愛とは空気のようなもの。

 彼が私のようには考えず、限りある命を生きる人としての夢を見つづけているのなら、どうしてわざわざ彼を揺り起こして不幸にする必要があるだろう。

 というところまで読んだ。
「イニシエーション」(エリザベス・ハイチ)

 こないだ、久しぶりの友達に会って、2006年にも一緒に行った(友達談)という「藤田嗣治展」へ再度出かけた。
 二度目にはやはり感想が違う。
 今回は、戦犯として告発されたくだりがとても気になった。
 それから、日本を去り、フランスの田舎で小さな家を買い、そこで納得のゆくような自分の城を築き上げたという晩年が。
 あんな可愛らしい家に住めたらいいな、と思う。

 家といえば、トーベ・ヤンソンが夏を過ごした無人島や、その小さな家なんかも、とっても心惹かれる。

 それで、その友達と話していて、共通の知人である誰かさんは、自分の発した言葉が相手にどう受け取られるかということには関心をはらわない、
 自分は自分のすべきことをしているという、いわば自己満足の世界で成り立っていて、しかもその世界を成立させる反証として、返ってくるべき反応をわたしは期待されているかのように感じてしまい、わたしはそれを、どこか彼女の押し付けがましさのように受け取ってしまう、という話をすると、
 それわたしもや、と言われた。
 わたし、ってのはその友達自身のこと。

 それで、その場は、うん、だからさ、と返して次の話題へ移ってしまったが、
 いや待て、加筆訂正したい。

 たとえば、あなたが、彼女が、わたしが、
 誰かがどうも落ち込んでいる様子なので及ぶものならば力づけてあげたいという気持ちになったとする。
 それで何らかの言葉をかけることによって、その誰かはむしろ余計に落ち込んでしまうかもしれない、
 あなたの意図したこととはまるで逆効果のような事態に陥ってしまうかもしれない、
 そうだとすれば、
 あなたは失敗したことになる。
 それは成功とはいえないだろう。

 と、いうようなことが言いたかったのです。

 つまりそれは成功か失敗かという観点で物事を見ることもできるのだと。
 その誰かを力づけたかったのに、力づけるどころか余計に落ち込ませるようなことになったとすれば、
 なんていうか、
 わたしはその誰かに果たして寄り添ったといえるだろうか。いえないよねと。
 
 そこで、相手に落ち込まれたからといって、自分の力づけたいという気持ちを蔑ろにされた、といってもし憤慨するなり、あるいは自分まで落ち込んでしまうようならば、それは、まったくもって本末転倒であるとしかいいようがない。
 そしておそらくもっとも、何の意味もないことには、相手がどう受け取ったかにはまったく斟酌せずに、相手を力づけようとした自分、に満足してしまうことだと思う。

 それはほとんど盗人の行為に近い。
   
 あ、そうそう思い出した、今日読み返していたエイブラハムの本で、
 わたしたちが何をどれだけ知っているかは関係ない、あなたがそれ(未知なる情報)をどこまで理解できるかということを、わたしたちがどこまで理解できているかだと、
 いうような箇所があった。
「ラー文書」は興味深かった。
 言葉がいちいち持って回っていて、どうにも読みづらい(日常的ではない)のだが、
 そのうちの一つに、「教え/学び」というものがある。
 うん、でもたしかに、そのとおりなんだよね。
 教えは学びであり、学びは教えである。
 それはいわば、コインの両面であって、本当はどちらか一方ではありえない。
 
 友達と話していて、もう一つ思い出されるのは、わたしが以前話していた、愛があれば何だって解決する、という話が時間をおいてこういうことかな、と思えたということをいわれて、
 そんなこと言ったっけなと思いつつ、
 それもまたなんとなく流してしまったが、
 それで喚起されて思うに、愛っていうのは、
 
 空気のようにそこにある。
 空気っていうのはモノの喩えですよ。
 わたしたちは空気を吸って吐いて生きているのだから、空気がなきゃ生きられない、だから空気っていう喩えなのです。
 宇宙空間に出れば、海にもぐれば、わたしたちが生存できるような空気はない、だからそこには愛がない、という話じゃないですよ。
 つまり、わたしたちにとってあたりまえにあるものとしてたとえば空気、これが愛そのものであるということ。
 愛っていうのは何も特別なものではなくて、あたりまえにそこらじゅうに存在している。
 高尚な愛、低俗な愛なんていう分け隔てはない。
 空気はどこでどんなふうに使われてもただ空気だ。
 
 もしわたしが海で溺れそうになってやっとの思いで波の狭間から顔をだして空気を吸えたとき、それはとてもありがたいものになる。
 ところが、そうではなくただ、いま、普通のことのようにあたりまえに意識せずとも呼吸しているこの空気、これもあれも同じ空気であることに変わりはない。
 そのどちらもが、愛であることに変わりはない。
 自分がどんな状況に置かれているのであれ、空気はただ空気として存在している。
 それが愛だってこと。
 愛がない、なんていうのはまったくもって空想の産物、もっといえば悪夢の所業にすぎない。
 
 何かをジャッジするっていうのは、
 そうせずにはおれないのだけど、なんだか、それさえも愛おしい。
 未熟ささえも何だか可愛らしいんだよな。

 正直に生きたいですね。
 この世は何だってあり、なんだから。