皆、神様だけど、皆パラレル。統合される日は来るのか。
調べものをしすぎて頭がパンクしそう。
頭がいらいら・イガイガしてきている。
一つ思うのは確かに、変化の時期なんだなあということだ。
変化の度合いはどんどん加速していっている。
ピークを超え、緩やかになっていっている、という感じはしない。
どんどん目が回りそうになる。
「シリウス超医学」
「かみさまは小学五年生」
「あなたのなかのやんちゃな神様とつきあう方法」
「I真実と主観性」
他にもいろいろあるがともかく、これらを読んで、
わたしたちは皆神様です。
わたしたちは神様の分け御霊です。
と、わたしは思っている。
だから神様っていうのが完全に自分の外側にいて、それを崇め奉るとか畏れる、というのは違うという感覚はあって、
どれだけ見えにくかろうが、感じ取りにくかろうが、
要するに源は一つであるというか、
もちろんそんなことは感覚的にはわからないとしか言いようがないほど、
なんていうか、たとえばわたしやあなたが、いきなり深海二千メートルにワープして、わあ感動、ってなるかといえばならない、
死んじゃう、怖い、気圧の変化に対応できない、
宇宙の真空(真空じゃないらしいが)に放り出されたとしたら、というのも同じことだ、
つまり、それは想像を絶するし、対応しようもない、というほど途方もないことではあるが、
ともかく源は一つであるということを、思う。
一つっていうか、
なんだろうなあ、
目には見えない共通基盤は確かにあると思うんだよ。
それは一つじゃないかもしれないけど。
と思ったのは、
「シリウス超医学」で、わたしたちはそれぞれの宇宙から、いまいるところにダウンロードできる情報があるというような、記述を読んで、
それぞれの宇宙??
いやそういえばたしかに、宇宙自体パラレルワールドだって誰かが言っていたなあ。
と思ったときにふと、
なるほど、
神様っていったって、それぞれなんだなあというか、
人間がそれぞれであるように神様もそれぞれなんだというか。
だから、「かみさまは小学五年生」と「やんちゃな神様」のレビューに目を通してみると、
批判的なものもけっこうある。
その批判的なものの一つとして、
神様を名乗るなんておこがましい(あるいは頭がおかしい)、という主張がある。
そんなふうに感じるひとは、たぶん、
神様は(自分・たちの)外側にある、ということを信じている。
神性は自分の内部にはないものと思っている。
それが、なぜそうなのかは知らないんだけれども、わたしは。
そりゃわたしは彼ではないしわからないや。
とまでしか言えない。
「やんちゃな神様」に怒っているひとのなかに、
不倫をしていても心が満たされていて配偶者に優しくできるひとは「良く」て、不倫をされて嫉妬や憎しみを感じる配偶者は「悪い」というような箇所があり、
いや、良いとか悪いとかは言ってなかったが、じゃあどういう感じだったかは思い出せないのだが、まあそんなようなニュアンス、
について取り上げて怒っているひとがいて、まあ、そうだなあ、
それはやっぱり気になるよなあと思った。
わたしは初読で、あっそうだよね、と思ったんだけど、
なんだそれ意味わからない、おかしいでしょ、と怒るひとがいることは、
そうか、と思う。
いやもうそういう人は、いますね。
なんかのサイエンスニュースで、いじめた人間はいじめられた人間より免疫力が高い、だったかな、
なんかそういう記事があったのを思い出した。
うーーん、びみょーだなあ、でも、あるかもしれないね、と思った。
どんな事実でも、語られ方によって、反発を招くこともあれば、受け容れられることもある。
ニュースによるこの語られ方は微妙だが、まったくの嘘でたらめでもないな、とわたしは思った。
わたしはいじめに関しては、実体験をもって語るということは出来ないが(こいつ、向こう見ずにもわたしに攻撃してきやがったな、断固圧殺するぜ、と感じた経験くらいはあるが・もちろん物理的に殺してなどいませんが)、
仮にいじめる人間が、いじめたつもりでいたとしても、いじめられたとされる人間が、そうとは受け取らない場合もある。
そんな場合、いじめは成立していないというか、いじめられたとされる側に、いじめられたという事実・認識はない。
というわけで彼はいじめられてはいない。
ところが、たしかにいじめられたと受け取る人間はいて、
そうすると、どうなるか。
という話。
これはどういうことかというと、
いじめを受け容れる、いじめをいじめられた(傷ついた)という事実として、受け容れる、ということは、
こういう言い方はそれこそ反発を招くのかもしれないが、
自傷行為にも等しいという面がある。
わたしはずっと昔から、そりゃ違うだろうと思うことがある。
たとえばいわゆる知的障害者が、「レイプ」されました、その親族が訴えましたっていうやつ。
いや本人はそうは受け取っていないんだから、周りが傷物にされたって、被害を蒙ったって騒ぐのはおかしいだろうと思う。
個人を尊重していない。
それがどんな個人であれ、どんな個性であれ、それ自体、かけがえのない唯一無二の存在としての、経験を尊重していない、と思う。
誰であれおのれの許可なしに侵害されるということはない。
おのれの許可なしに、傷つくことはない。
誰であれ。
相手任せにすることの(させることの)、損害は計り知れないものがある。
あなたは彼と同じことを経験したときに確かに傷つくのかもしれない、怒りを覚えるかもしれない、そうした経験を受け容れることを断固として拒絶するのかもしれない、
でも、彼がそうであるかどうか、どんな選択をするかは、彼自身が決めることだ。
自分が痛む経験を、彼や誰か他人に当て嵌めて、君は不当な行為をされている、と怒る必要はない。
あなたはあなた自身に起きたことをもってしか、怒る権利はない。
これはわたしの経験だ。
友人が、わたしからすればあきらかに、親から虐待されている、と思えるということがあった。
わたしはまったく自分自身の気持ちから、それは良くないことだ、と思った。
そうして友人に働きかけていたけど、当の友人の口から、
でもわたしの親はわたしを愛してくれている、と聞いたときに、
いやあ、それはでも、という自分のわだかまりを凌駕して、
ああ、そうか、そうだな、となんだか憑き物が落ちるように納得した。
わたしからすればどう考えても、友人の親は愛することに長けてはいないし未熟だけれども、だからって、
そこにも愛がある、と思う友人の気持ちを、わたしが否定する権利はないと感じた。
そりゃわたし、エゴってものだぜ、と思った。
また、性同一性障害とよばれている子と接したとき、
わたしは知らなかった、男の子だと思っていた、実は女なんだ、どうしても関係が発展する前に言わなきゃと思って言った、と告白されたときに、
咄嗟に感極まって泣いてしまったことがある。
なぜ泣いたの?と後々聞かれたけど、うまくは答えられなかった。
なんて大変なことを選んだんだろう、という思いだった。
哀れみじゃない。
なんという困難な道を選んだんだろう、と思うと。
それは、それこそ、わたしからすればという地点にとどまることだが。
感動したんだと思う。
なんという険しい道を選んだんだろう、ある面、崇高ですらあるような。
本人にそんな気はなかったんだけどさ。
本人的には、自分が女ということには違和感しかない、男だとしか思えない、だからこうしてきた、というほどの認識しかない、という。
いやそんなことを言い出せば、わたしだって、自分が女であるということにまったくなんていうか。
違和感がないわけじゃない。
かといって男かというと、いやそれも全然違いますというような、
でもまあともかく身体が女なら女である方が抵抗は少ない、くらいの、なんだろうなあ、こだわりのなさでここまで来たというか。
うん、だからわたしがじゃあそれに感化されることがあるかといえばないんだけど、
ないけど、
でもすごいなあって、感動するの。
その感嘆を彼は受け取らないけどね。
あ、あと「集合意識」って不思議じゃないですか?
何なんだろうなそれは。
「影響」みたいなものだよね。
見えているものは「客観性」に支えられている。
見えているものは、「集合意識」に支えられている。
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