鏡像反転。

 今日も予約した本を受け取りに図書館へ寄ったら、「なぜ私たちは過去へ行けないのか」という、およそ過去を懐かしむでは足りず、戻りたいなどという気持ちもあまりないわたしには不似合いとも思える本をなぜか手にとって、途中を開くと、
「鏡像反転」という言葉から引き込まれてついには借りてきました。
 鏡って、左右には反転するけど上下には反転しない、これって不思議なことじゃないですか?という問題提起で、
 いや、そういえばそうだ、
 だがこれは、要するに受け取る我々の認知システムによるものなのでは、つまり脳が、などと推測しつつ、色んなことを思い出したりした。


 幼い頃、やはり鏡に映る反転文字が不思議で、鏡を真似て反転文字を書いていたことや、
 少女の顔を描くのが好きで毎日のように一日一枚は自分が美しいとか可愛いとか思える顔を描いていた、
 あるときふと紙を裏返してその絵を見たとき、あまりに左右非対称なバランスの悪さに心底驚き、裏側から見るまでもなくバランスの取れた顔をあらかじめ描けるように腐心したり、していたことを。
 
 よく、右利きの人は紙面に向かって左向きの顔は得意だが、右向きの顔は苦手だということが、言われておりそれは果たして事実である。
 これは脳がどうこうなどという理由や原因を俟たずして、うおっほんまや、というような「経験」にもとづくものであって、
「両利き」寄りの人には実感されづらいことかもしれない。
 鋏なんかでも、ふと左で切ろうとしたらどうしても切れなくて、悪戦苦闘した経験ののち、随分たってから、鋏には「左利き用」がある、ということを知ったり、とかね。

 わたしはわりとのほほんとしているらしく、中学生、高校生くらいまで、
 周囲の人間は皆変わっている、と思っていたが実は、周囲の人が皆変わっているのだとすればむしろ、「変わっている」のはわたしの方なのではないか、という認識の転換に気づくことがなかったりした。
 とはいえ、日常の生活を送ることに関してはわたしはメジャー寄りだ(右利きとか、外国人もいるけど自分は日本人とか、うーんと、孤児ではなく両親がいるとか。もっとぐっとくる例えは思いつかないのか。つかない)と無意識に無自覚に思っていたので、
 成長するにつれ、「自分が女とかいうものらしい、という違和感」がとりわけ、のほほんとしていた自分にもたらした恩恵は大きいと思っている。

 鏡はたしかに、今更ながら、不思議だよね。
 江戸川乱歩も「鏡地獄」なんていう掌編を書いているよね、と思い出して読み返したくなった。