「モンスター・マザー」めっちゃ面白い!
書くこと(言葉)によって「出来る・可能なこと」の限界を、それを書いている(言葉を操っている)本人が知っている、って大事だと思う。
「モンスター・マザー」が面白くて一気読みした。
アマゾンレビューにも目を通したが、一気に読んだ、という人が多かった。
わたしは普段図書館で予約した本を読むのだが、返却や受け取りの際、時間があれば(なくても)ふらっと本棚を見て回る。
そうして予約以外の気になった本も借りて帰ることがある。
「モンスター・マザー」もふと気になって読み出したら止まらないので借りて帰って一気に読了した。
「ノンフィクション」というのは「フィクション」の一部なのだが(表現されたものはすべて「フィクション」である)、
だから、「ノンフィクション」とわざわざ名乗る形態に対して、少々のいかがわしさというものをわたしは常々感じていたが、
ここへきて、
「ノンフィクション」の面白さとは、
自分が思っていたのとは逆に、「あくまでも真相はわからない」という立場を取りうるものでもある、ということに気づいた。
一般的に「フィクション」たとえば「小説」などは、
語り手の想像した範囲内に世界が収まりきるものである。
そんなこと言ったって登場人物Aの真実なんて、作者にわかるはずがないじゃないか、ということは、「ありえない」のだ。
いや、そうまで思わしうる臨場感あふれる「小説」が優れた「小説」であるという一面は肯定的に評価されるべきだが、
そういうことは置いておくとして、
基本的には「作者」とはすべてを「知っている」という前提のもとに「小説」は書かれる。
ところが「ノンフィクション」はそうじゃない。
この場合、「丸子実業高校・いじめ・自殺」事件を、「著者」が取材に基づいて、「できるだけ」再現してみせはするが、
読み手に対して「これだけがすべて」と受け取らせない余地を「ノンフィクション」と銘打つことによって、残しうる。
ここを批判している人もいたが、これは批判するに当たらない。
真実とは、著者が記したものに限定されるわけではない、
って、そりゃそもそもあたりまえじゃないか。
著者は「個」を超越した「神様」じゃないのである。
「もっと読み手に配慮を」という意見などが、わたしからすればその最たるものだ。
そんなことにまで責任を負えるはずはない。
とはいえ、そんなふうに受け取る人もいる、ということを起こりうる可能性の範囲内、として気にかけるのは誰にとっても「自衛の手段」として悪くはない。
自分の意図とは斜め明々後日の方向から投げられる「反応」に対していちいちぎょっとせずにいられるということは、各人の心の平安にとっては望ましいことではないだろうか。
いやこれは余談だな。
「虚言癖・噓つきは病気か」
を思い出した。
この母親は病気である。病気というものがあるとすればだが。
明らかな人格障害、もしかすると二重人格なのかとさえ思わせる発言が随所にある。
どなたかもレビューで言及されていたとおり、
二番目の夫が、アメリカで彼女の飛び降り自殺を止めようとして騒ぎになり、現場に駆けつけた現地警察に、彼から妻へのDV容疑で拘留され、何度か面会に来た彼女が「懐かしそうな表情」を浮かべる、というくだりはもはや、
文学的な、文芸的な香りさえ匂い立つ場面である。
まったく破壊的で、常識が通じない。
こういう人物の及ぼす尋常ならざる影響というのを、もっと恐れずに、早々に断罪せずに関心をもって、メディアや読者は取り上げてみたらいいのにな、と思う。
当事者でないからこそ持ちうる心の余裕や冷静さを、捉われのない純粋な好奇心として保ち、もっと「あなた個人の事情」を離れる好機として、こうしたミステリ(謎)へ臨む姿勢が、あってもいいのじゃないか。
なんでもかんでも、聞くこと見ることを「自分の事情」に関連させる癖というのは、誰にとっても程度の差はあれ、持ってしまう傾向があるとは思うし、
また、それを完全になくすというのは難しく、非人情的な感じがしてしまうのも否めないが、
確かに世界はそれだけ(あなたが過去に経験したものがすべて)ではない。
世界に秩序性・規則性を求めるのは「幼い我々」であって、「熟達を求める我々」ではない。
この「モンスター」を誰か止められなかったのか、
という無念や抗議も見られるが、こんなものを止められる個人が果たしているだろうか。
もっとこの母親個人に対する、肉薄する報告があればそれを読みたいと思う読者はわたしだけではないだろう。
〈追記〉
21:21 2018/10/11
この母親は本当にすごい人だ。
トンでるね!!
わたしたちは「わからない」ものが怖い。
「わからない」が許せない。
これはよく言われるように、この際の「わたし」とは要するにエゴ(自我)だ。
それは「理性」と呼んでもいい。
この人は病気なのだが(病気というものがあったとして)、
実に興味深いのは、「自分が相手にしたこと」が「相手が自分にしたこと」に見事につるっと何の摩擦も抵抗もなく反転してしまうところだ。
夫を罵る場面の再現などは、悪魔ってもしかして本当にいるんじゃ?と思わせるくらい、
ナニモノかに「憑依」されているかのような、迫真性がある。
そしてまた(レビューで)誰かが言っていたように、
こういう人物は、本当に「相手の弱み」を感じ取ることに長けている。
学校側が後手後手にまわらざるを得なかったのは、まったく「学校側」の弱みを彼女はわかっていたからで、
そして、学校だけではなく、多くの人にある共通する弱み、とは、
「いい人でありたい」「いい人でなくてはならない」「いい人だと思われたい」「いい人だと思われなくてはならない」、
もっと究極的には、「正しくありたい」という思い・願い・それはもはや第二の生存本能とでも呼ぶべきもの、であるのだ。
ここの弱みを彼女はまったく容赦なく刃物を散らつかせて突いてくる。
いやこれは比喩ではない。
実際に刃物をふりまわしたりしているのである(家庭という密室の中では)。
わたしは彼女の見事なまでの狡猾さ、をほとんど賞賛の念をもって見る。
彼女の「知らないふり」はもはや「芸・術」の域である。
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