いじめは、いじめられる側に原因があるって考える人?とかさ。

 結局自分が書いた文章、自分が開示した思想というのは自己紹介になる。
 それがわたしはこういう人間です、わたしはこういうことを考えています、というストレートな、直喩ではなく、
 他人を批判するという間接的な、隠喩であれ、そこには自分自身のもつ信念や思い込みがにじみ出る。反映される。


 わたしのことじゃなく、他人について思うことなのだが。
 これは、
 入り組んでいる。
 わたしのことじゃない、わたしがかわいそうだなんて言わない、でも虐待されている子がかわいそうだ。
 かわいそうっていうのも本当に不思議な概念である。
 上の際、かわいそうっていうのは、自分ではない、自分に使おうとは思わないという謙遜じゃないが遠慮じゃないが、
 わたしは「かわいそう」には値しないが、くらいの、
「かわいそう」に対する価値の付与がある。
 または被害者である、ということに「重要性」を置いているように思う。
 被害者である、ということがいかに見過ごされてはならない重要問題であるかを強調するものである。
 いやこれは行き過ぎの話だ。
 傷ついてはいけない、ということを言っているわけじゃないし、
 そもそも、傷つかないのなら、
 わざわざ地球で人間なんてやってないんじゃないだろうかと思うの。
 傷っていうのは、朝になれば太陽が昇るというくらい自然な現象ではないでしょうか。
 転べばかすり傷は負うし、痛いと感じるのも自然なことだ。
 でもそれを自分の落ち度だとか、なにか自分には悪いところがあるに違いないといつまでも悔やむとか、責めるとか、
 あるいは、転ぶような道があること自体が悪い、この責任を誰かが負わねばならないとか、
 そういうのは過剰だろうっていう話なの。
 傷は単に癒されていいものだ。


 わたしは過去に、「かわいそうなんて人に向かって言うもんじゃないよ」と友人に言ったことがあり、
 時を経て、「でも世の中にはかわいそうって言われたい人間がいるんだ」と知ってカルチャーショックを受けたことがある。
 それを、「そうやで」と若干嬉しそうに言われた(気がする)が、
 いやこのカルチャーショックっていうのはだから、じゃあこれからはじゃんじゃん人にかわいそうって言ってあげることにした、という話じゃない。
 たとえるなら、
「人に死ね、とか糞が、とか言うもんじゃないよ」という、
 こういう、誰だって言われて気分はよくないに違いない、という揺るぎない、自明の認識であったものが、
「いや、中には死ね、と言われたいひとがいるんだ?」
 まじ?なんで?どういうこと?わからん、というさ。
 死ね、と、かわいそうは同一ではない。
 これはたとえです。
 自分の中で自明であったものが揺れ動いた、だからといって、
 価値の転覆というか、180度転回して、これからは「死ね」っていうようにするねとはならんでしょう。
 わたしのショックというのは、
 わたし自身自明の理としてほとんど意識さえしていなかったものが浮き彫りにされたというショックであって。
 女性の研究者がフィールドへ出てみると、あんたたちオスザルは区別はつくっていうけど、わたしからすればメスザルの方が顔の判別つきやすいよと言われて「頭をガツンとやられた」気がした男性研究者の気分、なのであって。


 死ねって「悪い」言葉だと思ってたけど「良い」言葉だったんだ、
 みたいに単純に転回しないし、
 それはやっぱりどっちみち「悪い」言葉だという認識である。
 でもなぜそれが「悪い」と感じるのだろうか、ということが、
 今度は気になってくるわけ。
 
 なんで「かわいそう」って言っちゃいけないんだろう?
 なんで人は人を殺してはいけないんだろう?
 みたいな。
 なんで人を殺しちゃいけないんだろう?という問いは、
 人を殺すのはそれが正義であることもある、というような物言いを、そうかもしれない、と受け容れることでは到底なく、
 むしろより強固に、あほか、ありうるか、という思いのすることである。
 
 確かに論破したくなりますよね。
 この際相手をやりこめてやろうとか、そうじゃなくて、
 わたしが、気になるわけ。
 わたしが、そこのとこにこうだからこうだ、という確たる短い答えの持ち合わせがない、ということが、
 どうにも気になっちゃうんですね。
 
 まあこれはゲームといえばゲームみたいな、
 思考を鍛えるゲームというか、
 そういう捉え方でもいいんだけど。
 だから、
 だって自分が殺されたらいやでしょ?
 自分の子供や親が殺されたらいやでしょ?
 でもいいんだけど、
 それでは、わたしが、物足りない気持ちがしている。
 いやそれだってもちろんそうなんだけど、もうちょっと何かないか、と感じるわけです。
 そこで終わるのはもったいないな、というか。

 昨日かな、おとといかなもう、
 友人とスカイプでやりとりしていて、
「がん細胞を優遇すると共倒れになる」的な物言いの引用を送ってきたのを読んで、
 がん細胞っていうのは、年寄りや障碍者の比喩なんだよ。
 もうね。
 咄嗟にばかかと思って、こういう発言をする人っていうのは、
 そこでちょっと語気荒く、
 誰かをつかまえて社会的弱者と疑いなく切って捨てられる人は誇大妄想、
 弱者役を受け容れる人は被害妄想、
 みたいなことを送ると、
 それは悲しい、と返ってきたのが、
 実はわたしは嬉しい。
 嬉しいっていうと語弊があるが、
 なんか新鮮な気持ちがした。
 やっぱりズレっていうか、
 歩む段階というか、
 彼女がいまいる場所とわたしがいまいる場所は、仮に言うならば、違うんだなと思うことがあるから、
 わたしはあまりこう、難解なというか、
 彼女の理解や共感の追いつかないことを言ってもしょうがない、という気のするときがある。
 あ、やっちまった、言い過ぎたみたいな。
 いやいつか、なんだろう、どうだろう、彼女がどこへ行くのかそれはわたしのあずかり知らぬことではあるし、
 わたしの見ているものがいずれ誰であれひとも見ることになるだろう、
 とは必ずしも思わないがおそらく絶対にそうは思わないというわけでもない、というちょっと曖昧なままに放置している思いがあったり。
 わたしが嬉しいと感じたのは、彼女の感じた「悲しい」という気持ちをわたしもかつて抱いたことがある、と思い出すような、そういう経験です。

 わたしは自分しか愛していないから、他者の痛みには無頓着だ、共感できないと、かつて彼女は言った。
 
 わたしが疑っているのは、
 彼女がいわゆる「毒親」(って言葉あまり好ましくはないが)に育てられたという経験が、およぼす影響について、
 疑うというか、望みというか、
 そのたぶんあるであろう影響を脱して自分自身に還る、ことは可能なんじゃないかという。
 スカイプでやりとりする件の友人が送ってきたスレッドに、
「わたしは彼女の糧ではなく餌にされたと感じた」ってのがあって、
 これも、
 なんだそりゃ、と言っちゃうとそこで終わっちゃう。
 
 糧でも餌でもいいけどさ、と返信した。
 糧っていうと良さげだけど、これ糧でも餌でも同じなんじゃない?
 要するに自分が消化されるわけでしょ?
 消化される食べ物として自分を捉えている。
 そしておそらく、自分も立場が変われば相手を消化する食べ物のように扱うのだろう。
 そういう構図が、この発言をした人の中にしっかり根付いている。
 そういう構図、そういう構想、そういう価値観が。
 よく、
 この人味方かなと思うとものすごく頼ってしまうというような、
 もう、
 味方、の意味からわからない、というか、おかしい。
 つまりそもそも二元的、
 敵か味方か、白か黒か、0か100か。


 いじめに加わらなくてもそれを見ているだけの人も加害者だ、っていうの、
 わたしあれ嫌い。
 とはいえ、わたしにはその罠に落ちかけた経験がある。
「子どものねだん」(タイにおける児童売春を扱ったレポ)を読んであまりな悲惨さに、あまりな無力感、虚無感におそわれて、
 これを手をつかねて何もしないわたしも、加害者の一人である、というふうに思ってしまったことがある。
 しばらくそれにやられていたんだけど、
ボーイズ・ドント・クライ」を観て、当時性同一性の子と暮らしていたから、もしこの子がそんな目に遭ったらわたしは相手を殺しに行くと心に決めたとかね、
 なんの「もしも」だよって話なんだけど。
 こういう義憤にまつわる仕掛けあるいは罠っていうのは、
 すごく巧妙に自分を騙すよね。
 
 そう、もう自分を騙すんだよね。
 いじめっていうのは、いじめる側もいじめられる側も同じ価値観、一枚のコインを共有していて、表になるか裏になるかという、
 わたしは何があっても絶対に裏しかやりませんという人もいるだろうが、
 裏をやらなきゃ表をやるしかない、
 わけじゃなくて、
 そのコインを手放すという選択肢だってありうることには、そこで追い詰められる人たちは、気づいていない。
 気づいていたとしても、それが何だってなっちゃうんだね。

 手放すことはまるで「現実的」ではないというかね。

 
 食うか食われるかなら食われます、
 みたいなさ。
 いやわたしはどっちもやらないよ、という選択だって可能なんだよ。
 この際いじめに関してはね。
 そのコインは手放しても死にゃしないよ。
 わたしはいじめに関わったことがない。
 小学校でも中学校でもいじめられたこともいじめたこともない。
 傍からどう見えようとも主観的真実としてはそうだ。

 周囲に起きていることを横目に見ながら、あれは何してるんだろうって共感しがたく思っていた。
 快か不快かでいえば、不快だったから、
 もしわたしの目の前までやってきたなら、退けるけど、と一人で妄想・奮闘したことはあるけど。
 こうした態度を、見て見ぬふりはいじめの一部、みたいな言い方をして、
 レトリックを駆使して、
 その体制に取り込もうとするのはやめなければならない。
 また、取り込まれることはやめなければならない。
 取り込もうとすることは、他者への働きかけがいるが、取り込まれないようにするのは、自分ひとりで出来ますからおすすめ。
 
 悪意はないってのが問題なんだな。
 なんなら、半周まわって善意である、ということが。
 だから、かわいそうっていうのも、そういう問題がある。
 悪意があってしていることっていうのはタカが知れている。
 いっそ潔いほどだ。
 でも善意があっての、正義があっての、大義名分があっての行動ってのには歯止めがきかない。

 ギアをあげればあげるほど「よい」からだ。

 

 こういうことを伝えたいんだけどなかなか伝わらないんだよ、友人に。
 わたしもそれ、やったことあるけどね、
 それはね、
 と言いたいんだけど、下手なせいだろうか、うまくない(まんまやな)。
 Pにも言われたよな。
 それ、いじめはいじめられる方が悪いって考え?とか。
 もういいからそれ。
 違うよっていうのにもそろそろ飽きてきた。
 次行きましょうかということで最近興味があるのが、
 認知言語学、比喩、とりわけメタファー・隠喩に関して。
 
 レイコフとジョンソンという人が共著でしるした「レトリックと人生」をこれから読んでみる。
  
 そういえば「わかっちゃった人たち」を結局読んでいるんだけど、
 面白いわごめん。
 何書いてあるかだいたい予測できるなんて言っちゃって失礼した。
 かといって、目を瞠るような内容でもないんだけど、面白い。
 わたしにとって目を瞠るような内容っていうのは、昨日なら、本じゃないけどシュタイナーを解説しているサイトで、
 動物は人間から排出されたものである。
 とかいうようなことだ。
 そもそも動物ってカルマあるの?誰かこれについて言及してないの?と思って検索したら、それがヒットした。


 わかっちゃった人たち、の一人目、
 だいたい、アフガニスタンの問題は?イラクは?とか言うひとって、自分自身から逃げているんですよね、
 という言い切りがもう素敵だった。
 いじめはいじめられる側に原因があるっていうこと?とかね。
 これ、アフガニスタンは?とかって聞いてくる人と同じだと思う。
 
 そうやって次々と問題を出してきて、
 自分の外側の問題をいつまでも吟味して、
 自分の内側を見ることを避け続ける。
 
 自分だけが可愛い人間なんだ、とか、
 自分だけしか愛せない人間だ、とか、
 ちょっと待てと思うわけ。
 こういうとき、言葉が邪魔をする、というのはよく実感できる。
 谷崎潤一郎の「文章読本」を久しぶりに読み直してみようと思ってさっき、最初のほう読んでいたら、
「言語が万能」だと思うのは勘違いであるというような記述があって、
 そうなんだよなあと思った。
 自分の中にある自覚されていない概念を言語化することによって、
 より深い自覚を阻むということが、ある。
 もちろん、より深い自覚を促すってこともあるんだけど、逆のこともあるということに注意をはらわないと、右を向いたつもりがいつのまにか左を向いていることになりかねない。
 それで自分は右を向いていると人に言葉で説明する。
 こうなるともはや混乱しかない。
 自分は善行をしていると思っているが実はそうではない事態に陥っていることがある。
 正義を行うつもりが、やっていることは人殺しだってことにもなりかねない。
 こういう事態を避けるためには、
 今日出した結論を明日にまで引きずらないということしかない。
 あなたは究極の結論とやらに辿り着けばこれ以上思い悩むことはない、
 と考えてそれを求めているのかもしれないが、
 そんなことはありえない。
 ありえないですから、そんなものを求めるのは金輪際やめにしましょうと呼びかけたい。
 呼びかけないけど。


 今日のあなたは今日の終わりに死に、明日のあなたは明日のはじまりにまた生まれる。
 カルマっていうのは結局、これをそうじゃないと思うことそのものを指すんじゃないかなという気がする。
 カルマは過去の痕跡であるというのは、そういう意味でなんだか腑に落ちる説明だった。
 わかっちゃった一人目が、記憶なんて捨てなさい、ないほうがいい、というのもそういう意味ではわかるなと思う。


 忘れちゃったらわたしじゃなくなる。(宇多田ヒカル真夏の通り雨、より)
 というのが泣けてくるのはそういう背景がある。
 忘れちゃったらわたしじゃなくなる、という思い込みは世間を席巻している。セケンをセッケンしている。
 

 いや、

 だからもう謝ったじゃん!

 許してってばよ。 

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