死んだら無になるという恐怖について、ちょっと書きかけて寝落ちする話。
「イニシエーション」、面白い。
ちょっと、面白すぎるんじゃないかという懸念さえわく。
彼女が、乞食として過ごしていた過去、ふと前をみると男の乞食がいる、ここはわたしの縄張りなのにと怒って立ち退かせようとして彼の顔をのぞきこんだ瞬間、彼が「誰」であるかをわかり、彼の方でも彼女が「誰」であるかを悟り、
暗転して今、悪夢にうなされている彼女を夫が心配そうに見守る。
実は、目の前にあらわれた男の乞食とはかつて関係した男であり、今の夫でもあった。
そんなことってあるだろうか。
ここのところは本当に面白いのだが、なんだか面白すぎるような気がする。
と、いうような話を昨夜わたしの家にきた男のひとに話していると、彼は前世の記憶がかすかにあり、わたしと幼馴染みとして過ごした山での記憶があるという。
わたしは本のようには、その続きはわたしに話させて、とはならなかった。
へえー、そうなんだ?不思議ね、わたしには思い出せないなというだけに留まるのだった。
前世の記憶、というのは不思議なものだ。
なぜそんなものがあるのだろう?
わたしは、実際のところ、エイブラハムがいうように、あるいは他の大勢の誰か、がいうように、
「死などない」
ということを信じている。
いや、肉体はたしかに朽ちる。
死体は死体だ。
それを「死」と呼べるかといえば、まあ「死」と呼んでやっても構わない。
ひるがえって昔わたしは、小さな頃、死が怖くてならなかった。
死ねば無になるとすれば、なんと恐ろしいことだろう、
こうして恐ろしいと感じている自分自身さえなくなるのだ。
それはまったくとほうもなく恐ろしいことに思えた。
その恐怖をどうやって乗り越えたかといえば、
とどのつまり、もし死ねば無になるのであれ、そうではないのであれ、
今それを知ることは出来ない、というある種ひらきなおりのような心境においてだった。
死んでからのことは死んでから考えよう。
もし考えようもないのだとすれば、無になるのだとすれば、それこそ考えるだけ取り越し苦労というものではないかと。
簡単に言えば、今を無駄にしてはならない、という心持ちだった。
イニシエーションでも出てくるが、死んだあとの天国や地獄やという教えは、気休めのような、訓戒のようなものに過ぎない、というのは、
まあわかりますが、わたしはそれでもいいと思うのです。
気休めの何が悪いだろう、訓戒の何が悪いだろう、と思う。
なぜそれらを蔑む必要があるだろうね。
たいせつなことは、いまを愛しむということだ。
そうやって死についてとてつもなく恐れながらでもお腹はすき、遊びつかれて眠くなり、取るに足らないことで悲しんだり腹を立てたりするのだ。
その瞬間たしかにわたしは死を、死の恐怖を忘れている。
わたしが刹那的である、というので若い頃に友人に咎められたことがある。
将来の展望あるいは絶望に備えなければ、というのだ。
これは実際のところ、まったく馬鹿馬鹿しいものだと思う。
あなたは刹那的であるということの意味を履き違えている。
今をおろそかにして明日の注意深さがあるものか。
今の豊かさに気づかずして明日の豊かさがあるものだろうか。
心配っていうのは色んな種類がある。
死ねばどうなるかという心配も一種の心配だ。
死ねばつまるところ、いまある心配の一切がなくなる。
心配するなとは言いませんがね。
昨日乗ったタクシーの運転手さんが、やけに鄭重な対応をするひとだった。
いろんな人がいるんだなあと思いながらぼんやり車の振動に揺られていると、ふと、
楽しむ、ということは実際、たいへんなことだ、という思いがよぎった。
わたしたちは楽しみたいと願い、楽しみを求めてあっちこっちへと思いをやり行動もするが、
楽しんでばかりではいけないのだという、それに反する考えをたいへん尊重したりもしている。
それって結局不安がそうさせるんだな。
いついかなるときにも不安に囚われずに楽しむ、ということは、実のところ難事業でもある。
楽しい、というと安易なことばかりという、
何の困難もないように思われるが、そんなことはない。
いついかなるときにも楽しい気分を保つ、というのは実際にやってみればこんなに困難なことはない。
それはある意味、重力に逆らう、というようなことでもある。
アリとキリギリスだね。
わたしたちはアリでもありキリギリスでもある。
そのどちらをも今この瞬間に選ぶことができる。
原因と結果の法則。
わたしたちは、わたしたちの蒔いた種を刈り取る。
さあ、ところが、ここの点が問題だ。
わたしたちはわたしたちの蒔く種が、何であるかを知らない。
あるいは、知ったつもりでいているだけ。
幸福になる、というのは、いまこの瞬間に叶えられるものだ。
眠たいときに寝られる幸せ、息をしたいときに好きなだけ息が出来るという幸せ。
のどが渇けば好きなだけ水道の栓をひねるだけでのどを潤すことができる、という幸せ。
いまあるもの、いま手にしているもの、いま享受できるものに「気づかない」ということ、これこそが最大なる不幸の源だ。
気づかない、ということはもうまったくなんていうか、
お手上げだ。
そうしてまったく話は変わるけど、「鬼譚」というアンソロジーを今日読んでいたら、冒頭の坂口安吾の「桜の」なんとかって話が、
実にめちゃくちゃで面白かった。
支離滅裂だ。
まったくこれは素朴な素描だ。
次が、「赤いろうそくと人魚」だ。
いやこれもまた、つい最近読んでいた、山中恒の戦後児童文学がどうとかいう本、
小川未明のむちゃくちゃさについて言及している項があり、そんなめちゃくちゃなら一度読んでみようと思って読んだが、まったくめちゃくちゃだった。
おもしろい。
そこに素描はあるが、知性はない。
イニシエーションを読む合間にふと手にとって読んでいたら、
あなたの言う東洋の智慧とはこういうものだぜという感じで実に不思議な、おかしさがあった。
いやまったくわたしこそ支離滅裂で申し訳ないという感じがするが眠いのでおやすみします。
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