持たざる者の気持ちが君にはわからないんだ(『バナナ・フィッシュ』#12 英ちゃんのセリフより)

 アマゾンプライムビデオで毎週配信される「バナナ・フィッシュ」を観ている。
 
 で、その「バナナ・フィッシュ」の今週話(#12・持つと持たぬと)で、
 アッシュが命乞いをする者をまで殺しているというニュース(そんなのニュースになるのかね)を英二が知り、
 英二  「君は才能にめぐまれている。持たざる者の気持ちなんてわからないんだ」
 アッシュ「殺しの才能か?」
 英二  「なんでそんな言い方するんだよ」
 というくだりがある。
 この文脈なら、殺しの才能か?と受答えするのが自然だと思うのだが。
 むしろ殺しを咎める流れからいきなり「才能」というフレーズが出てくる英二のセリフに不自然さを感じる。
 ともかく、
「持たざる者の気持ちなんて君にはわからないんだ」には、まいった。
 はるか昔に読んだ原作でどんなシーンだったのかは忘れたが、
 アッシュも家を出て行きながら、
「おまえには俺の気持ちがわかるっていうのかよ」と捨てゼリフを残すわけだが、
 つまり、そっちがメインなのだろうが、
「才能なんてほしいと思ったことはない」とまで後押ししているし、
 アッシュがほしいのは、
 すべて(というか優れた頭脳と秀でた容姿、図抜けた殺傷能力という恵まれた素質)を持っているように見えるアッシュが本当にほしいもの、とは、
 という流れなんだが。
 そっちがメインなんだからそれを引き出すための伏線にケチをつけるのもどうか、と思うが、
 伏線でコケちゃダメじゃんか、という気もする。
 
「持たざる者の気持ちなんて君にはわからない」
 というこの気持ちがわたしにはわからないというか、唯一わかるとすれば、
 前にも書いたが、man is,を「男は」、と訳すより「人間は」、と訳す方が自然だというような文章を見るようなときだ。
 いまどき英語がどんなふうであるのが主流なのかは知らないが。

 と思って調べたら最近じゃmanを人間の代わりにつかわずpersonをつかう?
 でもmanはもともと人って意味で、のちに、人ってのは男、それもすべての男ってわけでもなく、たとえば資産を持つヨーロッパ系白人男性のこと、というふうに変化してきた経緯がある、という考察を知った。
 なるほど。
 manは本来、人間の意味だが、次第に男としての意味合いが強くなり、今度は男という意味が強いからダメってことになって、manが廃れてみる、という経緯があるらしい。
 
 基本的に女は他者扱いだという、なんだ、なんかが現代においてなおもあり、
 ごくナチュラルに男はそれに気づかない、まったく無意識であるというとき、
 思いもよらぬ疎外感を女は味わう、ということがある。
 これは女(わたし)にとってある意味、衝撃であり発見である。
 あっ自分は世界の主人公かと(それこそ無意識に)思っていたらそうじゃなかったんですって?みたいな。
 こういう疎外感は別に、女には必ずあって男には必然的にないもの、というわけじゃなくて、
 どういうシチュエイションであってもありうる「発見」だと思うんだよね。
 人間誰しも幼いときには、幼児的全能感とでもいうべき「自分が世界の主人公」であることを疑わない、無意識にそうである状態に気づかない、ということがある。
 ところが生きていくにつれ、「他者」の口から自分自身の位置付けというものを聞かされることになる。
 その「他者」の第一号は身近な大人、たいていは親である。

  いやむしろ、近所の大人とか、祖父母とか、幼稚園の先生とかかもしれないが。


 男は「疎外感」を味わうことがないかといえば、そんなことはない。
 人間生きていたら「疎外感」を味わう(敢えていいますが恵まれた)瞬間には実際事欠かない。
 ただ、
 まあ強いていうなら、男と女という一対においては、
 女の方が男よりも疎外感に気づきやすい、ということはあると思います。

 

(あっでも昨日の今日で編集していて思ったけど、

 産まれてまもなく自分の身近にいる大人、この際まあたいていは母親、というか女性であるとして、

 そうだとすれば、男の方が、あれっと違和感・疎外感を覚えるのは早い、のかもしれないなあ。つまり、「他者の性」を感じるのはということだが。

 女の子からすれば母親は同性だが、男の子からすれば母親は異性である。)

 
 ところで、この「疎外感」がイコール「劣等感」であるかどうか、というと、もちろんここはイコールではない。
 ないのだが、それに近いものは程度によるが人は結び付けやすいのかもしれない。
 でも、よくよく落ち着いて考えたらイコールではない。
 ここをよくよく落ち着いて考えられない状態というのは、要するに、
「自分は世界の主人公」だと無意識に思っていたことを、意識すると同時に主人公ではないと知らされ、喪失感にも似た落胆、がっかりを味わい、失望と哀しみの中に立ちすくむ、というようなことだ。
 (主人公が絶対だという思いをまだ知らず持っている状態だ)
 知らず知らず持っていた万能感を剥ぎ取られたように思った瞬間、
 恐れや萎縮、失望、何なら哀しみを感じる。
 
 他にも表現はあろうが、実感は異なろうが、まあ、類するものを感じるとしましょうや。
 でもこれを即座に劣等感と結びつけて固く固く握り締める必要はないとしか思えない。
 脇役だっていいじゃないか、というようなことではなくてですね。
 いや、脇役だっていいじゃないか、でも構わないんだけどさ。
 
 なんだろうな、世界の主人公は一人だと思っていたら、その一人しかいない主人公は自分じゃなかったと思えばそりゃショックだぜ。
 でもよくよく落ち着いて考えてみな、世界の主人公は実際のところ一人じゃない。
 だいたい、主人公というからにはそこに確かに「劇」的なものがなければならない、しかしその「劇」とは彼にとってのみ意味を持つ、実感あるものではないのか?


 (ふと思ったけど「彼」ってのはmanに近いかな。わたしはここで彼といったからって「男」と限定しているわけじゃないが、ここを「彼女」と表記するとそれこそ限定的になってしまう)

 彼にとってのみ意味がある、とは言わないが、
 彼によってはじめて意味を与えられるものではないか?
 
「持たざる者の気持ちが君にはわからない」
 これをまっとうな非難であると出来る、その根拠、その背景、その信念がわたしにとっては、
 なんていうかもはや、脅威である。驚異を通り越して脅威だ。
 
 たしかにフロイトであったと思うが、
 女児はペニスがないことによって劣等感を感ずる、みたいなことを平気で書いてあったのを読んだときに、わたしは引いたわ。
 えっいや全然まったく、そんなもの欲しいと思ったこともないんだけどな、と。

 むしろ女(わたし)からすればペニスがあるってことが「他者」(自分とは異なる者)である。

 何を勝手にというか無自覚にというか、天然にというか、 (幼児的自己中心思想によって)

 ペニスがあることを「人間」のスタンダードにしてるんだよという、びっくりだ。

(そういえばわたしは子供の頃、おしっこなんか、親指の先から出てしまえばいいのになあと思ったことがある。いちいちトイレという個室へこもって排出しなきゃならないことが面倒臭かったのだ。これ、わかるひといるかなあ。もちろんそこには具体的に性器、抽象的に性に対する面倒臭さをも含むのだが)


 それでいうなら、
 それにならうなら、
 男は子供を産めないことにそもそも劣等感がある、
 と平気で断言してご満悦の神経と変わりがない。
 つまり「それ」は劣っていると決め付ける姿勢としてね。
 
 持たざる者の気持ちが君にはわからない、
 とはいわば、
 なんていうか、ルサンチマン、怨嗟、
 要するに僻みというか、
 相手を優れたものに据えて、片や自分を劣ったものにして、憤懣(か悲哀か知らないが)によって相手を責める、
 その根底にあるのは、相手自身の優劣観ではなくて、自分自身のそれである。
 まさに投影。

 ところで英ちゃんの真意とは「人を殺すことで君が傷つくことになるからやめて欲しい」だとわたしは思うのだが、

 だからなぜここで「恵まれた才能」って言葉がぽっと出てくるのかは悩ましいところ。

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 付録。

 わたしは吉田秋生のマンガでは、「カリフォルニア物語」が好きだった。

 あの暗さ。

 あの巻き毛の男の子が死んだシーンは衝撃的だった。

 まじで?殺しちゃうの?というか、

 本当にリアルに死んでしまった、ということが伝わるような、

 それこそ自分の友人・知人が死んでしまった、というほどのショックがそこにはあった。

吉祥天女」も良かったです、好きだった。

 もうこういう話で「女」を主人公に据えているという時点で好きだった。

 あと「桜の園」も良かった。

 演劇部の部長(女)が、部員の女っぽくない同級生の女に告白をするシーン(というか女子高なので学校内には女しかいないのだが)。

 

 (男のような女)「なんでわたしって自分のことが嫌いなのかなあ」

 (部長・女)  「わたしは、好きよ」

 (男のような女)「えっ」

 (部長・女)  「わたしは、あなたのこと好きよ」

 

 というシーンが好きというか、どうも堪えきれず泣けてしまった。

 男のような女とか部長とか言っちゃってごめん、どうしても名前が出てこねーや。

 

 ここには限りない優しさがあった、

 わたしはそれが好きだった。