「相手を試す」「世界に挑む」ことで「自我」の限界点に到達することは出来ない。モンスターおかあさんの続き。

 前回のページ(下)の追記です。

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 彼女の「心の闇」について慮っていた人もいる。
 わたしもそれはふと思った。
 何があればこうまで「病気」を進行させうるのかと。(病気というものがあるとしてだが)
 しかし、「何」があれば、わたしは「やむを得ない」として彼女の心情に寄り添えるだろうか。
 外側から見れば「こんなこと」や「あんなこと」、があった、でも現実として起きた事柄を内面的に「どう受け止めれば正しい反応」と言えるのか。
 正しい反応、そんなものは、「ない」としか言いようがない。

 たとえば「自分は愛されたことがない」と言っていた。
 これはおそらく彼女の心情として真なのであろう。
 彼女は主観的真実としてつねに「被害者」である。
 そしてもしそれが「真なり」とすれば、この世界はどれほど荒廃した、危険に満ちた、ぞっとするような悪意や怒り、圧倒的なまでの無力感、また悲哀や絶望で成り立っていることだろう。
 これはまさに冗談抜きで「ぞっとする」ような世界であると言わざるをえない。
 彼女の息子は「おかあさんがかわいそう」と言っていた。
 わたしは仮にも人が、仮にも人に向かって「かわいそう」などと言うのはどうかと躊躇われるが、この場合、この親子という関係性においては、子から親への「かわいそう」という言葉がけは、非常に心を打つ。
 あえて断ずるが、こうした破壊的でいくらこちらが思っても報われない親(むしろ加害者はおかあさんである)に対して、「かわいそう」(おかあさんは被害者である)と思えるような心根の優しい子が、
 外の世界で起きた「些細な」出来事、「他者との関係」を深刻に受け止めて、「自分は被害者である」という立場を取りうるだろうか。
 もちろん親からの影響で「この悪意に満ちた」「自分の身は(他者を傷つけても)自分で守らねばならない」世界観を引き継げば、そうもあるかもしれない、
 だがそうは思えない。
  

 というより、自分の身は他者を傷つけても、の、「他者」が「傷つく」という認識が彼女にはそもそもあるのかどうかが疑わしい。

 ないでしょう。

 いや、ないというのも正確ではないが。

 そしてここがまったく複雑怪奇なのだが、「他者を傷つけることは出来ない」、それもまた「真」なのである。

 だからこそ彼女はここまで他人を振り回すことが可能なのだ。


 その昔、「Itと呼ばれた子」という本があった。
 わたしはこれを何度も嫌だなあと思いつつ、読まずにいられず、かといって買って帰ることなど到底引き受けがたく、書店に通いながら立ち読みにてほとんど完読してしまったことがある。
 これは児童虐待を乗り越えて一児のパパになるまでの話なのだが、
 ここで気になったのは、彼は兄弟のいる長男なのだが、いじめられるのは常に彼だけなのである。
 おそらく高校生くらいであったわたしは、「いったいまたなぜ?」という義憤を通り越した疑問が実に不可解であった。
 そこには行為に対する「一貫性」というものがない。
 無意識にそれらが行われているのではなく、行為への意識的な恣意、意図性、があるように思われてならない。
 わたしは「親」になったことはないが、
 だいぶ大人を経験して思うに、いくら「子」とはいえ「相性はある」ということは、あるんだろうなあと想像にかたくないが、
「彼」に対しては常識を逸する虐待を加えておきながら、まるでさらにそれを際立たせるかのように、「彼」の同胞・きょうだいには手を出さない。
 おぼろげな記憶で書くのもどうかと思うが、
 たしか、「彼」の弟が「彼」の身代わりになりかけたことがあった。
 それはまるで、おまえが逃げるなら弟を同じ目に合わせるぞ、という脅迫をにおわせる場面であった。
 というくだりがあったように思う。
 
 ところでこの「モンスター・マザー」においても、自殺した彼には弟がいたが、このモンスター級の母親は、弟には「なにもしない」「なにをしても叱らない」のだった。
 いったいここに何が起きているのだろうか。
 
「やさしい」というのは、まったく諸刃の剣である。
「正しくありたい・あらねばならない」気持ちに付けこむのが悪魔的に巧妙である人間はまた、「やさしくありたい」と願う人の心にも、情け容赦なく踏み込んでその陣地を荒らす。
 彼女は「人の心を試している」のだ。
 それは無意識に行われているかもしれないが、無差別には決して行われない。
 衝動をとめようもない自分、は結婚するまではなりを潜めているのである。
 結婚するまではかわいそうな女性だとしか思いませんでした、とかつての夫たちは言う、でもいざ結婚が成立すると、彼女はまさに豹変する。
 こんなことは人によるとしか思えないが、彼女にとっては「婚姻関係にある」ことが、ひとつの、なにか、抑えがたき自らの衝動を、
 踏み越えてもいい許可を得た境界線として明確に見えている。
 ここを乗り越えさえすれば大丈夫、なのである。
 いや全然大丈夫じゃないんだけども。
 
 そう、これは彼女だけではなく、ある種の、いやもしかするとわりと多くの人には何がしかの(自分なりの)「境界線」が見えており、
 つまりそれは何かというとパターン化された「関係」における普遍の「規則性」である。
 そんなものは「普遍」でもなんでもない、と思える人にとってはひじょうに奇異に思えることだ。
 
 彼女はおそらく自分の親との関係においても、この固定化された決して破られることはない(としている)規則性を当て嵌めているのではないか、と思われる。

 そしてこれは酷なようではあるが、
「そう思わせた親がすべての原因」とすることは出来ない。
 出来ないというより、そんな因果関係を決定的なものとすることには何のメリットも見出せない。
 メリットとは自分が(ひいては世界が)自分をゆるし、癒すためのメリットだ。
 これは極端な例ではあるが、こんな極端な例を持ち出してもやはりそう思う。
 親との関係でおきた齟齬を、親と直接対峙する関係においてしか解決できないということはない。
 親も子もまた「自己」というそれぞれがかけがえのないものからすれば圧倒的に「他者」である。
 ここの境界線(自己と他者)をそれぞれ勝手に引いておきながら、あるいは引かずにおきながら、
 自明の理と解釈するから、おかしな、苦しいトラブルが生まれる。
「自己」の輪郭線を意識するだけで、相手がどうであれ、修復できる痕跡はあると思います。


「相手を試す」だけでは永遠に到達できないのが「自己」つまり「自我」の限界なのだ。

 

 だから、戻ると、

「なにがあれば彼女の事情をやむなし、と思えるだろうか」、

 つまり何があれば彼女の「ありかた」は彼女自身の力の及ばない不可抗力の結果であると思えるだろうか、の答えは、

 そんな「なにか」はないということになります。

 あっ誤解しちゃいけません。

 つまり、そんな「なにか」が存在すると実証して(そもそも実証できないが)損なわれるものを「わたし」は、損ないたくはないということです。

 

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