カマキリ型宇宙人は、地球のカマキリに対して「他人」とは思えない身内意識を持つのだろうか。

 たとえば。
 たとえばってこともないが、
 蟷螂、カマキリってどことなく人間っぽいというか、
 立っているじゃないですか。
 あれ、立っていますよね。
 這いつくばってはいないよね。
 身をもたげる、という感じがする。
 なんか考えてるんじゃないか、意識とか、もっといえば知性とかがあるんじゃないか、という感じがする。
 顔も、真上から見下ろすような配置として思い描けるものではなく、
 対峙する面の中に目があり口があるという、相・対象的な、
 ちょっとそういう意味では「虫」っぽくなさがある。
 平面としての顔面を向けてこっちを見ている、という感じがある。
 
 この広い宇宙の中には昆虫型の人間、うーん、人間もいる。
 人間?ってなんだろうな、
 つまり、人型というか、
 われわれが哺乳類型の人間だとすれば。
 
 それで、これは奇妙な空想だが、
 もし仮に、カマキリ型の人類がいたとして、地球上にも彼らそっくりなカマキリがいると知ったとき、
 カマキリ殺すな条例みたいなものを持ち込もうとしたり、するのだろうか、
 と想像すると、ちょっとおかしい。
 
 イルカとかクジラとか、殺すなっていう、ありますね。
 じゃあなんで牛や豚や魚はよくて、クジラはダメなんだよっていう反論がある。
 いや豚もだめだ、牛だってだめだとかあるけど、
 いったいその区分は何だろうかと、違和感がある。
 それはいいけどそれはダメ、というのはまったく、おかしい。
 つまり、他人事としては、「おかしい」と感じる。
 内と外、の概念というか、
 何を内として何を外とするのか、というか、
 どこまでが自分の身内あるいは自分の分身であり、どこからがヨソモノというか「他者」なのか、という区分は、
 まあ、当事者にしかわからない事情というものがあるのであって、
 それはまったくもって「自明の理」ではない。
 他人からすれば。

 このことは、すごっくおかしい。
 ちょっと考えたらわかるだろう、なんて本気で言っているの?と、すごっくおかしい。
 考えたって共有は出来ないわね。
 理解はできても共有までするだろうか。
 なるほど、そういうわけで殺すなという心境になるわけですね、ということが了解できたとしても、
 自分もまたその「殺すな」デモに加わるかといえば、加わらないよね。
 
 何かを何かと区分けして、これについては殺すな、というのは、
 これについては殺してもいい、という裏面を含むコインを打ち上げることになる。
 そんなこと、したくはないね。

 
 足立幸子という人の本を読んだ。
 おそらく彼女の本はこれ一冊きり、「あるがままに生きる」だ。
 文中において、あるがままに生きる、というと我儘に生きる、と誤解される方がいますが、そうじゃありませんよ、それは正確では
ないよ、
 あるがまま、というのは、自分のあるがまま、ももちろん含むのだが、そんなことはあたりまえであって、
 むしろ、他者のあるがままをもあなたは許容するんですよ、というニュアンスなのだ。
 
 レビューを見ると、あるがままって我儘なんじゃないだろうか、というものがあって、
 だからそれ、作中でとりわけそうじゃないって箇所があるじゃないか、とびっくりした。
 
 あるがまま、
 自分があるがまま、なのはある意味何の苦労もなく実は、天然自然にそうなのだ。
 どんなに不幸な人であれ、どんな不遇の人生、どんな困難にうちひしがれているのであれ、そうだ。
 ところが他人のあるがまま、を受け容れるとなると、
 これは本当に難しい、
 本当の意味で難しいことだ。

 本当に本当に難しい。
 でもあっさりと答えだけを言うならば、簡単なことだ、
 あなたは彼に干渉できないし、彼はあなたに干渉できない。
 そう、つまりそれは、
 そうだ、と、「干渉できない」と思い決める必要はあるんだけれども。
 決めかねる状態においては、確かに、あなたは彼に干渉ができるし、彼はあなたに干渉ができる。
 思考が現実化する、というとある面、希望的だが、
 それは楽しみであれ、苦しみであれ、喜びであれ、憂いであれ、退屈であれ、無気力であれ、比重の重さによって現実化する。
 根気強くであれ、強烈な一気呵成においてであれ、それは実現する。
 習慣であれ、努力であれ、
 怠慢であれ、集中であれ、それは必ず実現する。

 足立幸子という人は足立育朗という人(彼女の兄)を通じて知ったのだが、兄さんの方の本を読むと、
 真地球の歴史というのを読んでいると、途中だが、
 ポジティブとネガティブが争いになって核で絶滅しました、というのがそれこそ二十回は出てくる。
 毎回同じ。
 もう、毎回オチは同じ。
 何回核で絶滅するんだよ、としまいにうんざりを通り越して飽きてくる。
 
 しかし、この、ポジティブとネガティブの争い、というのは、
 繰り返し触れるにつれ、
 次第に腑に落ちてくるというか、考えさせられますね。
 
 宇宙に何かがあるのかもしれない、と「希望」的観測によって思い馳せていたわたしは、
 こういった情報に触れるにつれ、「宇宙戦争」などというものがあった、と聞くだけで、なんだかがっかりしてしまうのである。
 なんだ、それ、地球と変わりないじゃないか、と思えるのだ。
 宇宙を航行できるようになってまで戦争するかね、という気がしてしまう。
 
 で、宇宙はいったん棚上げするとして、自分自身を振り返ってみたときに、やっぱりポジ・ネガの拮抗というのは、あるんだね。
 それもこれもわたし自身である、と理性では判断していながら、どっちかっていうと「ポジ」を歓迎して、「ネガ」を疎ましがる、
という姿勢がたしかに、あるなあ、と思う。
 なにかにつけ、楽観的で、嬉しくて、不安もなく、感謝はあり、浮き浮きする、という感じを好めば好むほど、
 悲観的で、不安があり、不満があり、打ち沈む、という感じが好ましくはなくなるんだね。
 
 そう考えると、いまさらだが、
 宇宙とはすなわち自分自身の縮図、もとい、
 自分自身とは宇宙の縮図であるということが言えると思う。

 わたしは人には目もくれないという視点を理性では獲得しているが、宇宙に関してはどこか、目をくれちゃうんだな。
 現実としての親に、神を求めたりしないが、宇宙という、より広いものに対しては、神を求めてしまう。
 神が争うなんて、がっかりしちゃう。
 宇宙を行き来する存在が争うなんて、がっかりしちゃう。
 でも、
 それって結局、戻るけど、
 わたしは彼に干渉できない、彼はわたしに干渉できない、ということのことをゆるがせにしていることに起因するんだな、と思う。
 
 親にも他人にも自分を干渉させはしないけど、宇宙には干渉させるんだ。

 

 いやここまで大言を壮すると、

 とかいう、こういうことだなあ。

 なんか中学生日記みたい。

 

[http://:title]

[http://:title]