそのことを恐れているってことだ。
 自分の子は別格に可愛い、
 ヨソの子とは違う、
 という感覚を疑いもなく天然自然のものと出来ることが、わたしにとっては驚異的に思える。
 そしてそういうことが、わたしには昔から、他人と分かち合えない感覚としてあった。