「宿題ひきうけ会社」&「シンギュラリティは近い」

「宿題ひきうけ株式会社」を読んだ。
「シンギュラリティは近い」とはいろんな意味で真裏にあるような話だが、真裏にあるということはそれそのものでもあるというような、なんだか、初版が1966年なので時代錯誤なのは折込済みとはいえ、考えさせられる。
 ソロバンが達者で会社から手当てを貰っていたのに、電気計算機を導入したおかげで会社内でのポジションが奪われ、妹の同級生が将来のためソロバンに勤しむ姿を見て、無駄さ、と吐き捨てる社会人の大人がいたり。
 電話交換手は、そこにもう人手はいらないのだ、と言われて失業したり。
 いままでは残業をさせてもらえたのにこれからはいらないと言われて収入が減るとかね。
 いや、時代がすごい。

 まるっきり、AIとの付き合いをどうするか、と今も盛んに議論されていることのハシリみたいなものだ。
 しかも児童文学で。
 子どもの頃から知っていたが、手が出なかったわけがわかった、
 おもしろいと見せかけておもしろくない。
 見せかけて、というと悪意があるが、
 体裁を子ども向けにしながら、主義主張はまったくがちがちの大人目線というか。
 お金がなきゃ夢があっても実現できない社会を自分たちの手で変えていこう、とか、

 わかりますが時すでに1966年、
 なんだろう、子どもがうんざりしたり敬遠したりするのは当たりまえだと思える内容だった。
 わたしはもはや子どもじゃないからうんざりまではしないし、むしろおもしろいと思える箇所もあったが。
 
 社会に出ても役に立たない勉強よりソロバンさ、とソロバンの上達に情熱を傾け、新聞配達をして家にお金を入れ、たくさんいる弟妹のうちの一人が、サンマを一匹まるごと食べたい、と書いた作文を拾い上げ、
「うちじゃサンマを丸一匹食べさせてあげられない貧乏な家庭だって言ってるようなものじゃないか、恥っさらしな」
 と憤る母親に、
「だって事実じゃないか。おれだって一匹を分け合うんじゃなくて丸一匹食べたいって思っていたよ」
 と返しながら、サンマの一匹くらい自分の手で稼いで食べればいいじゃないかと母親とは別の意味で憤り、弟に説教してやろうといきごむヨシダ君が、とりわけ、
 作中わたしは好感がもてました。
 また、いじめは悪いことなのになぜいじめるんだと、徒党を組んでいじめっ子に対抗していく中で、
 いじめっ子とは口をきかないこと、と呼びかける手立てには唖然とするし、
 なぜいじめるのかと問い詰められて、「天国の門には人があふれかえるように押しかけているのに扉をくぐれるのはホンの一握りなのさ、俺を懲らしめるなら、のうのうと天国の門をくぐる奴らにも罰が下るべきだ」、とのたまう意外と繊細ないじめっ子君をつかまえて、
 君はそういうけど、あまいよ。
 ぼくみたいに天国の門に並ぶことさえできず、その横の田畑を耕している人間もいるのだ、
 と小学生とは思えぬ境地で諭すヨシダ君。
 つまり、勉強したくたって貧しくて勉強できない環境の人間もいるのだと。塾へ通うお金はないし、弟妹の面倒はみなきゃならないし、朝な夕な新聞配達の仕事はあるし、と。ヨシダ君は実に現世に根差した苦労人なのだ。
 君はその点、塾へ行こうと思えば行けるし、アルバイトをしなきゃ家計が成り立たないわけでもない。
 しかし繊細なるいじめっ子君は、もしぼくが天国の門をくぐれば(いわば「最終的」にたとえば東大に受かれば)、自分一人の分他人を押しのけてしまうわけだろう、試験に落ちるやつもいるわけだろう、と罪悪感にかられて気に病むのだった。
 罪悪感にかられて気に病む、まったくこれは魔性のものである。
 
 宿題ひきうけ会社が設立された頃(わりとすぐにあえなく解散の憂き目にあうのだが、その後も話は続く)、二十円で宿題を?なら弟たちの分も頼むよ、ほら百円(という五人前にもなる大金。初任給が二万五千円の頃の話だ)となにせすでに新聞配達でお金を稼いでいるヨシダ君だからあっさり払うところも、わたし的に男前ポイント。
 学校の勉強なんて社会に出て自分を助けてくれないさ、もっとお金を稼げる手段について実力をつけなくちゃ、というヨシダ君ですから。
 その手段とは時代の波を受けてソロバンだったりするわけだが。

 作者が冒頭、二宮金次郎を嫌いだと担当教師に言わせているところを見ると、このへんに何かありそうだがあいにくわたしは二宮金次郎を知らない。

 しかし新刊によせて、という作者のアイヌに対する謝罪の言葉などを見るに、
 いい人でいたいのだなあと思ってせつない気がする。
 わたしはたしかにアイヌではないが、謝罪されてもなあ、と思う。
 アイヌ、これを弱者の立場にいつまでも留め置く呪いの言葉のように感ずる。

 同じく児童向けなのだが、山中恒の「赤毛のポチ」はすんなりと子どものときにも読めた。
 これはまた、ひじょうに暗い話なんだけど、
 おもしろくないわけじゃない。
 わたしはこの本においてはじめて、とある文章がまざまざと力強く浮き上がりこれは本当のことだ、とつくづく感じた経験がある。
 大人になってその一文を追い求め読み返したところ、どこにも箇所がなくてあっれっ?となったことがある。
 たしか?犬が死ぬシーンだったと思うのだが。
 パラレル・ワールドなのかなあ。
 手塚治虫の「火の鳥・犬の面を被せられた篇」でも同じことがあった。
 いまでいう韓国・百済を脱出する際、お婆と一緒に海をわたるシーンの前後に、亀の甲占いかなんかをする。
 子どもながらに占いでなにがわかる、と思いながら読んでいると、
 お婆が、卦はいつでも正しい、それを読み間違えるのは人間の方さ、と言うのだ。
 あっと思いましたね。
 しかしそんなシーンは、読み返したところ、ないのである。
 なんなんだろうなあ。
 記憶を取り違えているのかなあ。