お休みだから長々と「他者が存在する」とはどういうことかについて、書いてみました。

 わたしに足りないのは恐れかもしれない。

 わたしが愛するものは詩だ。
 踊り。
 いのちの舞、煌き。

 さ、表現してみなよ。表現、それこそは、
 それこそが。
 表現することが。
 こういったのは、わたしの記憶では、ロートレックだ。
 
 いま生きているということが奇跡のように思う。

 瞑想を本当に、避けてきたけれど、してみようかなあとおもう。
 
 子供は軽い、身軽で羽が生えているようだ。
 動物でさえそうだ。
 仔とつくものの軽やかな動き。
 リズム。
 思い出すのは、大きくなりたくないという子供の頃にすでにあった思いだ 。

 思いは重い。
 思いは重いんだなあ。

 雨雲の上は晴れている。
 明けない夜はない。
 わたしはこのことに関して感謝しかなく、
 喜び、嬉しさのほかはなく、
 明けない夜について延々と嘆いている暇がない。
 暇がないはずだけど、
 明けない夜、闇、これへの魅力、抗しがたいこのあえて言うならば美しさ 、なつかしさ、なまぬるさ、
 かつての知己への親しみ。
 
 わかる。
 
 わかるわかるわかる、でも、
 そこじゃない。

 わたしは軽々として羽でも生えて、いきたいところへいきたい。
 いっそ、それ以外の何に価値があるのだろうとさえおもう。

 自分が実現したいこと、それ以外に何の価値があるだろうか。


オスカー・ワイルドがいった、
 ターナーが描くまでロンドンに霧はなかったと。」
 と、わたしが好きなイブサンローランの映画で、彼の伴侶が言っていた。

 (アマゾンプライムビデオで観れるよ)


 人間として生まれるのはたいへんなことだ、
 と一方のわたしがいう、
 もう一方のわたしは、そんなことないぜっていう。
 
 どちらの側面を見るのかってことなんだな。
 結局。

 そのときの気分とか、いやまあもう気分だな、気分によって、
 自分がどちらの側面を「見る」のか、「見たい」のか、
 決まってしまう。
 
 うちの可愛い猫ちゃんと接していてふと思った、
 人間として生まれるのはたいへんなことだ。
 たいへん、それだけじゃわからないよね。
 たいへん素晴らしいとも、たいへん困難だとも。
 どちらの意味を含めてもたいへん。
 たいへん、だけじゃわからない。

 どちらの意味を含めてもたいへんであり、
 わたしはそれらをとても貴重なとても愛すべきとても奇跡のようなことだと思っている。
 本当かしらと疑いたくなるほど美しいものと感じている。
 言葉はたまにばかみたいになる。
 この本質を言い表すことはとてもできない。
 
 他人っていうのは、それがどんなに悪人であれ善人であれ、醜かれ美しかれ、好ましかれ、そうでなかれ、自分の側面の一つにすぎない。

 他人は存在する。
 それは、他人は(決定的な)悪人(もしくは善人)として存在する、という意味かもしれない、でもそんなことはありえないと思うんだ。
 どんなひとにも色んな側面がある、ということではなく、
 それはもちろんそうだけど、
 そういう意味ではなくて、
 自分が投影した結果として他人を知覚するんだと思う。
 自分の気分によっては、彼は良い人だとなったり、そうでもないかもしれないと思ったりする。
 そういう意味で結局自分なんだよと思うの。
 それをあの人は自分に見せる姿をコロコロ変える、不誠実な人だ、とかいうのはまるでナンセンスだと思うわけ。
 
 わたしは完全にわたしのものであり、
 あなたは完全にあなたのものである、
 という、このことが喩えようもなく素晴らしい。
 
 やさしさは素晴らしい。
 泣ける。
 でもやさしさにさえ、少なくとも二つの側面がある。
 こうした矛盾を乗り越えて自分がある。
 何かを完全に白ということはできないし、また、そうすることに意味がある、価値がある、とはわたしはとうてい思えない。

 この多様性の海を統一すること、とオーロビンドは言った。

 わたしたちは個人であるが、そもそもそうではない。
 この「そもそも」を思い出すことだ。
 わたしは完全にわたしのものであり、
 あなたは完全にあなたのものであるが、
 わたしもあなたも根は一つだということを。

 わたしたちは何も本当は分断されていはいないのだということを。

    *

 人は、ほんとうに孤独なものだ。
 色んな表現がなされる。
 色んな価値観が提示される。
 これもそれのうちの一つにすぎない。
 この世に実在する、それが何であれ何か、を言い切るということは出来ない。
 これは一つの提言であり喩えであり、何か結論を導き出すための素材に過ぎない。
「人は孤独だ」
 これは素材だ。
 素材、モチーフに対して、そんなことないよっていうのは、野暮の極みであると言わざるを得ない。
 長々と前置きしたが、
 人は孤独である、というモチーフに関して思うことは、
 人は自分が孤独であるということを痛感するにつれ、孤独であると感じるにつれ、その思いに比例して、孤独でなさをもまた感じることが出来るのである。

 話の腰を折らないでねってことだよつまりは。
 それにまた、ここがもっとも肝心だが、
 人に自分の話の腰を折らせるような話し方はすべきではないということだね。

 人が人を求めるその心、その姿勢、その望み、
 わたし自身は恋愛に関して野暮であるよりないが、
 それにもかかわらず、恋愛物語を観て感動することは可能だ。
 ストーカーの愛は愛ではないのだろうか。
 たとえば極端な話、結婚している関係にしか愛はないか、といえばそんなことはもちろんないだろうと、わたしは思います。
 でも、それこそ大真面目に、いや、結婚している関係にしか愛は存在しないと真剣に、真摯に、信じている人、信じたい人が、いるんだな。
 おそらくその人には否定したい事柄が先行してあるのだ。
 不倫はよくないとかね。
 ストーカーの愛は愛ではないか、と尋ねられたら、それも愛でしょうねとわたしは思う。
 というのは愛でないものは存在しないから。
 ただその愛は未熟であるとは思う。

 他人を知ることは自分を知ること、
 自分を知ることは他人を知ることだ。
 そこは相互に関係しているし、関心の強さは比例する、つまり、
 自分にしか興味がない、とかいうのはまったくわたしとしてはありえない、もし本当にそうだとするなら、
 それは自分にしか興味がないというよりも、自分自身にさえ興味がないというべきだ。
 
 そして、自分自身にさえ興味がない、という状態は実際ありふれた光景に思える。
 自分自身を知ることはそっちのけで他人にばかり興味を示す人というのは 、世界に関心を持っているようでいてまったくそうじゃない。
 世界に関心を持つということは、自分自身に関心を持つことを通じてしか実行不可能だと思う。
 世界のこと、世間のこと、つまりは自分の外側に起きること、
 これに通じて満足し自分自身を顧みることがないとすれば、
 成長はないといわざるをえない。
 真に世間を知覚するということは、自分自身を知覚することと密接な関係がある。
 世間・他者を追うばかりで自分の内側への関心がない、
 これはまるでストーカーのようだ。
 他者は彼の中で完全に自分とは関わりなき他者として存在している。
 自分とは相交わらぬ他者、自分とは完全に切り離された他者。
 わたしが思うにそんな対象は存在しない。
 わたしが、「他者はいない」というのはそういう意味においてだ。
 そういう文脈において、
 他者は存在する、という断言は、即ち(翻って)自分は存在しない、というのにも等しいと思うがこれはわかりにくいかな。
 自分が存在しているから他者は存在しているのであって、
 他者が存在しているから自分が存在しているわけではない。
 もちろん、こんなことは仮定の話だけどもし、世界に自分一人、他の人間はいないどころか、動物もいない、植物もいない、なにもいない、
 とすれば、そもそも「自分」というものを意識することもない。ただ、不可能だ。
 世界は光か闇か知らないが、いずれをイメージするのであれ、それはどちらか一つしかない世界であり、
 そうだとすれば、光を光、あるいは闇を闇と認識することも不可能だ。
 光が光たりうるのは闇があってこそだ。

 この説明がなぜこうも困難なのか不思議だ。
 アインシュタインとインドの哲学者の対談を必ず思い出すんだ。
 あなたが見るから月はそこにある、と言われて、いやいやわたしが見ていないときだって月はそこにある、とアインシュタインは言う。
 これについて宇宙人は、バシャールだったかと思うが、
 もしかするとそのインドの哲学者本人だったかもしれないが、
 仮にあなたが月を意識していなくても、他の誰かは意識しているのだと説明する。
 これはどういうことだろうか。
 
 あなたが認識するからそこにそのものは存在するというのは、
 哲学入門(飲茶・著)でも取り上げていた。
 りんごがそこにあるのは、あなたがそれをりんごだと認識するからで、
 りんごがそこにあるから、あなたはそれをりんごだと思うわけじゃないと。
 つまりそれは、りんごとはそもそも何ぞや、という話なんだけども。
 
 幽霊が見えないのは、幽霊に遭遇したことがないからなのかそれとも、「見えない体質」だからなのかと。
 
 結局それがあるか、ないか、
 というのは、あると思えばあり、ないと思えばない、というより、
 他に言いようはないというようなことだと、わたしは思う。
 りんごをたとえば梨(りんご以外の何か)と区別できる認識があってはじめて、りんごがりんごとして自分の中に立ち上がってくるわけで、
 これの逆は不可能だと思う。
 
 あなたが認識するから「他者」は存在するわけで、
「他者」がそこにいるから、というのは、後付というか、
 そうじゃない、逆だと思うんだよ、
 
 なんでここに勘違いが起こるんだろうと思うと興味が尽きない。
 それは、勘違いだ、とわたしは思っている。確信している。
 とはいえこのことを他人に説得しうる自信はない。
 
 ひとつ、他人は存在しないと認識することのメリットをあげれば、
 そうなれば人を殺したいとか、
 戦争が正義だとか、
 思う人間はいなくなるであろうという点だ。
 それは、そうしてはいけないから、というタブーの意識からそれを自制す
るようになるだろう、ということではなく、
 ただ単に不合理であるとしか思えないから、必要がないからしない、とい
うことに落ち着くだろうと思う。

 

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