人生は博打ですよ。
20:03 2018/12/27
今朝夢と現実との狭間で見たこと。
聞いたこと。
考えたこと。
求めよ、されば与えられん、という聖書の一節。
そう、求めることだ。
まずはそこから。
正しい答えなんてものはない、正しい答えを求めるんじゃないの、
ただ、正しい問いを立てるべきだ、ということが、
求めよ。の部分だ。
6:11 2018/12/28
人生は博打だという話。
21:39 2018/12/28
「アガスティアの葉」において、占星術の真髄の一端に触れたような衝撃があった。
自己の自由意思はあるのか、それとも自らは運命の糸に支配される操り人形にすぎないのか、という話。
わたしはこれは、要するに位相によって交互にやってくる、ミルフィーユの相を呈していることから生ずる疑問なのだと思う。
事実は、 お互いはお互いを補い合い、高め合って、層を成している。
人生は博打ですよ。
博打っていうのは、どういうことかというと、
どの目に転んだところで、そこからまた賽を振らねばならないということ。
常にどっちでもありうるということ。
経緯、座標というものがある。
そこからの可能性は限られている。というか、ある程度の展望は見渡せる。
そしてまたそこから、選択の結果によってあらたな座標を獲得する。
そうするとまた、以前の地点とは違う未来、違う過去が立ち現れてくる。
その連続なんだよ。
なんていうか、あなたは、あなたの「思い」によって実はどの地点に立つことも本来は出来る。
これはいわば「神の視点」ともいえるようなもの。
何かある出来事(モチーフ)をもって、「絶望」を選ぶか「希望」を選ぶか、それは完全にあなたの手に委ねられているということ、
これが、人生は博打だってこと。
先のわからない未来に恐れ慄くのも、武者震いするのも、あなた次第だということ。
わたしたちは神から「自由意志」を与えられているの。
信じられませんか?
しかし、考えてもみて、
この先の未来が一刻一秒、違わず厳然と決まりきってあらかじめ存在しているのだとすれば、
そんな生を生きることの何がおもしろいだろうか。
不安ではないかもしれないが、不安があることだって結局はおもしろい。
先がわかる。
ということは、今ある絶望よりもっと深い絶望を味わうことでもある。
わたしは先のことは決まりきった順序に従ってやってくるのだということを信じるならば今すぐ死んで構わないと思うよ。
これ以上生きながらえる必要も必然も衝動もわかない。
おもしろいかどうか、というのは、正しいかどうか、よりよほど建設的な、生産的な、爆発的なエネルギーの源だと思う。
あなたはそうして、先のわからない博打のような思いで一歩を踏み出したとき、それまでには思ってもみなかったような、めくるめく生の煌きや喜びを見るかもしれない。
こんなことはまったく予想していなかった!
と心の底から叫ぶとき、
心の底から、だよ、そうなるとわかってたんだ、なんてうそぶくような程度の驚き、じゃないよ、
そうしたら、それがどんな事態であれ、
おそらく笑い出してしまうと思うんだよ。