家に本があふれていた頃。

   脳は補正する。
 視野には必ず盲点があるが、その黒い点をこうであろうと脳が補足した映像をわたしたちは見ている。
 また、たとえば自分の鼻は常にたしかに見えているはずなのだが、普段はそれを意識しない。見ない。

 脳はやばい、おもしろい。
 というわけで、
「シンギュラリティは近い」、を借りたはいいがすっと読めなくて途中で返却してしまった。
 面白そうではあった、実に興味深いと思えた、でも、図書館へ行くともっとすっと入り込める、読まずにはおれないような本との出会いがあり、そっちを先に読んでしまって、これはやっぱり後回しになるんだろうなと思って、意地でも読むということはせず、返却日に返しました。
 実家には本が溢れていた。
 そんなにたいそうな、えらそうな本はないが、父とわたしと弟が本を増やしまくるので、うんざりした母が本などは図書館で借りればいい、図書館に預けていると思えばいいのだと言っていて、いまようやくわたしはそれを実践しているのです。
 それに図書館で借りるメリットとは、タイムリミットがあるということ。
 二週間という借り出し期間内で読み終わらないような本とは要するに、読むべきタイミングはいまではない、ということなんだと思う。
 
 本は多ければ日に二、三冊読む。
 速読法は知らない。
 普通に一行一行、一語一語読む(たぶん)。
 まあでもよっぽど面白い、読みやすい本でもなければだいたい一冊も通読できない。
 あの、読みやすい本って何なんだろうなあ。
 たとえばマンガなら読むんだけどっていう人がいるけど、それだって文盲じゃ読めないんだから字を読んでいることに変わりはない。でもそういうひとは、本なんて何行かも読めないという。

 でもネットニュースなんかは読むんだぜ。

 どうでもいい、超ヨコだけど今日そういえば、スマホをのぞきながら、記事の文を読み上げていた職場の子が、「いままでご愛顧を賜り」というところの「ご愛顧」を「ごあいがん」と発音していて、いや似ているけどそれきっと「ごあいこ」だろうと咄嗟に突っ込みかけたが、やめておいたわたし、おとな。

 しかし別に突っ込んでも良いよなあ、なんで突っ込まないんだろう、やっぱ相手との関係性かな、などとしばらく思いがそれ、本に集中できなかったわ。


 わたしは活字中毒というのをたしか、田辺聖子で知った。
「欲しがりません、勝つまでは」という自伝的な本においてだったと思う。
 あれは大空襲の際、電車もなく、市岡高校から野田阪神まで歩いたとか、まさに地元の地名が出てきてとても近親感を覚えた。
 市岡高校って母の出身校だし。
 祖母の出身校でもあった、祖母は田辺聖子さんとだいたい同じ年代。
 母の実家は海老江にあり、わたしの実家からはどんなにゆっくり歩いても十分という程度の距離だった。
 わたしは小学生の頃、母の実家、つまり祖母の家に下校し、母が夕方仕事終わりに迎えにきてくれるのを待つのだった。

 放映されていたアニメならば、「パタリロ」とか「じゃりン子チエ」とか「ときめきトゥナイト」を観ていましたね。


 祖母の家にも本があった。
 まったく物持ちのよい祖母で、母が子どもの頃に読んだのであろう子供向けの本なんかも、いかにも古めかしい観音扉の本棚に収納されていた。
 わたしはそこで「岩窟王」とか、「赤毛のアン」とか「トム・ソーヤの冒険」などを読みました。
 ちゃんとしたハードカバーの本で、紙はしっとり湿り気を帯びており重いので、どのページであっても勝手にぱらぱらと閉じてしまわないのだった。
 そして母と叔母が使っていたというベランダを改築というより、屋根の上に無理やり部屋を作ったみたいな小さな部屋にも、本があり、そこにはプラトンとか夏目漱石とか、五木寛とかが並んでいた。
 わたしは特にプラトンに心惹かれたのだが、読めず、いまだに読んでいないが、だいたいどんな内容かということは、他の人の本を読んで知っているつもりなのだった。
 
 ファージョンという児童作家を大人になってから知ったが、その世界はとても懐かしいものだった。
 何人もの作家が、子どもの頃の本に囲まれていた至福の時間を語る。
 わたしにもあります。
 本さえあれば満たされていた時間というのが。
 わたしは貪欲なのか、子ども時代だって浴びるように本を読んでいたはずだが、いまだに子ども向けの本に惹かれる気持ちがある。
「トムは真夜中の庭で」も大人になってから読んで面白かったが、子どもの頃にはどうしても手がのびなかった。
 また、はたして子どもの頃に読んでもピンときたかしらという内容でもある。
 
 ともかく書き手は子どもじゃない。
 子ども目線で描かれる世界観が好きなのかもしれない。
 昔はそうは思っていなかったが、いまになれば。
 しかし実際のところわたしは子どもって、自分が子どもの頃から苦手だった。
 子どもなのに大人に迎合する子どもが、大人以上に子どもじみていてどうにも近寄りがたかった。
 
 東海林さだおの「ショージ君の青春記」、かの名作、
 そのなかで、漫画家を目指すのだが読者は大人、というのを明確に意識していたという箇所があり、
 へー、なんだろうそれ?と思ったのを覚えている。
 それもこれもいまになれば、
 つまりその当時まんがっていうのは子どもの読むものだという認識がいまよりよほど強かったということかもしれないが、
 大人のほうが騙しやすいよね。
 というのは、大人のほうが限定的な約束事の世界で生きている。
 もちろん大人すべてがそうではないが。
 実際こんなことにはたしかに年齢なんて関係はない。
 子どもだってある意味とても不自由な世界で適応しているともいえる。
 一番おっそろしいのは思春期だと河合隼雄が言っていたのは、なるほどなあと思う。
 
 ショージ君が、大学生のころ、下宿先で隠遁生活を送る記述、両手両足の爪を切り、鼻の掃除をしてとかいうところ、大学へは行かず映画館へ行って帰ってくるという日々、また卒業はどうしても無理だが、かといってどうしようがあるだろう、
 というとき、
 まあ、なんとかなる、という結論に落ち着いたのだった、という話がとりわけ好きだった。
 これだけさぼっていたのを何とか巻き返そうというのは、相当な努力がいる。
 それは、たいへんそうだなあ、自分にはむりだなあ、
 しかしこのまま様子を見る、ということであれば、何の努力もいらない、というわけでなんとかなるだろう、と思って何もしない。
 いかにもダメダメなんだが、そこが実に面白い。
 ここを面白いと思わせるには筆力もある、胆力もある。
 
 というのは今日一気に読み終えた本、「声に出すほど美人になるおまじない」でも、「大丈夫」「なんとかなる」がおまじないだという箇所があり、ショージ君だなと思い出してふと可笑しかった。


 しかもその本を読む前に、昼間、どうしよう、とちょっと惑いかけ、どうしようもない、いいようにしかならないだろう、と思っていた自分がいる。
 
 読みやすい本っていうのは、知っている本、を読むような感覚なのかもしれないなあ。
 わかる、わかるを通り越して知っている、知っていたはずだ、でもどうなったんだったっけ、という。