「人生が変わる哲学の教室」なんか合わない無理、でも「面白い」。のかもー。

「人生が変わる哲学の教室」
 これは、久しぶりに、合わなかった。
 この「わかりやすさ」とはどうにもそりが合わない。
 衝動的にレビューを書きたくなったほどだ。
 
 この閉じた宇宙をこじ開ける方法をわたしは思いつかない。
 すべてがあまりに平坦であって、
 これで上手くいくのならまったく上手くいってもらって問題はないが、
 わたしからすれば、取りこぼしているものの多さにただ唖然としてしまう。
 まだあっけに取られている。
   
 こんなことは重箱の隅を突くような、彼の「本質」をそれこそ見逃しているような疑問なのかもしれないが、
 幼児虐待について言及している箇所については、お粗末というか、悩みがないんだなあというか、
 それで救われるとか改善されるものならば、そもそもそれは「悩み」というほど深刻な問題じゃなくてただの「気分」みたいなものだったのではないだろうか、と思える。
 ここに出てくる聴講者もまたびっくりするくらい「素直」である。


 いや「素直」はわたしは美徳であると思っている。
 でもそもそも、そんなに「素直」なら、「悩む」こともなかったんじゃないか、と思えて、矛盾を感ずる。
 この一応悩んでいる姿というのが、
 実に嘘臭いというか、虚構的であるというか。浅いというか。
 そんなに「素直」で「甘い」人間が、そんな(素直でもなく甘くもない)問いや悩みを抱えて生きてきたってのは「本当」なのか?という違和感がある。
 彼らのような人間は本当に実在しているのか?
 その設定自体が甘くない?

 この物語に登場する誰もが、追求の手があまりに甘くて、拍子抜けする。
 なんだこの安っぽい劇場。
 という感じ。これは悪口か。
 この明るさが人を惹きつけるのだとすればそれは、決して批難されるべきものではない。

 わたしは「明るさ」は好きである。

 わたしは悩みを高尚なものだと思っているわけじゃない。
 悩みは悩むから生ずるというのはまさにそうであり、単に事実でもある。
  
 なんだろうな、例が悪いわ。
 喩えが悪い。
 登場する「悩みを持つ人」の「悩み」があまりにも「悩み」として深みがなさすぎる。
 そんな簡単に解決できる話が面白く感じられるわけがあるかよ、という不満・不興が生じてくる。
 たとえば、メガネを探している人の頭にメガネが乗っている姿というのは実際目にすると、いつだって可笑しいものではあるが、
 この「問題」を解決するために、
 息をのんで今や遅しと「名探偵」の登場など俟つまでもない。
 
灯台下暗し」
 という言葉が真実をついていることは間違いないとしても、
 この言葉の真意を解説するための、コンテクスト、文脈、状況は、まったく不適切であるとしかいいようがない。
 このテクストの場合、わざわざ「人間的深みのない・明るい・登場人物」の悩みを解決する状況を拵えて、
「大哲学者たち」なんかを持ち出す必要はなかったんじゃないか、という感じが拭い難く実に腑に落ちないし、とにかく面白くない。
 
 人間的に「明るい」ことが悪いわけでも、「哲学者」が悪いわけでもないんだけど、
 その取り合わせはそぐわないんじゃないの、と思う。
 こんな場面に登場させられた、もともと「明るく生き抜く力を持った登場人物たち」こそ良い面の皮である。
 
 人生に深刻であれ、とは思っていない。
 ただ、深刻さというのは確かに、確かに、「面白い」んだよなあ、こんな表現はそれこそ「不適切」かもしれないけど。
 
「虐待」について持った違和感とは、「それはか弱き幼児に対する親の八つ当たりである」というような描かれ方だ。
 そうであるといえばそうかもしれないが、
 幼児が弱くて親が強いなんて誰が決めたんだよ、と悲しく思う。
 弱い犬ほど吠えると言ったりする、それが本当ならば、吠える親の方が弱いということだってありうる。

 (これもまた陳腐極まりないたとえではあるが)


 わたしがこれを、問題だと思うのは、
 強弱関係をア・プリオリ(先験的)なものとして疑いを持たないスタイルについてだ。
 これは、疑いなくそういう前提を持つことによって、拾いこぼすものがあまりにも多いのではないか、と「危惧」してしまうわけ。
 赤ちゃんが無力な存在だなんて、誰が決めたんだろう?
「いや、だってそりゃそうじゃん」、じゃないよ。


 これは何も赤ちゃんにさえ自己責任がある、とかいうようなオカタイ話をしようとしているんじゃないんだよ。
 先入観を持って自分や相手(他者・あらゆる他者)を見ることは、
 便利かもしれないが所詮便利でしかないという逃れ難き側面がある、という危うさを持つ。
 
 アドバイスの一つとして、「それは親の八つ当たりだよ」というのは、ありかもしれない。
 むしろこの時勢、それは「一般的な解」でさえあるのかもしれない。
 
 わたしはおそらく「人道的」に、
 虐待をする親もまた苦しんでいるのだ、という切々たる思いを蔑ろにすることは出来ない。
 これは「親の身」にもなれ、とかいうんじゃないよ。
 
 だいたいそんなことを言い出せば誰だって自分以外の他の誰の身にもなれやしない。
 
 これは一つの「モデル」としての話だが、
 子供が「あるがまま」「自然のまま」「欲求や希望をもつ」ということに、ネガティブな感情をかきたてられる親・大人というのは、
「自分はそうじゃなかった」という思い、強烈な思い、それこそ生存に関わるような信念を怖くて捨てられずにいる人だ。
 恨みじゃないんだよ。
 これを恨みだと思えたら、そんなものは潔く捨てられる人は多くいるはずだ。
 それはまだ「恨み」ですらない。
 それはまだ「過去」ではないの。
 現在進行中の苦しみであり痛みなんだ。
 
 それを誰もがわかってしかるべきだなんていわない。
 わからなくていい。

 ただ、
 少なくとも、それは八つ当たりだよ、なんて言わなくていい、というだけの話なんだ。

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 でもこれだけ、面白くない、不備があると言いつつ、長々と疑問や思いを想起させうるものとして、これは、もはや、「面白い」のかもしれない。