他人を信用すること。ってなんだ?フランチェスコ・アルベローニって人、わたしはある意識において信用のおける考察をする人であると感じた。
すごく端的に言うのなら、彼女の「不適合者」への厳しさは、そのまま己自身に対する、「不適合さを許さない」厳しさである。
ここに破綻はなく、誠実な態度であるとさえ言える。
たとえば、「嘘はいけない」「正直であらねばならない」と信じているとしたら、
嘘を吐く人には嫌悪感と間違っている感を抱く。
これはまったく不合理なこととはいえない。
自分が律していることを他人もまた律するべきだ、と思う。
自分はいいけど他人はダメってよりまったく誠意ある心情だと思う。
不合理ではない、不誠実ではない、これが、問題だ。
それは不合理ではないが、まるで現実的でもない。
「他人をほめる人、けなす人」(フランチェスコ・アルベローニ・著)(原題はオプティミスト・楽天主義者)の最初の三分の一と最後の三分の一を読んだ、
読んで、
道徳の項で、
他人のことには一切とやかく言わない、ただ己のみを見るという態度、というくだりがあった。
これは、いや、そうだなと思う。
わたしは他人を信用するってどういうこと?とふと思いついて友人にたずねることがあるのだが、
そういうのはだいたい、信用していた他人に裏切られた、というような文脈においてだ。
それは、あの舌鋒鋭きフランチェスコ・アルベローニのコラムを読んだ影響にてシャープに思うのだが、
「信用」とはあなたにとって単に自己採点甘き「期待」に過ぎないのではないか。
単に期待にすぎないものを信用と呼ぶのはこれ如何に。と思うのだ。
だとすればそれは、信用を裏切られた、のではなく己の淡く甘い勝手な期待を裏切られたのにすぎない。
わたしはフランチェスコ・アルベローニを信用できる人だと思った。
これはこの人には期待できる、という意味合いではない。
この人の主張・感性にはわたし自身が共感できるところがあった、というほどの意味合いだ。
そしてこの共感を「彼によって」裏切られるということはないのだ、
共感をしたのはわたしであって彼ではないのだから。
およそ他者の裏切りが許せない、という文脈には、
なんか甘い、スイーーツなものを感じる。
その際にわたしならば裏切らない、とでも付け加えようものならもっと厄介なことになる。
そんなん知らんがな。「わたしならば」って、第一「わたし」って誰だよ。
他者が裏切る。
果たしてそんなことはありうるのだろうか。
ありえないね。
たとえば「捨て身」ってあるね、
あれはわたしは美しいと感じる。
これは、
たとえば極端だが自殺する人が、自分が死ねば奴らも思い知るだろうという恨みや期待を賭けて死ぬ、とか、そういうことじゃない。
極端には自分の生命を、他者から報われるべき期待なんかに賭けてはいけない。
賭けるべきは、他者への期待なしに己のみが見る理想を信じきるというこの一点につきる。
他者への期待はない、これが捨て身であるということだ。
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