発達障害・アスペルガー・広くは自閉症。が迷路に迷い込んだように、気になるし面白い。

 何を調べていたのか忘れたが、検索画面に「実はわたしもアスペなのでは」というヤフー知恵袋にあがっていたものを読んで、面白いな、奇遇ですねわたしもですと思った。
 しかしヤフー知恵袋もなんだかカオスだな。

 ネタというか釣りというか、いわば「架空の質問」も多いと聞くし、実際にそうなんだろう。
 それが架空だろうが、「本人的に事実」に即したものだろうが、わたしはあまりどっちでもいいというか、気にしないけど。
 
 わたしは「事実」に無頓着だと思う。
「事実」、そんな区分けは必要ないとさえ思っている。
 これは「事実」だが、これは「事実」ではない、そんな仕分けは幻想に過ぎないというか、何でもないという気がしてならない。
 それは便利だし実際に未だ機能を果たしているけど、
 ま、そのうち廃れるだろうと勝手に思っている。
 
 夏目房之介が面白いのは、系統立っているというか、緻密っぽい分析というか、いや「ぽい」てのは悪口じゃないけど悪口みたいだが、決して悪口ではなく。
 そもそも緻密であることの「優位性」が、わたしは「ない」と思っているからそういう表現になる。
 緻密っていうのは表現のひとつ、バリエーションだと思っている。
 硬質なタッチ、柔らかなタッチというように、緻密さというタッチがある。
 緻密であればあるほど良いということはなく、単に嗜好性としてそれがある。
 それで、どういう表現方法であってもそこは好みというか、単にそれもありこれもありというものであっていいしそれぞれが味わい深い、
 わたしが面白いと思うのは結局のところ「感性」なのかもしれない。
 なぜ彼はそれを取り上げようと思ったのかという「動機」の立ち上がりというか。

 
 ヌーソロジーは面白かった。
 四つの柱、
 表の白と黒、裏の白と黒がそれぞれ交差しているという、
 ユングのアニマとアニムスみたいな。

 途中でふと、「二次元の世界」だったか、1800年代後半に書かれた小説を思い出した。
 あれは画期的な試み、実験的なおもしろい意欲作だったと思う。
 でも仕方のないことだが、どうしても古いというか、偏りというか限界というか、

 
 なんていうか、ある地点、ある座標から予測する未来には、どうしてもその地点、その座標から見たというそのもの、立脚点を捨て去ることは出来ない、
 出来なくてもいいのだが。
 
 なんでしょうね、昔、わたしが小学生の頃だから、1980年代の図書室にあった、未来SFモノというのが、
 もうすでに古い、古いんだけど、わくわくする。
 それらは設定が未来なだけであって要するに少年モノの冒険譚であるという古さ。
 背景の違いはジャンルの違いにすぎない、
 舞台をどこに設定しようが、そこに貫かれている精神は同じであるというか。
 未来も過去も外国も、いまここ、ではないという意味においては同質であるというか。
 
 時代漂流ものが好きだった。
 いわば日常を離れて異世界へ行くものが。
 ズッコケ三人組の初期の作品でいえば、無人島へ漂流する「危うしズッコケ探検隊」、江戸時代へ行き平賀源内と交流する「時間漂流記」、土蜘蛛の一族にとらわれてしまう「山賊修行中」がとても好きで何度も読み返した。
 そして、自分の趣向として、そうか、こういうものが好きらしいと自分でも自覚できるような偏りが確かにそこにはあり、それとは一言でいうなら「異世界」モノなのだった。
 
    *

 発達障害の一つに、省略が出来ないということがある。
 点と点を繋いで線にする、ということが理解不能な「飛躍」としか感じられない。
 でもこれは、実際のところ、誰しもが経験したことがある現象ではないかと思うのだ。
 
 そこに断絶があると感じるのは、
 結局のところ、それを「経験」したか否かという、
 納得したか否かというか、
 自分の身に落とし込めたか否かの違いに過ぎないのではないか。
 実地的に、それはわかる、それはわからない、の違いに過ぎないのではないか。

 ところでこんなことを軽率に書くのはちょっと憚られる思いもあるが、
 わたしは「発達障害」を枠で囲い込むのは、「どことなく反対」の気分を捨てられない。
 だれだって「健常者」である、というとき、
 では「健常者」とは何か、という明確なガイドラインがあるのであれば、それはすでに「誰だって」とは言えないし、矛盾しているわけです。
 わたしにももちろん無自覚・無意識にかくあることが自然、ということはあり、
 言い換えれば「盲点」は必ずやあり、
 無意識に設定しているガイドラインというものは存在する。
 それが何か、ということはだから、無意識だから描写しようがないわけですが。それは未だ無意識の領域に留まっているから「無意識」なのであって。
「アホ」を辞書で引くと「アホのこと」とあった、みたいなことを書いている気がするが。
 
 つまり何が言いたいかというと、
 未だ無自覚である「これが普通」ガイドラインはわたしにも誰にも存在するのであろうが、
 まあ、だから「理想」としてですね、いずれは自覚される可能性があると思う、という希望を託して、
 わたしは誰だって健常者である、という理念を持っている。
 規格外などというものは大いなる視点で見たときには、ないんだ、と思っている。
 それがどういうものかは具体的にわからないけど、きっとあるんだろうと思っているもの、まるで「イデア」のようなものが、わたしにはあり、

 それは「誰しもが健常者」「誰しもが規格外ではない」「誰もが存在してもいい・存在すべくして存在している・存在である」という、理念というか実感だ。

 だから、「発達障害」という括りが、その仕分けが、

 仕分け自体が悪いとは思わないが、それがいったい何を目指すのかという「動機」によっては、わたしは「どことなく反対」、

 これが正でありこれが否であるという仕分けの姿勢ならばわたしは、それを反対とするよりないという気持ちがする。

 違い、を違いとして他から自らを際立たせるもの、自らの輪郭線を自覚させるもの、としては、反対ではありません。

 
 戻りますが、

 発達障害とされる人が(とされない人にも経験があるとわたしは思いますが)、「省略が出来ない」、

 点と点を結ぶ線、なぜその点と点が線となって結びつくのかがわからない、飛躍であるとしか思えない、

 ほとんど超能力のように他者とのコミュニケーションを成立させている(定型発達の)人々がいる、と感じられること、
 
 つまり普通は(というか「超能力を駆使する人たち」からすれば)省略するでしょってところを、省略したらわけがわからないと主張するような人、というのは、
 
 なんでしょうある意味、この「あたりまえ」が連綿と続く世界に、
 いったい何が当たり前なのかという、
「差異(違和感)」をもたらしに来たのではないか、という気がする。

 この当たり前、とは、要するに幻のようなものだと、わたしは思う。

 ところがこれは、個人的な幻、ではなく、後天的に獲得して、もはやそれは「幻」とするにはあまりにも「実体」を持っているとしか言いようのない「元はといえば幻」なのだ。(「健常者」の「当然」を疑ってみるならば)


 われわれ(健常者)は共通の幻を見ている。
発達障害」の人にはその幻は見えない(もしくは幻としてしか見えない・それが実体であるとは信じられない)。

 違う例を出すならば、
 幽霊が見えない。もしくは幽霊が幽霊としてしか見えない。
 幽霊の見える人で幼い頃、それが幽霊なのか幽霊でないのかの区別がつかなかったという話を聞いたことがある。
 そういえばそうだ、いったい「それ」が幽霊か幽霊でないかを、距離を置いて「見ている」だけでどうやって判別するのだろうか。
 この「見る」ということも、
 面白いなあと思うんだけど、これは「訓練の結果」であって、
 生まれつき目が見えない、という人もいるが、
 そもそも誰だって生まれつき「目」は見えない。というか目を使えない。
 つまり物理的に、肉体器官的に「目」によって「現実」を「見る」ということは、生まれたての赤ちゃんには出来ない。
 肉体を使って現実感覚を獲得していくのはおよそ後天的なことなのだ。
 いずれほとんどの人は目で物が見えるようになるし、立って歩くようになるし、言葉を話すようになるが、
 生まれてすぐに目が見え、立って歩き、言葉を話すような赤ちゃんはいない。
 それらは、皆その過程を如実に語るには「忘れて」しまっているが、訓練を訓練とも思わない中で「自然と」習得していった所産なのである。

 わたしもアスペなのでは?というひとの質問に答えるならこうだ。
 あなたはアスペなのではなく、アスペ的判断が出来るひとである。
 

 結局、すべてはグレイゾーンなのであって、ここからは白、これからは黒、と言えるような境界線は、それこそ幻(仮想)である。

 でもこの幻が、幻としてではなく、「実体」としてまかり通っているのが、現在ある世界の様相である。

 ではあるが、これは、確かに、変化の時期にありますね。

 

 こうなると、果たして、「硬直」しているのは、いわゆる「健常者」なのか、それとも「発達障害」とされる人なのか、どちらであろうか、ということさえ、

 まったくファジー(曖昧)に思えてきますね。

 

 無理やりにまとめると、

 健常者であれ、そうではないのであれ、

「慢心」に陥ることは怖いですね。

 ということになります。

 

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