すでに愛の中、すでに無条件の愛のなかにある。これを喩えをもってして説明することはあらゆる誤謬を生む。いまだ。
「すでに愛の中にある」大和田菜穂・著
わたしが言いそう、と友人に言われそうなタイトル。
これは、昨日の拍子抜けするほど面白かったかもしれない本、
に比すると、
まったく拍子抜けしない、ある意味「面白くない」本だなあ。
批判しようがないという面において。
皆、自分個人の物語、ストーリーを持っている。
そして個を個たらしめるストーリー展開、そのリアリティを社会が支えている。
この場合の個人とか「私」とかいうものは、
「肉体」といわれているが、「エゴ」ともいえるように思う。
「肉体」はたとえば一部が損傷されても「死」なない限りは生きている。
「エゴ」もまた同じで、それは損傷や変容を乗り越えて生き続ける。
自我意識、というのは本当に不思議でミラクルだ。
これを乗り物として船に喩えていたのは、うんこくさい(雲黒斎)。
ストーリーは不思議だ。
それは、なんていうか、わたしを魅了し続ける。
わたし個人の話をするなら、わたしは、物語を描く人でありたかった。
それを切り取って、シャボン玉のように宙へ吹き上げるの。
こういうことを「純粋」にする人でありたかった。
でも「純粋」に物語を語るためには、どこまでもついて回ろうとする「自分」が邪魔をする。
よく「自動書記」のようなことを言う人がいるが、
わたしはこれが出来ない。(ほとんどの人が出来ないだろうけど)
言語の力、言語のもつ有限性、一貫性、整合性に引導を渡してしまうということはあっても、
これわたしが書いたの?へええということは、よほど忘れ去れるくらい年月が経たない限り、印象に残っていない限り、ありえないだろう。
それはある意味「わたし」の「コントロール」下にある。
「知的」であるということが、邪魔をする、
この際、
なんだろう、「個人」を消失することの邪魔をする、ということは、
よくある。
必ずしもあるわけじゃないが。
そんなことを言えば、「知的」でないことが、「個人」の消失を邪魔することだってよくある。
実際じゃあ、
「我」の消失と「知的」には何の関係性も比例もない。
ないのだがしかし、
「知的」であることには確かに罠がある。
その罠は、「面白い」という性格をもつ。
「知的」であることは、「面白く」てつい、夢中になってしまうという性質がある。
「宇宙人」がいる、と想像することは「知的」なことだ。
「宇宙人なんているわけない」
あるいはそれは「幽霊」であっても構わないのだが、
「幽霊なんているわけがない」と断ずる人が、だが幽霊でない存在つまり我々はいる、と信じ込んでいるのだとすれば、
これはまったく「知的」な態度であるとは言えない。
宇宙人がいないと断ずることが(仮に)出来るなら、我々もいないと断ずることが出来なくてはおかしい。
我がいない・は不可能だ、ありえないというなら、彼にとってそれはまったく「断ずること」がそもそも不可能な問題なのだ、という他はない。
つまり、彼に「自分」が乗っている「船」という乗り物は見えていない。
それは(彼・にとって)存在していない。
ここの認識なしに、
つまり「自分」というものもハナから存在していない、という前提なしに、他の何かもまた存在していない、ということは出来ない。その出来なさとは、彼の宣言や断定は単に空虚に響くものでしかない、ということだ。
「自分」あるいは「自分が乗る船」も存在していない、だから「幽霊」も存在していない、ということは言えても、
「自分」はいるが「幽霊」はいない、と断言することはそもそも不可能だ。
でもこの不可能性を、彼はわからない。
そう、本を読んでいて思ったのは、自分と他者、というのをこうやって説明すれば、わたしの想定する「彼女」は、腑に落ちたかもしれないのだろうか、ということだった。
このことは確かに哲学じゃない。
哲学じゃないが、それはそれとして、わたしは哲学を好きだと思います。
好きだからおそらく、哲学の体裁の中で強引に振舞う昨日の彼が気に食わなかったわけで。
いやもう強引じゃん、ファッショだねこれは、と感じた。
それで、話はそれるようだけど、アマーリエという人がいる。
わたしはこの人の話(宇宙の創生・地球の創生にまつわるエトセトラ)を読んだことがあり、ふむふむ面白いと思っていたら、
途中「生まれ直してきたブッダ」が出てくるの。
「ブッダ」が何者であるか、「ブッダとされるということ」が何であるのかをいったん棚上げするにしても、
この「語られるところのブッダ」が1900年代に日本に「使命」をもって生まれてきたけど失敗しました、現世に渦巻く欲は彼をも呑み込んでしまったのです、というような、
記述を読んだときに、一気にいやこれは。
困ります。
と思った。
わたしのストーリー上、そのエピソードはそぐわないね。
そこでふと気づいたのは、
わたしは「成長」「発展」「進化」という概念が昔から苦手というか、
毛嫌いというか、
その「渦」というか「概念」にはわたしは付き合えないというか、
違和感があった。
それを言うならせめて「変化」くらいにとどめてくれ、という気持ちがあった。
悪いものが良くなる、という、
個人的にはそういうことがあったとしてもまったくそれは、個人の自由・センスとして構わないけど、
手出しのしようもないことだけど、
「個人」の枠からハミ出した「社会」という風潮が、こういうことをキャンペーンしてくるというか、
なんだろう、「渦」だな、
ここには「誰」もいないが、「渦」はあり、
この「成長を良しとする」「渦」と接触することは、意思の及ぶ限り避けたいという気持ちがあった。
あったのだが、
かの「ブッダ」が、よし今のタイミングで地球で使命を果たすぞと生まれ変わってきたのに、現世の欲に呑み込まれてしまった?
いやいや待て、じゃああなたが元祖「ブッダ」であったときの「悟り」って何だったの?
困るなあ、もう。
とどうにも抵抗を感じたときに、
おや、どうもわたしは「成長」の概念を意外と自分のものとして受け容れているらしいぞ、と思った。
わたしは、フラットなものがとにかく好きというか、
何の痛痒もなくてリラックスできるんだよね。
すべてはすでに欠ける・満ちることなくあり、すべては起こる。
というのは、そういう意味では、
すごい落ち着く。
そうおそうそう、そうもお、そう。
だから「大和田菜穂」さんが進化はない、と発言した箇所にはちょっと心がほっとした。
この感覚(すべては欠けも満ちもしない)を、「個」をお互い持ち合ったまま完全に共有することは出来ない。
それはもう、出来ない。
光の「点」(個)が流動的な軌跡、線を描く。
線を描く。
これは「時間」を概念として想定しなければ「見えない」光景だ。
「点」としての光の数は膨大にあり、そのあらゆる互いに恣意的な「点」の描く軌跡の一部が、交わるように感じられることもある。
これを、わたしは、「僥倖」と呼ぶ。
それは「結婚」であり「一期一会」であり「親子」であり「友人」であり「きょうだい」であり、「通りすがり」であり、もうありとあらゆる「関係」としての「点」だ。
それは知覚できる以上に大いなる共通基盤をもつストーリーであり、
わたしはこのストーリーに愛着を感じずにはいられない。
ここに踏みとどまりたいなあと思うの。
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