ビリー・ミリガンの主張は虚偽か。

「I/真実と主観性」面白いです。
 ふと読んでいて、ビリー・ミリガンを思い出した。
 ある人格は病に冒されているが、ある人物は病に冒されていない、ということがある。
 それがたとえば癌であったとしたら、ある人格のときには癌は消え、ある人格のときには癌は現れる、というようなことだとすれば、
 まったく人間っていうのは驚異的であるとしか言いようがない、という感動に打たれる。

 ビリー・ミリガンで印象的だったのは、スラヴ語を話す、だったかスラヴ訛りの英語を話す、だったか(そこ大事じゃん)忘れたが、
 ともかく、「本人」にはし得ないことをし、知りえないことを知っている、ということがあり、
 わたしが咄嗟に連想したのは、気づいたのは、
 あっやっぱり人類の根はつながっているんだな、ということだった。

 

 これはよく顕在意識と潜在意識の例としていわれることだが、
 海面上の陸地(顕在)と、海面下の海底(潜在)は、要するに陸続きだ。
 そこに本来断絶はない。
 ないのだが、人は、おのれが生存できる陸地(顕在)のみを見る傾向がある。
 
 ユングの集合意識、というのも連想する。

 また、ビリー・ミリガンで疑問に感ずるのは、いったい「人格」とは何なのだろうか、ということだ。
 多重人格ということでいったい殺人罪を逃れられるのか、否か、という争点が裁判ではあり、
 要するにその「殺人」を犯したのは「誰」なのか、
 
 それはもちろん、本人なんだよ。
 本人以外に誰がなしうるだろうか。
 でも、ここに、
 重大な問題がある。
 すなわち「本人」とは誰か、「何」かという問題が。
 
「本人」である、それは「記憶」の途切れることのない連続なのか。
 
 自己=記憶であるのか。

 

 ビリー・ミリガンの主張は虚偽なのか。
 これは確かにひろく見れば虚偽だ、虚偽ではあるが、
 この虚偽を暴ける人間はほとんどいない。
 なぜならその虚偽を暴いた瞬間、暴いた人間は自らも己自身の虚偽に立ち会わざるを得ない。
「自分」とは何か、という問題に直面せざるを得ない。
 
 それは確かに虚偽である。
 だが、それは我々の認識する、安寧できる現実を遥か超えたところにある虚偽である。

 これを虚偽と見抜いた人がいたとしても、この虚偽を「本人」に納得させられる人というのもおそらく、まあいない。

「彼」と同じ視点に立たなくてはそれはなしえない、

 なしえないし、それは、

 なんていうか、

 実に厄介な茨の道であるというよりない。

 

 多重人格だけが虚偽なのではなくて、統合されている人格を持っているように思える人だって虚偽の現実を生きている。

 彼らはそれを自身の自覚なしに暴く。

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