わたしはこの世に遊びに来たんだよ①

「もっと・あの世にきいたこの世の仕組み」を読んでいる。
 うんこ臭い、じゃなかった雲黒斎というひとを知ったのは、阿部敏郎とい う人からだ。
 なるほど・なるほど、いやもうお腹いっぱい。
 これ、昨日も何かで読んだ気がするぞ、という、
 この世は神様が作った遊戯場であるとかね。
 
 わたしは、「考える」ということを、中学生の頃(思春期だな)から真剣に しはじめたのだと記憶するが、 
 きっかけはどこかに書いたが「挨拶」からだ。
 考えて考えて考え抜くうちに、ふいに、いやでもわたしは結局のところ、 究極を言えば、(この世には)遊びにきたんだがな、と思うことがあった。
 ふともうそれが一番しっくりするし、これ以上小難しいことも深刻さもい らないや、というような気の抜けた嬉しい感じでもって、そう思った。
 それはさすがに中学生の頃ではなかった。
 中学生の頃に気づいたのは、「真実とはそれ以上真か否かを問うのをやめ ること」だ。
 気づいたというより、なにか(哲学書っぽい)でそうした文章に触れて、や っと腑に落ちたという方が正確か。
 真実とは瞬間の檻の中にしかない。
 ということを繰り返し思い知らされるにつれ、もう、そうだよなあと降参 したというか。
 つまり(わたしが求めるような)「答え」はない。
 というのがわたしが唯一納得できる答えなのだった。
 
 いやもうちょっと平たく。詳しく言うなら、
 正しい、とは何だろうか、というようなことを考えていたわけ。
 あっちが正しいなら、こっちは正しくない、
 とするならば、などと考えていたわけだ(正しさは一つなのか?)。
 いやそもそも正しいなんていうのは、自分から見て、他人から見て、とい うことでまったく変わってしまうほどのものでしかない。
 ほどのものでしかないはずだ。
 …でも本当に?
 というようなことをずっとやっていたわけだ。
  
 もう、この「正しさ」というのは、
 中学生が考えるような「正しさ」ですからね。
 そしてまた、
 高校生だったら高校生なりの、社会人だったら社会人なりの、80歳なら
ば80歳なりの、思い浮かべる、思考しうる「正しさ」というのは違うわけ
です。
 もっと言えば日本人なら日本人なりの、とか、
 この平成を(もう終わるけど)生きる日本人ならば、あるいは昭和初期、あ るいは江戸時代、奈良時代を生きる日本人ならば、とかでもいいの。
 その「枠組」というか「時代なり」の趨勢や限界はあり、
 それらは要するにキリがない。
 いちいち検証する意義があろうか。
 ない、とわたしは勝手に断言する。
 
 というのは、わたしがしたいことは虱潰しのような検証ではなくて、
 もっとなんていうか核心を突いたもの、本質を表したもの、にダイレクト に触れる思考実験だったからだ。
 
 それで思い出すのは「レトリックと人生」
 なかなか読めずに、もう今日で返却ぎりぎりオーバーなので、ともかく読 んでみた。
 この取っつき難さというのは、もう膨大な数を挙げた例文を一々読む行為 が、まるで英語の勉強をしているような気分にさせられたことにある。
 わたしの英語力は、中学校英語でも平均点を取れるかあやしい程度だ。
 なので、前半を覆い尽くす例文はさっさとすっ飛ばして、後半のまとめを 読めばよかった(と結果的に思う)。
 日本人が書いた日本語の例文による「レトリックと人生」なら隅から隅ま で面白く読めたかもしれない。
 後半のまとめ、というか主旨(おそらく)を読んで、

「主観主義者と客観主義者」彼らはお互いをまるで敵と看做して攻撃するが 、
 そもそもそれらは我々の心のうちに共存するものであって、どちらかの道 を徹底して貫く、というのではなく、第三の道があるはずである、

 とあり、そうそうそうそれ、と思った。
 とはいえ、彼らはどっちかっていうと主観主義なので、
 客観主義の不備をどうも突いているのだが、わたしはそれに共感はする。
 
 客観主義の不備とは要するに、
 なんていうのかなあ、今日さっき読んでいた(途中だが)、
 雲・黒斎の雲さんが言っていた、
 風船の喩え、
 風船がワンネスだとすれば、
 その表面をヒョイと捻って「自分」が生まれるという、
 わかりにくいな、わたしの表現、
 
 つまりすべての大元は一つで「他」はない、
 として、
 そこからチョイと突起を出してやる。
 さらにはそれを捻る(風船のイメージで)。
 この捻られてちっちゃくなったスペースが「自分」(の意識しうる「自分」 )であるとすれば、
 この「自分」が果たして「完全なる客観性」などという視点を持ちうるだ ろうか。
 この際、「完全なる客観性」とは、大元である風船それ自体を見渡すよう なスケールにおいて、ということだが。
 持ちえないですね。
 そういうことを言っているんだと思う、つまり、
「完全なる客観性」における不能なほどの不備、というのは。
 
 ところで、わたしは、このゲームのような世界において、
「悟る」ということにどうも以前より抵抗、というか先延ばしにしたい感覚 があって、
 それはなんていうか、
 もし悟っちゃったらゲーム・オーバーというか、
 面白くなくなる、楽しめなくなる、というような予感といったらおかしい が、
 そういうような感覚があった。
 悟るために来たわけじゃないんだけどな。
 という気持ちがあった。
 それは、
 遊びに来たんだからな、という思いと通ずるものでもある。
 でもふと思うに、
 さっきの風船の喩え、
 これには続きがあって、赤ちゃんっていうのは、風船を捻って大元から切 り離して独自の空間を得る、ということをまだ達成し得ていない存在である 。
 すべては思い通りにゆき、意思疎通を阻むもの障壁など何もない、という ところから来た、存在が、
 はじめて、おやおや、
 誰だこいつ、というか、なんだ他人っていうこういうのなの、という存在 をはじめて知覚するのが母親、
 いやこれは意訳が過ぎたかもしれません、
 意味不明かもしれません、
 
 そうだとして、
 
 最近「神様は小学五年生」のように、生まれる前のことを覚えているよっ ていう人が増えてきたらしい。
 らしい。知らないけど。
 
 しかし生まれる前のことを覚えているよって、なんだろうかそりゃ、とい う気もするが、まあ、そうだとしましょうや。
 そうだとして、
 わたしはまったく覚えていないと主張する。
 するのだが、全体というか神とのワンネス、との捻れの構築が甘かったの ではないか、
 という気もする。
 そこまで捻れ(ヒネくれて、というニュアンスではなく)て、はいなくて、
 そこの断絶の構成が完全ではなくて、
 ちょっと漏れ漏れだったのではないか、という気がする。

 そして、こういう子は最近増えている、どころか、そもそも捻れないよう にして生まれてきたんだよ(かどうかは知らないが)、という子がいるという のは、
 まあそりゃ栓が甘いというか、漏れ漏れなのは、わたしだけじゃないだろ うなあ、という感じでもって、
 わかる気がするのだ。

 ゲームの話の流れで、わたしは、かつて2004年にサービスを開始した
「FFXI」ファイナル・ファンタジー・11、オンラインゲームをまあま あ二年ほどやりこんだ時期があったのだが、
 それまでゲームってあんまり、好きではないというか、身近ではないとい うか、ゲームマニアどころかファンどころかユーザーでもないというか、
 だったのだが、インターネットの普及、
 オンラインである(機械相手ではない)こと、などが興味をそそられたきっ かけだったのだと思うが、
 そのゲームを夢中でそれこそ寝食を忘れてやりこむ、ということがあった ときに、
「ゲームなのに?!」という感覚、
 それはたとえば「所詮」ゲームなのに、そこまで切羽詰った感じ、になる 必要があるのかという違和感(オンラインだから、参加している顔の見えない 相手の反応に対して)であったり、
 ゲームではありながらあまりにも、リアルであるという、ゲーム内におけ る感覚としてあったり、
 してすごい不思議だなあと、ゲームに夢中になるのとは別で、感じていた りしたのを、
 思い出しました。
 
 所詮ゲームだ、というのは、不思議な言葉であり感覚なんだよな。

 具体的にいうと、かのゲーム内には結婚制度があった。
 いや、制度というより、結婚サービスがあった、という感じ。
 両者が合意すれば「結婚」が出来て、「結婚式」も出来て、「結婚指輪」
(装備可能な、武器・アクセサリに相当するナンカ)も貰える。
 それで、そこに、結婚している二人がいたのね。
 二人のプレイヤーが。
 そのうちの一人、女性キャラクターであった、に最近彼が浮気しているん じゃないかというような、
 相談をされたときに、わたしは、
 まったく無粋だなあという気がしたが、びっくり仰天してしまった。
 え;つt;;lt
 いや。
 ゲームでしょ。
 というか、あなた、
 だって、
 相手の、もしかするとですが、顔も知らないし本名も知らないし、会った
こともないのでは。(果たして相手の性別すら実際には知らんわけでしょ)
 とかいうような、「現実的」な何かが脳裏を走馬灯のようにかすめて、ほ とんどパニックに近いような、
 え!”””わからん

 を感じた記憶がある。
 
 そしてじゃあ、相手を知っている、というのって、実際リアルにおいても 、何なんでしょうね、
 というときに、

 いやこれは、
 所詮ゲームなどといって侮れないというか、
 ゲームというのはリアルを反映しているものに過ぎないというか、 
 もう、ゲームとはいえリアルそのものだ、というか。
 そういう、慄きを感じたのでした。

 いやゲームというのは侮れない。
 むしろ、ゲームを通してもっとリアルを感じる、ということだってありう る。
 
 ささっと結論じみたことをいうなら、
 ゲームを通して、「リアル」と感ぜられていたものと距離を置く感覚を発 見しうる、というか。
 リアルの雛形を感ずる機会に恵まれるというか。

 わたしはこの世に遊びに来た、んだけど、
 なぜそう思ったかというと、
 いったいわたしは何をしに生まれてきたのだろうか、と自問したことがあ る。
 もし、何かしら目的があって生まれてきた、とするならば、
 わたしの目的とは、何だろうか。
 そこで思いつく限りの、こうだろうか、ああだろうか、というもっともら しい理由を並べてみてもまったく、確かにそうだとは思えない。
 ほとんど消去法的に、じゃあ、遊びに来たっていうのはどうだ、
 と思った瞬間、それなら、いいな、否定できないなと思えたんだ。
 遊ぶっていうのは、どことなく完全に自由の象徴的な行為・動機であるよ うに思えた。
 世の中を正しに来た、というと、そもそも正しいとは何かということで躓 く。
 あっちで笑えばこっちで泣くということにもなりかねない。
 あっちが歓べばこっちは悲しむ。
 正しいとかいうようなワケわからんカテゴリーはそういった罠に陥る可能 性を自らあらかじめ用意しているとしか言いようのない切羽詰った障壁があ る。
 ところが、遊ぶって言ったらどうだ。
 これは、蝶がひらひらと花から空へと舞うような、罪のない自在の気儘さ がある。
 そこには単に生命の謳歌・ダンスとでもいうべき言祝ぎだけがある。
  

 ところで、この筆者にも雲さんがいる、
 斉藤一人にも白い玉がいる、
 それから、他にも何か色々読んだが教えてくれるナビゲイト的な「声」と かナンカがある、
 こういうのは、
 わたしは、本当に不思議だ。
 エイブラハム=ヒックスとか、バシャール=ダリル・アンカとかは、
 要はイタコでしょ、と思うわけ、
 でも、
 白い玉が、守護霊が、色々教えてくれる、てのはいったい何なんだよ、ず っこいじゃねえか、という気が正直わたしには、する。
 するのだが、
 わたしには受け取れていないだけなのでは、という気もする。


 もう超どうでもいいけど、わたしの幼かった頃の話、
 うちのお母さんは共働きで働いていて朝の時間にそうまで余裕はなかった はずだが、
 朝、わたしが保育園に行くとき、着替えをするとき、
 わたしが急ぐことなくマイペースに上着のボタンを留めている。
 そのあまりのスローな動きにお母さんが思わず手を出す。
 叩くんじゃないよ、ボタンを代わりに留めてあげるわけ。
 するとわたしは火のついたように怒り出して、のんちゃん(わたしのことね )がやる、と言うんだって。
 ああ、ごめんごめん、て謝って、その手出しをしてしまったボタンを外す と、
 今こうやって書いていてそこで納得すりゃいいのにと自分でも思うが、
 保育園児のわたしは、いいや最初から!!と怒っていたらしい。
 最初から最後まで自分の手でやりたかった。
 途中で手が入ってぶち壊しだよ、最初からしたい、外してよ、わたしが自分だけで最初からやるんだから って、泣き喚く。怒り狂う。
 はいはい、最初からねって、それもそれがしたいなら自分で全部外してし まえばいいのに、外すのもやってもらうっていう。


 こういう話を、実は当時覚えていない。あとから聞いて、
 さもありなんと思った。
 いや。
 言うだろうなあ。
 ダダを捏ねるだろうなあ。いやダダというより。癇癪にも似た。

 でもこれを聞いてくれた母親にわたしは本当に感謝しかない。

 ともかく、そうした自立の姿勢が、
 他を頼まない姿勢が、
 白い玉とか、守護霊とか、自動書記とか、
 そうした実現を頑なに拒んでいるところがあるのではないか、という気が している。

 全部自分でやりたいと思うのも結構だが、
 無知の知の境地、
 教えてくださいと真摯に求める気持ち、これは、
 きっと大切であり自分にはないものだ、と思う。  

 

[http://:title]

[http://:title]