正常者とは、実は異常者より根が深い病に冒されているのではないだろうか、という疑念。

 わたしは「合理的」であることがとても好きだ。
 そして同時に、矛盾するようであるが、実は矛盾していないのだが、
 合理的でないこと、も好きだ。
 これは、
 あっちへいったりこっちへいったり、することによって、「それ」を高めていけるという、
 矛盾なき手段によっているという自覚がある。
 
 つまり「合理的」とは何か、を追求していくことに、
 反対の意であるように思える「非合理的」とはどういうことか、
 を追求することは、
 実際のところひじょうに役に立つってことが、
 あるのです。
 
 で、「それ」を高めていける、の「それ」とは何か、というと、
 ざっくりあっさり言うと、「人間というものへの理解そして共感」である。
 人間には、もちろん自己も含まれ、他者も含まれる。
 個人も含まれ、集合も含まれる。
 多数派も少数派も含まれる。
 健康なひとも病的な、病気の、人も含まれる。
 正常者も含まれ、異常者も含まれる。
 子供であれ大人であれ、男性であれ女性であれ、
 裕福であれ貧乏であれ、
 楽観的であれ悲観的であれ、
 もう要するに何であれ、
 差別することなく、「全体的」な地平に立ってみようじゃないか。
 例外を持ち出すことなくすべてを例だとしてみようじゃないか。

 というくらいの。
 
 合理的っていうのはその性質において、制限的であることを否めない。
 比して、非合理には制限がない。
 
 今日読んでいた記事で印象的だったものの一つに、
 相模原事件、
 よく知らないけど、じゃあまりになんだなと思ってちょっと調べてみると膨大であり、
 どこかを自分の視点によって切り取るほかはない、
 この切り取り方から、わたしの所感、わたしの主張の是非を問うてもらうしかない、
 という気がします。
 で、一部というか核心部と(わたしが)思われるところを切り取ると、
 この、戦後最大といわれる数の殺人をした人物は、
障がい者は世の中に貢献していないから死ぬべきだ」
 そして、
「誰かがやらねばならないのだから、嫌ではあるが自分がする」
 という思いに従って実行に及んだ。
 
 わたしは正義感というものに昔から疑念を抱いている。
 それは一見まともで、正しく、良きものに見える。
 ということがそもそも、禍々しいというと言い過ぎだが、胡散臭いというか、
 なんだろうな、
 それは自己正当化(自分は存在していい・自分は価値がある存在だ)を社会的良識から外れないように、細心の注意をはらってか、まったく杜撰かはともかく、バックアップしてもらっている(もらいたい)のにすぎないんじゃないの、というか。
 もっと簡潔に言えば、自己の主張を、自分以外のものに頼った結果に過ぎないんじゃないの、という思いを、疑念を、拭い去れない。
 (自分は存在してもいい・自分は価値がある存在だ。というのはわたしからすればまったくその通りであって、わざわざ他者の許可、承認はいらないものである、という前提であります)


 もう一気に結論するとこれら殺害へと至る動機は、「卑劣」だなと思う。
 未熟であるとも思う。
 責任転嫁ということも思い浮かぶ。
 
 ともかくこの事件について、どう思います?というような、対談形式の記事があって、
 こっちが本来取り上げたかったことだ、
 
 正常者とは、実は異常者より根が深い病を抱えているのではないか、
 という論旨について、
 ああ、すごいわかるな、と思ったってことだ。
 こういうことに共感や理解があることをして、わたしは、
 人類のほぼほぼは実は病に冒されているのではないか、と思うのだし、
 それを隠すために「こういうのが病気」という少数派を囲い込むのではないか、という気がするのだ。
 
 いやこれについては、軽々しく結論を出すことはできない。
 というか、別に結論などは必要ではない。

 詳しくはのちに取り上げる(と思う)。