自己否定は「おごり」

 夢でのキーワードは「傲り」とは何だろうか、である。

 ところで、わたしの信条は、「挑戦しないのなら死んだほうがマシ」だ。
 挑戦というといかにも戦闘的かもしれない、要は「日々新たな発見がないのなら」というほどのニュアンスだ。
 継続することは、自然なことなんだな。

 と、ある流れが起きる。
 その流れがまた別の波紋を作り、それらは継続してゆく。
 それはまるで「慣性の法則」のように、昨日に基づいて今日があり、今日に基づいて明日がある、というように、ただ継続する。
 それはまったく自然なことだ。
「良い」も「悪い」もない、ただ自然な流れであるのに過ぎない。
 
 あるときふと「昨日の続きが今日であり、今日の続きが明日である、ということ」に気づいた存在がいた。
 彼は、明日も明後日も明々後日も、一年後も、十年後もということをまで遥かに思いやった。
 そして不安になった。
 今ある安全の永続、その安寧、その確かな未来を今すでに手に入れておきたいと願った。
 
 これは、不自然なことだ。
 
 彼は「予期」する能力を手に入れたことにより、「予期のかなわぬ・うつろい」を恐れるようになったのだ。

 わたしは未来を保証する「安全」を手に入れたいとは思わない。
「安全」とは今すでにここにあるからだ。  
 
 今日のことだけ、今のことだけを考えていたら幸せだなんて、おめでたいな、あとで泣きを見たって知らないぞ、
 という先を見るに長けた「賢い」人々は実際のところ、
 あとではなく今、泣きを見ているようなものだ。
 彼の「安心」や「幸福」は今ここにあるものでは十分ではなく、それで満たされていると満足することは彼にとって「愚か」なことでさえある。
 
「向上心」を持つのは良いことだ。
 そのとおりだ。
 だが、その「向上心」の状態、「向上心」があなたに及ぼす感情には注意をはらわなければならない。
 その「向上心」は、あなたを嬉しくさせるものだろうか。
 あなたに生きる喜び、いま生きているという奇跡のような幸福、興奮を感じさせるものだろうか。
 
 かつてわたしに、「わたしは幸せになりたい、あなただって幸せになりたいでしょう」と詰るように、ほとんど訴えるように言った人がいた。
 あなたにとっての、あなたが思い描く「幸せ」とは何なんだろう、それはある意味とても個人的なことだし、そういう側面において実に曖昧にならざるを得ないものでもある、と少し当惑し、ごちゃごちゃ言うのも何なのでただ、
 わたしは、いますでに幸せだと返した。
 翌日またその会話を思い出し、ご飯を食べながら、今海に放り出されて息も苦しく溺死する状況だとしたら?
 という想像がふと浮かび、現にそうではないということがしみじみとありがたく、「今がある」幸せを感じた。
 
 そんなことが幸せだなんて小さい、あるいは不十分だ、と思うのは、「生きている」ことそのものの雄大さに比して実にそれこそ矮小かつ、また本末転倒な思考である。

 そもそもわたしたちは、「幸せになる」ためにこの人生を生きているわけじゃない。
 わたしたちはすでに「幸せ」なのであり、
 そのことに気づかない限り、本来あるこの人生のスタートに立つことさえ、かなわないのだとも言える。
  
 幸せっていうのは何ら特別なものじゃなくて、当たり前に今あるものが幸せそのものなのだ。
「幸せになりたい」ってことは「今は幸せじゃない」という思いを宇宙に向けて発信し続けているようなものだというのは、そういう意味で、よくわかるし、本当にそうだなと思う。
 神様は常に「イエス」としか言わないんだよって話も思い出す。
 本当にそうだよな、と思った。
 わたしは不幸なんです、といえば、神様は「オッケー、そうだね(yes)」と返してくる。
 
 これは鏡の不思議さ、鏡の深遠さ、神秘に通ずるものだ。
 
 まとまりないので「おごり」について最後に、思い出してみる。

 傲り、つまり傲慢さとは、
 
 うんたとえば、絶望するとか。
 この世に何の希望も見出せないとか。
 
 いっそ言えば、「自己否定」は、「おごり」の最たるものだ。
 自分なんて取るに足らない、というとき、
 ここも「感情」がどうであるかが肝なのだが、
 自分なんて取るに足らない、というとき、世界は素晴らしい、という思いがあってその言葉が突き上げてくるのか、あるいは、
 世界が(というかこの際他者が)素晴らしく美しいことに比べて、自分とは何とお粗末でみっともなく、生きている価値のない劣った存在だろうか、というような、いわば自己卑下の念にもとづくものなのか、
 というのはおおいに、違うのだ。
 後者の「自分なんて」、はいわば、その自分とはエゴと置き換えられるものだ。
 

 自分ってのはエゴじゃなくて、エゴをも包括した、エゴを超越した存在なの。
 だから世界は素晴らしい、というときとても清清しい気持ちでそれを思う。
 自分とは、イコールエゴではなかったんだ、という気づきは、それはそれは気持ちがいいものだ。

 ところが後者の自己卑下たるや、世界にただ圧倒され、みじめにひれ伏している自分がいる。
 自分というものはみじめな存在である、と思うのは、これは、まったく逆さまのようだが、はっきり言って「傲慢さ」である。
 
 あなたに何がわかったのか。
「あなた」に何が「わかった」のか。

 あなたは、借りてきた。
 あなたは宇宙の全なる源からエネルギーとしてやってきて、ここに「エゴ・フレーム」とか「脳」とか「身体」とかを借りて(仮の姿として)いまここに体現している、実在している。
 あなたは「フレーム」じゃない。
 あなたは「フレーム」を通じて自己を確認するが、「フレーム」が「あなた」なのではない。
 
「フレーム」があなたを圧倒し、圧殺するということは、
 まあそれも一つの経験としてありかもしれない、なしではない、ただ、
 わたしが思うには、それって、むしろ傲慢なんじゃない?と感じる。
 それは弱さというより、自我の肥大ではないか、と思う。

 

 おごり、

 それは自分を価値のない存在だと思うことだ。

 あなたには価値があるから周囲の取るに足らないその他大勢、衆愚を支配しろっていっているんじゃないよ。

 啓蒙しろっていうのも違う。

 啓蒙は、必要ない。

 

 結局、コインの裏表なんだな。

 卑下しなくて(裏にまわらなくて)いいというと、じゃあ表に、

 違うよ、裏とか表とかじゃない。

 そんなコインはただ捨てちまえばいい。

 捨てられないのは、愛惜かもしれない、同情かもしれない、遠慮かもしれない、もしくはただ自信のなさかもしれない、

 ともかく自分が「捨てられない理由」を持っていることはたしかだ。

 どこかで逆転する華々しさへの憧憬を捨てられないのかもしれない。

 

 ともかく、あまりに自分を価値がないとか、卑下するとか、世の中に絶望するとか、

自責の念にかられるとか、

 そういうのは、全部ようするに「おごり」だよと思う。

 妬むのもおごりだ。

 妬まれるのもおごりだ。

 

 すべては突き詰めれば「受け取り方」だし、「受け取る」のは自分自身だ。

 昨日と今日とでは、世界は、本当に一変している。

 今日が昨日の続きだと決め付けているのは自分であって、他の誰でもない、

 本当は、他の誰でもない。

 あなたは「優しさ」でもって「他の誰か」の決め付けに譲歩しているのかもしれないが、

 でもそれは、あなたが本当には「困っていない」ということのあらわれかもしれない。

 

 すべては自分の受け取り方だと思うと、本当にわくわくする。

 何ならちょっと行き過ぎた感じとして、緊張(ハラハラ)さえする。

 

 誰にでも、断言するが、「信念体系」というものがある。

 それは記憶の積み重ねといってもまあ同じようなもの。

 まったく未知なものに触れる、対応する、冒険心があなたには残されているか?

 わたしには残されているか?