悪も善もおのれの中にある。他者に問いただし、求めるべきものではない。
〈1〉
悪があり正義がある。
あるとしよう。
悪は駆逐されるべきである、それも、まあそうだとしよう。
あなた、がそうしたいならそうすればいい。
ところで悪とはどこにあるのか、誰がそうなのか、
何をもって悪とするのだろうか。
それらはすべて実のところ、あなた自身の中にある。
あなたはあなた自身の中にある悪を退治したいと願い、それを実行する。
ここに何ら不都合はない、
少なくともそれこそ他者に迷惑はかけないであろう。
あなたがひじょうに自律的で、高い理想があり、それに向けて邁進するとき、それを完全にあなた自身の内部によって行うならば、
ともかく世界に及ぼす混乱はなく、害もない。
世界はあなたが何を目指しているのかさえ知らないだろう。
なにを変革したいのか、なにを撹乱したいのかさえ、知らない。
そしてもう断言するなら、それでいいんだよ。
あなたが悪と戦うと宣言する姿勢は、あなた自身の中に完全に囲いこめ、と思う。
他者に託すな、転化するな。
世界に、社会に悪いところがある、と感じるならあなた自身の中にそれと共感する部分が必ずある。
やりきれない思い、これではいけないという募る思いがするときに、
誰か悪者を見つけようとするな。
悪を他者に投影するな。
世界にはびこる悪と戦ってはいけない。
それはただ不毛に終わるからだ。
不毛であり終わりはない輪廻だからだ。
メビウスの輪のように奇妙に捩れ、他者を騙し、肝心なことにはおのれを騙し、巧妙に閉ざされた輪の中でぐるぐると堂々巡りをするだけだ。
他者に問うな、おのれに問え。
他者を捉えようとするな、おのれを捉えよ。
これは、わたしにとってモラルだ。
モラル以外に何の拠るところがあるか、というようなことを言ったイタリアのモラリストがいたが、そういう意味ではとても共感できる。
〈2〉
主観・客観。
客観というのは結局のところ想像の産物にすぎない。
想像にすぎないのだが、想像の域を出ないものをいかに働かせるか、そこがある面、明暗を分かつ。
なんとも曖昧で推測の域を出ない客観に比べて、主観は絶対的である。
主観を信じよ、主観に集中せよと、わたしは言うが、
この「信じる」というのがまた厄介だ。
主観を信じよ、というよりも、主観を見極めよ、という感じだが、
ここに重篤な統合失調症のひとがいたとして、
主観を信じよ、ということをまったく真に受けると、それこそ。
おのれが観たこと、おのれが感じたことがすべてである、という、
うん、だから、その際「おのれ」とは何かということなんだけども。
うん、いったい「おのれ」とは何であろうか。
だいたい複合的というか、混乱があるというか、整理整頓はされていないというか、
一言でいうなら、わっかりにくいんだよな。
おのれを信じよ。
このくらいわかりにくい表現はない。
誤解され放題の表現はない。
フランチェスコ・アルべローニに対するレビューに目を通すと、
それで何が言いたいのかわからない、というものがあって、
そうか、わからないか。
そうか、伝わっていないらしいぜ、兄さん、という感じであって、
いやお互い切磋琢磨だなあと思える。
ところで、ホ・オポノポノが気になる。
これは、そうだ、
一言でいうのなら、「100%自分に責任がある」これに尽きるのだが、
これをたとえば、「うつ病」の人が聞いたなら、
まったく病状が悪化するであろうとしか確かに思えない。
「うつ病」は脳の疾患であるということを、そうなのであるという見解を、ほんとうについ最近知った。
言い換えれば、脳の疾患であることを裏付けるのに、脳に作用する薬を用いることで、その効果は確かに認められる、という実績がある。
うん、じゃあもう脳の疾患でいいんじゃないでしょうか。
とりあえず。
治るものは治ればいい。
それでも治らないものはあるけど、もう、治るものは治ればいいじゃんね。
わたしたちは、「それでも治らないもの」を見極めたいだけなんだ。