あなたにとって一番たいせつなものとは何ですか?と問われて思うに。

 彼は何をしにきたのだろう。
 ケニア、じゃなくて、ガーナだ、ガーナ人の彼。
 こんなことは繰り返し起こる。
 ものごとが繰り返し起きる、というのは実に不思議だ。
 たとえば、うちに居候していた人もそうだ。
 いったい、この人はなんでうちにいるのだろう?と思っていた。
 
 、に注目するから答えが出ない。
 わたしがこの人を求めたのか?などと、目の前のそのものに注目するのではなくて、
 だってそうすると、いやまったく求めてはいない、となって、五里霧中のような心持になってしまう。
 そうではなく、自分の蒔いた種とは何であったのかという、
 花や実のほうではなく種に目を向けること。
 
 わたしは自分の蒔いた種に無関心で、突如あらわれたトマトの実とかヒマワリの花とかに目を奪われて、いったい何だってこんなものが?と不思議になっている。
 どこから現れたんだ?
 わたしが求めたのか?
 招待しておいてどちらさま?など眉を顰めるのはあまりに不躾ではないだろうか、と葛藤する。

 現象にとらわれないこと。

20:38 2018/12/24
 こんな現実は自分の見たい、求めた現実じゃない、といって怒る、
 まったくおかしいな。

 藤本ひとみの「つっぱりララバイ・シリーズ」にオマケのように収録されていた話。(自分は女だと思っていたら男だったのだ!なんという衝撃)
 エリザベス・ハイチの「イニシエーション」で、これはわたしのお父さんではない、これはわたしのお母さんではない、と思ったという話。

 女のぶりっこって男を舐めていると思う話。
 ひろげれば、優等生ぶりっこってのは、よいこぶりっこっていうのは、世間を舐めている。
 自分自身を欺いている。

 敵などいない。
 いるとすれば自分だけだ。
 よそに目を向けて、敵を見出すのは、それこそ現実逃避だ。
 あれを撲滅しなければ、これを排さなければ、世の中は良くはならない、なんてまったくもってばかげている。
 
 わたしは、結婚は堕落だと思っていた。
 いまは、まあ、欺瞞だというくらい。

 お金のシークレットという本を読んでいたら、あなたにとって一番大切なもの、失いたくないものとは何ですか?
 という質問があり、
 そうだなあ、なんだろう。
「正直さ」だな、と思った。
 おのれ自身に正直じゃなくなれば人生は詰む。
 あなたはまだ躍動して生きているのに、まるでいまが余生のように腐敗し、耄碌する。
 
 しかし実際のところ、まだ十歳になるやならずの子どもだって、耄碌しかけているひとはいる。
   
 そうした現実が悲しいかといえば、悲しくはないな。
 ばかげているとは思うけど。
 
 今日「読売小町」のトピックを読んでいたら、質問者が、「1+1=2のように正解はないものだと思いますが」と投稿を結び、
「1+1=2のように正解はない?本気?正解なんてわかりきっているでしょ」というレスポンスが殺到していて、なんだか面白かった。
 いや、迷える人にとってはまったく正解はないんだよなあ。
 だってそれが迷うってことだから。

 わたしは酒もたばこもセックスも好きなだけやるよ。
 博打はやらない。
 パチンコもバカラも、人生が博打であることを思えば、ごっこ遊びにすぎないからだ。

 

 正しい答えを求めるのではなく、正しい問いを立てるべきです、なぜなら、

 正しく問えば問い自体に、正しい答えがすでに含まれているから。

 というのは本当だ。

 

 正しい問い、とは自分自身が立ち上げるもの。

 花や実に惑わされるんじゃないのよ。