波動が高いとか低いとか。
スカイプや実際会ったり、で交流する友人を攻撃しているつもりはないんだけど、
あっもしかして彼女にストレスを与えているかもしれないという気はして、わたしはいったい何をしているんだろう、と思うし、あきれる。
OSHOが、人と関わるならば、本当にそう願うのなら、あなたは人から憎まれることをも引き受けなければならない、というようなことを言っていたのを、思い出す。
すべては自由である一方で、
目覚めよ、というキャンペーンが世の中にあることも、わたしは感じている。
昔のことは知らない、覚えてない、でももしかすると昔から、
というのは二千年よりもっと前から、
そういう教えはあっただろうと思う。
たとえば、イエス・キリストがそうだし、ブッダがそうだ。
わたしは目覚めたことのない人なんていないと思ってるんだ。
記憶になけりゃ経験に勘定しないとすれば、その人は目覚めたことはない人ってことになってしまうが。
眠っている間に魂はあの世に充電しにいってる、という話がわたしは好きだ。
眠っている間、マインドはお休みだ。
ってところまで書いて、明晰夢ってどうなのと思って調べていたら思わぬ面白いサイトなんか見つけちゃって、読みふけってしまった、いかん。
ホ・オポノポノ、これは別なる友人も言っていたと思う、わたしも何となく知っていた、それでふとこないだ図書館で見つけて惹かれたので借りてみた。
要旨はこうだ、
「ごめんなさい。ゆるしてください。これを引き起こした原因はわたしにあります」
と唱えなさい。
そしたらもう全部うまくいくんだぜというほどの、オシ。
えー、なにそれ。
と思っていたが、試しにやってみると、いやこれはいい。
仕事で、怒っている客ってのがいる。
怒っているので、マナーも悪く、何なら自分が怒っているってことをアピールしたいためだけにさらに悪く、従業員に当り散らし、罵る。
当然わたしは厄介だなと思うわけです。
で、件の呪文というか祈りというか、を唱えてみると、
不思議と、笑えるようなことがどんどん起きる。
しまいには怒っていたはずのその客まで笑っている。
あ、これは、すごいなと思った。
ゆるしてくださいっていうのは、なんていうか、それまでにも何かどこか色々と接してきたことのある、いわば魔法のフレーズ的なものだが、
これを唱えることに抵抗のある精神もあるだろうなと思う。
そう、今唐突に思い出したけど、広島の原爆ドームに、平和公園に、
ゆるしてください、わたしたちは二度と過ちを犯しません。
だったかな、
これをわたしは中学生のときに知って、
なんだそれっていう不思議さと不条理さと、かすかな苛立ちとを覚えたものだ。
いったい誰が誰に謝っているんだっていう、
この謎の低姿勢に関して、
不愉快さと怒りを感じた。
こういうことでも、「ゆるしてください」というフレーズの、
だから、抵抗があることがあるというのは、なんとなく想像できる。
でも今思うに、
「ゆるしてください」だろうが、「ゆるします」だろうが、要するに「ゆるし」、というものには、
圧倒的なパワーがあるように感じられる。
原爆関連でふと「クレヨン王国」も思い出したな。
まゆみ、とサード(さぶろう)の物語。
道中出てくる、平たい大きな病んだ足をもつ、憎しみを体現するかのような女性が印象的だった。
あの挿絵もとても好きだったなあ、あれは、不思議な話だったなあ。
最後まで読んだのかどうかも覚えていない、オチを覚えていない、
ただ幻想的な雰囲気に惹かれていた。
読み直してみようかな。
ゆるし、は許し、であり、許可でもある。
これは、(自分を)癒すこと、(自分が)癒されることを許可しますという、魔法のようなワードなのじゃないかな、という気がする。
そうして自分を癒すことを選択できると、許可できると、
そのあたたかい波動は、周囲にも及ぶのではないかな、という気がする。
どんどんあるので、どんどん次へ行きますと、
ふと検索して飛び飛びしたサイトに、
波動が高いのと人格が高いのは必ずしも一致しないよ、という、例えば、
のび太とジャイアンだったらジャイアンの方が波動が高いんだよ、
というのを読んで、
いや。
まあ、そうと言えばそうだなあ。
と思った。
しかしその例え、どうなのという気もするが、
のび太?ジャイアン?誰それ?という人はおそらく少数派であろうことを鑑みれば、良い例えであるのかもしれない。
ちなみに、余談だけど、わたしは藤子不二夫は天才なんじゃないかと驚嘆している。
そういうことを、思い出しつつ、仕事をしていると、
よその店で負けちゃった客が、
負けた口惜しさと怒りでテンションの上がったまま、よその店で同じテーブルについていた他の客の頓珍漢さに悪口を言う、あんなんヨウゴやでと口走る。
わたしの常識というか、持って備えた人格というか、素朴なる善悪観からすれば、それはあかんと思うんだけど、
でもどこか、そうした思いつきで発した一言だけにフォーカスするのではなく、全体を見れば、
こういうのも波動が高い状態なんじゃないかなと、
高い低いなんて相対的なものだから、わたしからすれば、というほどのものでしかないが、思うのです。
あとなんかもういっこくらいあった気がする、
そうだ、
件の友人とスカイプしていて、「他人は存在する」
と言っていたことが実に印象的で、興味がやまない。
果たして、他人は存在するのか?
この場合、「他人」もそうだし「存在」もそうだし、「する」もそうだし、
色々とこう、糸口を掴んだかのような、フレキシブルな探求したがりのマインドの動きが活発になる、
この感じって、たしかに嫌いじゃないなあ。
わたしはマインドを嫌いなんかではない、もちろんない。
わたしは、マインドのことをすごく、頼りにはしていないが、ともかく好きなんだ。
そんなこと考えちゃうの?そんなこと問題にしちゃうの?
すげーな、っていうある意味リスペクトはある。
すっげーな、オラわくわくしてきたぞ、
っていう。
どうでもいいけど理想の男性像は?と聞かれたら、そんなもんねーよ、と思うが敢えて言うならば鳥山明えがくところの孫悟空だし、
誰か会いたい人、有名人とか、いるとすれば誰?と職場にかつていた、男の子、
に聞かれたときにまったく思いつかない、別に誰に会いたいとかないな、
と答えたけど、
今思いつくのはババジだな。
ババジ、会いたいや。