ゲームをされない方の着席はお断り、という「ハウスルール」があった。
カジノが面白い。
バカラが面白い。
という話をずっと書きたいと思っていた。
ゲームをされない方はテーブルにつかないでください、というハウスルールがあった。
カジノの店を「ハウス」、あるいは「箱」といったりするのも面白い。
もちろん「店」、ともいう。
でも店ルールや箱ルールとは言わない、それは「ハウスルール」であり、
ようするに言い方の通例にすぎないが、その意味するところは、ウチ(家・ハウス)で決めたルールに従ってもらいますという制約であり、
制約を破られる場合には退店、もしくは会員権を取り上げることになる。
ハウスは誰でも入れるわけではなくおよそ「会員制」である。
ゲームをされない方はテーブルに座らないでください、の意味するところは、
単純に混んできたときゲームをする方に席をあけてほしいからでもあるが、
そういう、誰が見てもそうだ、ということだけではなく、
ゲームに「参加」されない方の醸し出す「他人事」な白けた空気がダメ、
賭けてもいないのに無責任に野次をとばすのがダメ、
賭けてもいないのに面白がるだけではダメ、
なぜダメかというと賭けている客がそれを嫌がるからダメ。
ということがある。
面白いのはそれが、
リアル、現実、現世と重なる部分があるな、と思うからだ。
ところで何がリアルか、ということは、人それぞれとしか言いようがない。
世の中には「それでも地球は平たい」と信じている人もいるのである。
地球は平たい協会というのが、現に今もアメリカにあるのである。
彼からすれば地球は丸いなんていうのは空想か陰謀か、ともかく「現実」ではないのであって、
つまり「現実」とはそれほどまでにいわば、可塑性があるというか、
自由自在というか、
あなたがたとえそれをそれと意識しないまでも、信じている、という自覚がなくても、信じていることが要するに現実だというほどのものでしかない。
それで、「これが現実だ」と思っている、信じている、ことがあるときに、
言い換えれば「これは重大事だ」と思うようなことがあるときに、
横で、「そんなのどうでもいいじゃん」的な態度を取られると面白くないですね。
それは大変ですねえとまったく大変そうでもない感じ、他人事な感じで空々しく騒がれてもやっぱり、面白くはない。
著名人あるいは事故や事件で一挙に著名になった人の死に際してマスコミが駆けつけて「今のお気持ちは」とやるような行儀の悪さにも通ずるようなある種「無礼さ」がある。
ゲームをされない方の着席お断り、とは、そういうニュアンスなのだ。
お金を賭けてゲームに参加している人のそばで賭けていない人がいる。
いわば、参加料を払わずにゲームをタダ見している人がいる。
そうすると、身銭を切っている人からすれば、こいつをつまみ出せ、という気持ちになる。
単に気が散る、不愉快だということもあるし、それは、マナー違反であるということもできる。
身銭を切っている人がすべてそんなふうに苛々するわけではないが、
昔は、ハウスが先回りして参加しない人を、ゲーム台から人払いするという姿勢があった。
今は、あんまり見られないですね。
別に良いの悪いのって話じゃないが、たしかに、時代の移り変わりはこんなところにも現れるんだなあ、と思う。
現実を当事者として共有出来ないひとの参加はお断り、というのは今も空気感として存在している。
そしてそれは、ある意味「あたりまえ」の実感としてわかるものだ。
いや、わかるものだ、とわたしは思うが、
そうじゃない人もまあ、いますね。
相手をおざなりにして、それは言うならば日々刻々と生まれているはずの自分をも、なおざりにして、「正しさ」や「常識」に固執するような態度として現れる。
河合隼雄が、自己臭症の人に対して、あっこれは大変だと、
一気に緊張が走って、迂闊なことは言えないと思うのと似ている。同じだ。
「僕、臭いますよね」
に対して、臭わないのだから臭うといえば嘘になる、臭わないといえば「彼にとっての現実」を尊重せず一蹴することになる。
困った、といって、そこに踏み止まること、これにはまったく、「胆力」がいる。誠実さがいる。
思いがけず窮地に立たされて、一昨日とか明後日とかに逃げずに今この瞬間から突破口を見出そうとすること、
これはもちろん相手を打ち負かすのではなく、むしろ、相手が本当は「何を気にしているのか」「何が問題なのか」を相手の身に立って、切実に感じ取る、ということ、
安易に過去のデータや未来の期待に逃げない、ということ、そのためには自らの恐怖心に打克つ必要がある。
打克つっていうのはそれを闇雲に退けるんじゃなくて、見ないことにするんじゃなくて、それを見つめる。
現実って何でもないんだよ。
っていうと語弊があるが、
つまりそれは、自分が創った現実であって、他人が創った現実ではない。
他人のものに影響されたり、干渉を受けたり、同調することはもちろんある。
でもそれは、同調するだけのものが自分の中にあるからであって、
干渉しないで!と、相手を拒絶しても、
「真似しないで!」といくら「鏡」に向かって叫んでも甲斐がないものである。
「鏡」は「現実そのもの」ではない。
鏡に映ったものを「現実」としているのならば、それは、現実らしさの欠片もないわけではないが、
現実それ自体ではない。
現実って何でもないんだよっていうのは、
鏡に映ったものを「現実」だと思っている場合が往々にしてあるということ。
鏡は自分の真似をするけど、鏡の真似を自分がするっていうのは、どう考えても不可能だよね。
それで唐突に思い出したけど、子供の頃、鏡の真似をしてやれと思って鏡の前で格闘してどうしても無理だったことがあったな。
でもじっと鏡の前で我慢していたらそのうち鏡の中の自分が焦れて、あるいはうっかりと動いたりするんじゃないかと息を詰めて見守っていたりした。
子供って、不思議ですよねぇ。われながら。